第二章 三話
初めにその変化をいち早く察したのはミラーだった。
ミラーは何かうっすらと周りの気温が下がったような変な寒気を感じた。
その時、首筋から背中にかけてぞわっとするような奇妙な感覚もあった。
ミラーは、お日様が雲で陰ったのかと思い空を見上げたが、空は真っ青で雲一つ見当たらない。周囲に風もほとんどなく穏やかな気候のままだった。
ミラーは何も変わった事がなくいぶかしく思ったが、今までの状況と全く異なる点に気がついた。
それは周囲の森から物音が全く聞こえなくなっている事だった。
少し前までは木々のざわめきや川のせせらぎ、鳥の鳴き声や小動物の動く気配などが聞こえ、森の中にいるという存在感を自然と感じていられたのだ。
しかし今の何の物音も聞こえない状況だと、目を閉じてしまうと自分がどこにいるのかすら分からなくなってしまう。
元の平和な世界が異質な世界に変貌してしまったかのようだ。
ミラーがみんなはこの事に気づいているのかと思って見てみると、話に夢中になってまだ何も気がついていないようだった。
世界から完全に切り離されて、自分達だけ孤立してしまったような怖ろしい奇妙な感覚がミラーを襲う。
ミラーがこの異様さをみんなに教えようと口を開いたその時に、川の対岸の少し離れた岩の上にいる白い何かがミラーの目に入った。
それは白と言うには恐れ多いほどの純白の、言うならば白銀の輝く毛並みでその身を包んだ大きな獣であった。大人の背丈ほどある大きさで、犬の様な四肢を持つその獣は、岩の上に座ってこちらをじっと静かに見つめている。
ミラーはその獣を認識した瞬間、とてつもない恐怖に囚われ身体が動かなくなってしまった。本当なら悲鳴をあげて仲間の元に駆け寄りたいのだが、声は一言も出せず足もまったく動かなくなっている。
全身から血の気が引き気が遠くなり始めて、前のめりに倒れそうになったところで、ミラーの様子にいち早く気づいたミルトが抱き留めてくれた。
「わっ!大丈夫?ミラー」
ミラーはミルトの腕の中でミルトの存在を直に感じることができ、いくぶん恐怖心が和らいできた。ちょうどミルトの身体が盾になり、あの存在を直接感じなくてすむようになったのも良かったのだろう。さっきまでは目を逸らそうとしても、どうしても引き寄せられるような感じで、あの獣から目を離すことが出来なかったのだ。
ミラーは次第に身体のこわばりが解けてきたかわりに、今度は激しい震えに襲われた。だが次第に考える余裕も少し出てきた。
あれはいったいなに……?犬にしては大きすぎるし、あの姿形はまるで物語に出てくる狼のよう……。でもあれは実在するものなの?じゃあ今見たものは幻?いえ、見間違いや幻覚であんな恐怖を感じるはずがないわ。そう、あの感じは、死の瞬間の恐怖と同じ位の感覚なのではないかと思う位だわ。
ミラーが青い顔のまま震えているので少年達が騒ぎ始めた。
ミラーは力を振り絞って声を出した。
「……待って、私は大丈夫……。それより、あんまり騒いじゃ……駄目……」
ミラーは何とか足を踏ん張り自力で立った。今まではミルトに体重を預けっぱなしだったのだ。
ミラーの声を聞けたミルトも少し安心して、ふうと一息ついてミラーに話しかけた。
「どうしたの、ミラー。具合でも悪いの?」
ミルトはそう言ってミラーから身を離そうとしたが、ミラーは逆に必死にミルトの腕を胸に抱え込んで、決して離れないようにしがみついてきた。
ミルトはミラーにかつて無いほどくっつかれ、そして腕を彼女の柔らかい二つの胸の谷間に挟まれて大いに照れていたが、ミラーはそれどころではなかった。
ミラーはか細い声で少年達に言う。
「あのね、あまり驚いたり騒いでほしくないのだけど、ミルトの後ろのほう、川の対岸に……何か怖ろしいものがいるわ」ミラーはそう言いながらも決してその場所を見ようとしなかった。
目を伏せていたミラーの耳に届いたのは、最初の少年達の怪訝そうな返事の声と、その次の少年達の鋭く息を呑む音だった。
さすがに野山や森林の中を駆け回っている少年達は気を失ったりはしなかったが、その恐怖の度合いはやはり同じものだったらしい。
ミラーは胸に抱きかかえているミルトの腕が、一瞬で固く緊張したのが分かった。
キルチェはあれを見た瞬間に腰が抜けてそのまま地面に座り込んでしまった。
「あ、あれは、何……です?」キルチェの声は震え、喉がこわばっているのかあまり声が出ていない。
トーマは首だけを獣の方に向けた不自然な姿勢で立っている。
「んぐっ、分からない。……でもあれは普通じゃない……」トーマは何とか答えた。
二人は、お互い話をして仲間がそばにいるという事実を確認しておかないと、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
いったいどの位の時間が経過したのだろう。長い間こうしているような、それともほんの一瞬の出来事なのかもしれない。
ミラーは、トーマとキルチェの息遣いが次第に短く荒く苦しそうになってきているのが聞こえ、それが心配でしょうがなかった。
ミラーが身体を寄せているミルトのほうは、身体は緊張していて胸の鼓動もいくぶん早いが、呼吸は自分を落ち着かせるように一息一息深く吸い込んでいるのが分かる。
ミラーは心からミルトを賞賛していた。
貴方はあれを見ていてもこれだけ冷静でいられるのね……。
ミラーはとにかく他の二人の窮地を救うべく声をかけた。
「ねえ、トーマ、キルチェ、身体が……足が少しでも動く?動くなら何とかミルトのそばに来た方が良いわ。ミルトには悪いけど、ミルトの後ろに隠れるようにしたらだいぶ違うと思うの」
ミラーの声が聞こえたのか彼らの返事はなかったが、ミラーの耳にトーマの半歩ずつ足を動かす気合いの呟きと、キルチェの砂の上を這いずる音が聞こえてきた。
そして何とかミルトの影に入れた二人は、次第に呼吸も落ち着いてきて、だいぶ楽になったようだ。
ミラーは取りあえず少し安心できた。
「ねえ、まだ……いるの?」ミラーはまだ周囲の気配が変わってないので、いるのは何となく分かってはいたが、ずっと黙っているミルトに問いかけた。
「……うん、いるよ。さっきからずっとこっちを見てるよ。四つの蒼い瞳でね」ミルトは答える。
「えっ、目が四つもあるの?」ミラーはあの獣をひと目見ただけで意識がもうろうとなっていたので分からなかったのだ。
「うん。四つの蒼い瞳に純白の毛並み、しなやかそうな体躯と二本のふさふさした尻尾。とても綺麗な獣……あとこっちを見る目がとても優しげな感じがする。雌個体なのかな?でも普通の獣とは思えない。この感覚は神々しいとでもいうような……」
ミルトは強い意志のこもった瞳でその存在を見つめていた。それが自分の意志なのか目がそらせられないだけなのか分からないが、少しの動きも見逃さないようにしていた。
もしあの目の前の獣がこちらに牙を剥いたら、為す術もなく全員殺されてしまうだろうとは本能的に分かっていた。しかしそれでも背後の仲間を守る為にミルトは気丈にもこの神々しい気配に立ち向かい耐えていたのだっだ。
純白の毛並みの獣は敵意のない眼差しで、ミルト達のことをしばらくの間ずっと眺めていた。
だが、その獣はさよならの合図のように二つの尻尾を左右に振ると、光のきらめきを残して森の中の空気に溶け込むように消え去っていった。
すると突然世界が元に戻った。
氷の世界に閉ざされていたようなあの寒々しい感覚が、ちゃんとお日様の暖かさや、足元の砂地の温かさが感じ取れるようになってきたのだ。
彼らの耳に、川のせせらぎ木々のざわめき、鳥達の鳴き声が助かったという安堵とともに聞こえてきた。
あの獣が消えた瞬間を見ていない三人も周りの空気が変わったことですぐに分かったようだ。
みんな一斉に大きく息をついた。
ミルトはミラーの背中を優しく叩き、もう大丈夫だと合図をして腕を解放してもらうと、そのままその場に座り込んだ。長い間同じ姿勢で気を張っていたので身体の節々が固くこわばっている。
精も根も尽き果てたように座り込むミルトを心配してミラーが覗き込んで訊いてきた。
「大丈夫?」
「うん……、なんとかね」
ミルトはミラーに微笑みを返して答えた。
「……そっちは?」ミルトは正面に座り込んで来たトーマとキルチェに訊ねた。
「俺もなんとか大丈夫だ。なんかすげえ疲れてるけど」
トーマはあぐらをかいて座りさらに膝に肘までついている。もう動けないといった様子だ。
「僕も……。でもまだ足に力が入らないけど……」キルチェは憔悴しきった表情で一生懸命こわばった足を揉んでいた。
ミラーはミルトのそばに立ちあの獣がいた辺りを眺めていた。
ここにいる全員がずっと気にしている事をキルチェが一番初めに口に出した。
「……ところで、さっきのは何だと思います?」
思い返すだけで一瞬みんなの身体に軽い震えが走った。
「う~ん……感じとしてはめっちゃ大きな犬って感じか?まあ雰囲気って言うか迫力はまるで違うけどな」
トーマは目を閉じ思い返しながら言った。
「あれは犬というより狼ね。伝承記の挿絵で見たのがちょうどあんな姿形だったわ」ミラーが答えた。
「おおかみ?それってどんなのですか」キルチェが興味ありそうな目を向けた。
ミラーもミルトの隣の砂地に足を折って座り話を始めた。
「あれは大昔に赤い月から現れた異形の魔獣を青い月から降りてきた白い狼が退治したという話だったわ。漆黒で毛の無い肌を持ち皮膜状の羽で飛び回る不気味な人型の魔獣が、人里を襲っては人間を食べていたの。人々は昼間はなんとかその化け物に対抗出来たのだけど、夜になると為す術がまるでなかったの。それはその化け物が夜になると闇に溶け込み姿が全く見えなくなってしまうから。その時の人々は朝日を見るたびに今日を生き延びた事を神々に感謝したそうよ。追い詰められた人々は青い月に祈りを捧げていたわ。それは赤い月は悪しき者が住む場所で青い月は善き者が住む場所と考えられていたから。恐怖の夜は続いていたけど、いつしか各地で闇の中で白く銀色に輝く大きな獣の噂が広がっていったの。その獣は精悍で強靱な体つきをしていて、その走る様はまさに一筋の光りのようで、その光りに当てられた化け物はかき消すように消えていったそうよ。そしていつしか人々は平穏な夜を取り戻すことができたの。そしてその獣は星狼フェンリルと呼ばれ人々に敬われるようになった、という話ね」
「ははあ、それならさっきのがそのフェンリルなのかな?」キルチェの目は輝いている。
黙って聞いていたトーマが口を挟んだ。
「でもよ~、さっきのはすげえ怖かったぜ。あんな思いをしたのは初めてだよ。」
しかしミルトはさっきの体験を思い返しながら少しは自信があるような口調で言った。
「いや、あれがその話の狼か分からないけど、あの獣は僕らに害意を一度も持っていなかったと思うな。何て言うのかな……?興味があったから少し立ち寄ってみたというか、もしくはたまたま散歩のついでに見に来たような感じがしたよ」
日が少し傾き始め、一陣の風が森の木々を一斉に揺らした。気の早い夕風が吹き始めたようだ。
その音にみんな少し怯えた様にびくりと体を震わせた。
考え込んでいたキルチェが腑に落ちないといった感じで言い出した。
「でも、ミルトのその言い分ですと何で今更って感じがしますね。だって確かにこの森は外界に近い異質な場所と言われてますが、今まで一度もこんな事はなかったですし。けっこう僕らも長いことこの森に出入りしてますからね。今回に限って何か変わった事なんて……」
キルチェがそこまで考えながら口に出していると、はっと何かに気が付いた。
キルチェの視線の先にはミラーの姿がある。
みんなもキルチェの言葉を聞いてその事実に思い至ったようだ。
「じゃあ、ミラーが……」トーマがそう口に出しかけたが、ミラーの青ざめた顔に気づき慌てて言葉を飲み込んだ。
ミルトは焦っていた。確かに今回に限っていうと変わった点はミラーの存在だけだった。しかし、もしそれだけが原因になっていたらミラーは自分で自分を責める事になるかもしれない。自分のせいでみんなをあんな怖ろしい目に遭わせてしまったとなったら、不可抗力だとしても普通ではいられないのではないか。
ミルトはミラーの泣き出しそうな顔を見ていられなくて、仲間の助けを期待してトーマとキルチェを見回した。しかしトーマは目を泳がせておろおろしていて役に立ちそうにない。キルチェはずっと何かを考え込んでいる。
ミルトはキルチェの機転にすがるようにじっと見つめた。
キルチェはミルトの視線に気づき、意志をすばやく察知して、すぐに明るい声で言い出した。
「ふ~む、やっと分かりましたよ!あの白い獣が何故今日現れたのかを」
ミラーは少しびくっとした。自分のせいだと糾弾されるのではないかと思ったのだ。
キルチェは自信満々の口調で言う。
「その理由は……、この森の、この時期に、更にこの場所でミルトとミラーが二人揃って言い争っていたからだと思われます。良いですか?ミルトとミラーの二人がですよ」
ミラーは少し救われたような目でキルチェを見た。
「もしミラーだけが原因なら、この森で僕らと合流する前に出会っていてもおかしくありません。しかしあの獣が現れたのはミラーがミルトに詰め寄っていた後のことです。この事からあの獣はミルトとミラー二人の存在に引き寄せられたとも言えるでしょう。しかも僕たちも大変な過ちを犯してました。ただでさえこの森は不思議を目にする場所なのに、僕らはレオニスさんの話に興奮して狂迎節なんかにこの森に入ってしまっている。この時期からは特に獣の力が活性化されると言うのにです。さらに言うならばこの今いる場所も原因の一つでしょうね。言うまでもなくここは川のそばです。水はミラーの力を活性化させるでしょう。それにここは砂地です。お日様の光りで、もしかしたらここはこの森で一番熱を持っている場所なのかもしれません。そして熱はミルトの火の力を活性化させるでしょう。そういう訳で、こんな二人に適した場所で二人が熱くいちゃついていたら、あんな神々しい獣でも何事かと見に来てもしょうがないのではないでしょうか」
最後は茶目っ気たっぷりのキルチェの言葉で真剣に聞いていたトーマが吹き出して笑った。
落ち込んでいた様子のミルトとミラーもつい笑ってしまった。
一度笑いがおきてしまえば、それが増幅されていき皆で笑い出した。
やっといつも通りの明るい雰囲気になった。
すかさずトーマが明るい声で提案する。
「よし!ポム爺さんに訊きにいこうぜ。さっきの獣の正体をさ。きっとポム爺さんなら分かるよ、大賢樹様だもんな!」
みんな賛成してポムの家に向かう事になった。
そうと決まればこの森からさっさと出ることにした。すでに森は日の光を拒む様に暗くなり始めている。足元が悪い苔の生えたでこぼこ道を、急ぎ足でとにかく一番近道をして帰った。
トーマが先頭を歩き、次がキルチェ、ミラー、最後をミルトがミラーをかばいながらの行進だった。みんな黙々と歩き続け、ふもとの明るい道を見つけると一斉にほっとした。あんな事があってから慣れていたこの森が少し怖いと感じていたのだった。
北の廃墟森から城の内堀を回って大通りに着く頃には、すでに日はだいぶ陰り始めていた。これからポムのところに行ってもすぐに帰されてしまうだろう。
子ども達はまた明日の朝改めて行くことに決めて別れた。
だが今夜は全員があの不思議な白い獣の事で寝付けない夜になるのは間違いなかった。
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