第二章 二話
ミルトは深い森の中を歩いていた。
この森と同じ様だがとても神秘的な雰囲気を感じさせる森だった。
ミルトは何故か大人の背格好になっていた。すらりとした体格で背も高く胸板も厚い。
彼は動きやすそうな鋼の胸当てと上質な革の外套を着こなし、腰には長剣を佩き、背には弓と矢筒を背負って立派な狩人の姿をしている。
やがて彼は森を抜け大きな泉に辿り着いた。
その水は限りなく純粋に青く透き通り、向こう岸の水面には鏡面で反射したような逆さまの世界が鮮明に映っている。
ミルトは、このとても美しい風景に心を奪われてしばらくそのままそこに佇んでいた。
そうしていると、いつの間にか白い靄が水面上に出てきていて、その泉の周りの景色はさらに幻想的になってきていた。
すると彼の見ている二十歩ほど前で水面が光り輝き、泉の水が人の背丈まで盛り上がってきた。
靄の中でその水塊は人の形を取り、次第に女性の姿になっていく。
その輝く靄の中で、その水塊は長い銀の髪が印象的な一糸纏わぬ裸身のとても美しい女の人の姿に成り代わっていった。
ミルトは目を見張った。
すぐにそれが大人の姿になったミラーだと分かったからだ。だけど肝心の膨らんだ胸やくびれた腰の所は靄に隠れて何故かとても見えにくい。
彼女は微笑みながらこちらに向かって水面を歩いてくる。
彼は泉の水際ぎりぎりに近づき彼女を待った。彼は息を凝らして生唾を飲み込みその瞬間を待った。
もう少しでミラーの全てが見える!
そう思ったら、その瞬間ぱちっと目が覚めてしまった。
目を開けると、もうそこはいつもの森で、隣には仲間達がすやすやと眠っていた。
ミルトは心から残念でならずもう一度続きを見たいと願いながら目を閉じた。しかし胸の鼓動がかなり早まっていて眠気は一向に訪れない。
ミルトは諦めて溜め息をついて起き上がった。
見てみたかった……。
彼はもう残念でならず、あの時のミラーの裸をああだこうだと想像してみたが、やはり靄がかかるようにはっきりとは想像できなかった。
ミルトは腹立ち紛れに、横で穏やかに寝ている仲間の顔に砂でも振りかけてやろうかと思った。
砂を取り仲間の顔の上に手を伸ばしてにやりと笑みを浮かべた。
その時、ミルトの視界の端に遠くの茂みが大きく動いたのが映った。
何だ?大きい……!?
あの茂みの動きからしてだいぶ大きさのある生き物だと分かった。
この森で小動物以外の生き物と遭遇したことがないミルトはかなり緊張した。
このまま騒がないほうが良いか、仲間を起こして逃げ出したほうが良いかを迷った。しかし幸い今はその場所からだいぶ離れているので、まずは正体を見極めてから対処しようと決めた。
ミルトはとにかく仲間を起こそうとしたが、遠目から緑の木々の隙間を何か青いものが動いているのに気がついた。
青色……?そんな動物なんて……。
ミルトが不審に思ったその時に、あれは人の姿だと思い当たった。
この森で自分達以外の人とこの森で出くわしたのは今回が初めてだった。次第に分かってくる人影、背が低いので大人ではないのかもしれない。もしかしたら自分達と同じくらいの年齢か。
「おい、みんな起きろよ。だれか来るよ」
ミルトは仲間を揺り起こして回って、そして改めて森の茂みから出てきた人影に目を向けた。
そしてその人影の正体が分かると、唖然として目を見開き口を半開きにした。
仲間が目を覚まして初めに見たのはそのミルトの間抜けな顔であった。
「……んん、なんだって?ぷっ、なんて顔してんだよ!」トーマは吹き出した。
「うん。ふふっ。何を見たらそんな顔になるのですかね?」キルチェも笑いながら分析していた。
ミルトはその表情のまま呟いた。
「……ミラーだ」
それを聞いたトーマは困ったような、または哀れんだような目でミルトを見て言った。
「そんな訳ないだろ、こんな所に。はあ、恋い焦がれて幻まで見るようになったか」
トーマは肩をすくめ、同じ様にミルトの視線の先に目を向けた。
すると紛れもなくミラーの姿がそこにはあった。
トーマは前のめりの姿勢になって、自分の目を疑い何度もまばたきをしたていたが、やはり見間違いなどではない。
「本当だ……」トーマも唖然としている。
キルチェだけが冷静に現状を把握し仲間達を見て頷いていた。
「ふむふむ。人は信じられないものを見ると皆こんな顔になるのですね」
少年達がそんなことをしている間に、ミラーは悠然と歩いてきて少年達のいる川の砂地の対岸にまでやって来た。
ミラーは辺りを見回しながら、この砂地の風景を楽しそうに堪能している。
驚きの覚めないミルトが声をかけた。
「……ミラー、どうしてここが?それにここまで一人で……?」
「うん、そうよ。でもけっこう奥だったわね。疲れちゃった」ミラーは事もなさげに言う。
「疲れたって……」
ミルトはこの森の険しさと危なさを思い返してみて、とても信じられないと言った感じで呟いた。
ミラーは両腕を広げてとても楽しそうに言う。
「でも、この場所ってとても素敵ね!あんなに陰気な森の中にこんな場所があるなんて。ねえ、そっちに行っても良いでしょう?」ミラーは小首を傾げて訊ねた。
「えっ、うん。もちろん」とミルト。
ミラーは靴を脱ぎ素足になった。そして靴を片手に持ち小川の中に入ると、服を濡らさないようにと裾をたくし上げて楽しそうに歩き始めた。
ミラーは何も気に止めていないようだが、裾をたくし上げた拍子に彼女の白い太ももまで見えてしまい少年達はどきっとしていた。
ミルトはさっき見た夢のせいで、さらに動揺をして顔を真っ赤に染めた。ミラーのすらりとした白い太ももがまるで輝くように見えたのだ。いつもならそんなミルトを他の二人が見逃すはずはないのだが、彼らも同様に感じたのか気まずそうに黙ったままだった。
ミラーは砂地に上がってきて少年達の輪に加わった。
「わあ!暖かい」
ミラーは一人ではしゃいでいたが、みんな何故か目をそらすようにして黙っているのを不思議に思い話しかけてきた。
「どうかしたの?」
顔を赤くしていたミルトが慌てて答える。
「えっ、いや、驚いているんだよ。ね、ねえトーマ?」
「お、おう!そうだよ。まさかミラーがここに現れるとは思ってもなかったからなあ」
トーマの声も若干動揺しているようだった。
「そう?なら良いのだけど……」
ミラーは皆の態度を見て少しすねたように言った。
「もしかして私お邪魔虫だったかな」ミラーはつま先で砂をいじっている。
ミルトが急いで本格的に弁解を始めた。
「邪魔になんかしてないって!本当にびっくりしただけだよ。こんな危ない森に女の子が一人で来るなんて」
ミルトはずっと疑問に思っていた事を訊ねた。
「それにしても、よくこの場所が分かったね。ミラーはこの森に入ったの初めてでしょ?この森の中で人捜しなんて絶対無理だよ」
キルチェがそうだと何度も頷いた。
「うんうん、不可能ですね。僕らは長年の経験もあるし地図すら作って、大体の場所は分かってるつもりですが、でももしはぐれたら前もって決めてある集合場所に向かうしかないですもん」
トーマが腕を組み首をひねる。
「それじゃあ、ミラーがこの場所で俺たちを見つけたのは、すごい奇跡的な偶然ってこと?…ミラーはものすごい幸運と勘を持ってるんだな」
ミラーは機嫌を直して笑顔で答えた。
「ううん、勘じゃないわよ。初めはミルトがどこにいるか分かりにくかったけど、この場所に来てから位置がはっきりと分かったわ」
「分かったって?」トーマは分からない顔だ。
キルチェは即座に思いついたようだ。「あっ、精霊術を使ったんだね。へえ、そんなことも出来るんだ」
ミラーは少し得意気な口調で言った。
「そう。精霊の使役の遠隔操作と意識の付与の応用で出来るの。でもまだ私は狭い範囲で短時間しか出来ないけどね。しかもそれを使って探せるのは特定の人だけ」
ミルトは感心して聞いていたが、そう言えばと思い当たった。
ああ、あの昼寝をしていた時の不思議な感覚はそれだったんだな。川の水に見られたってのもあながち外れてなかったんだな。
ミルトはそんなことをぼうっと考えていたが、ミラーがこちらを睨んでいるのに気がついた。
ミラーはミルトと目が合うと、腰に手を当ててミルトに文句を言い出した。
「もう!それにしてもミルトったら!すぐに約束を破るんだから。昨日ちゃんと約束しておいたのに~」
ミラーは怖い顔を作ってずんずんとミルトに近づいていく。
ミルトはおろおろと後ずさった。未だにミラーがそばに寄る事に照れと抵抗を感じているのだった。
しかし、ミラーはそんなことは全く気にせず詰め寄って来る。
ミルトは歩み寄るミラーを止めるべく慌てて弁明を始めた。
「分かった、分かったってば。ごめん、本当にごめん!これには深い訳があるんだよ……」
「なに?」ミラーの足は止まったが眉は上がったままだ。
「うんとね、ミラーと約束したのは昼前だったよね。ミラーは用事で帰っちゃったけど、僕はあの後トーマ達と合流して祭りの街を色々散策してたんだ。それでその時にすごい立派な狩人の武装をした人を見かけたんだよ。商隊の人と話をしてて旅支度を解いているとこだったんだけど。それがすごく格好いいんだ!僕らの背丈ほどある長剣を背負ってて、見た事無い弓を腕に付けてたりして。そんでその人の持つ雰囲気がなんかこう……、とにかくすごいんだよ!ねえ?」
ミルトは瞳を輝かせて仲間の方を見た。二人も深く頷き同意を示す。
「うん、あれぞ、男の中の男ってやつだな」トーマは腕を組み何度も頷いている。
「あの歩き方、その立ち振る舞いを見ても尋常の人物には見えませんね。物語に出て来る歴戦の勇者とはあんな感じなのではないかと思うほどですよ」キルチェも目を閉じて楽しそうに語っていた。
三人が三人とも物思いに耽っているのでミラーはしばらく毒気を抜かれたように見ていたがふと気づいた。
「ちょっと、それじゃあさっきの答えになってないわよ!」ミラーはまたミルトに詰め寄った。
ミルトはまた後ずさりしながら答える。
「それで、それで、遠目で見てても惚れ惚れするような人と、僕らは直接話をすることが出来たんだよ。その狩人の人が商隊の人達から別れて一人になってからも僕らがずっと眺めていると、目があったその人が僕らに近寄って来てこう言ったんだ。『何か腹が減っちまったよ。この辺で静かに飯が食べられるところはないか?美味いにこしたことはないがな』って。それで僕らはその人をシーメルおばさんの料理屋に連れて行ったんだ。それで僕らもついでにごちそうになってね」
「そう、あの肉の柔らかさといったら……」トーマはあの時の料理を思い出してごくんと唾を飲み込んだ。
「へえ、そうなんだ美味しそう……って!」とミラー。またミルトを睨む。
「あ、ああそれで、その人はレオニスっていう名前なんだけど、そのレオニスさんのしてくれる話がすごい面白いんだ!今回は西の街ウスエから商隊の護衛をかねて来たらしいんだけどさ。それでレオニスさんは今四十歳でもう二十五年も狩人やっているんだって。分かる?その歳でその経験ってことは僕らの年代からもう狩人をやってたんだよ。とにかく色々質問したんだけど何でも教えてくれてさ。僕らが想像も出来ない景色とか色んなの獣との戦いとか!そう言えばミラー、〈海〉って知ってる?反対側の見えない程の深く大きな水たまりで風もない時も常に揺れ動いているんだって。しかもそこの水は綺麗でとても澄んでいるだけど飲めないんだってさ。別に毒って訳じゃないんだよ。その水はものすんごく塩っ辛いんだってさ!想像できる?そんな水が目の前いっぱいに広がっている光景なんて。もしそのそばに住んでいたら料理には困らないよね。だってただでいくらでも塩水が使えるんだから。それに天高く雲に突き刺さるほどの山とか見渡す限り何もさえぎるもののない大平原とか……」
ミルトは雄弁に語りまくる。
「ちょっと待って」
ミラーは手を挙げて、ミルトの口から溢れるように湧き出る話をせき止め、溜め息をついた。
「はあ……。分かりました。そんな話を聞かされてじっとしてられなくなったって訳でしょう?」
ミルトはまだ話したいことが山ほどあったが、とりあえず頷いた。
ミラーはもうミルトを解放してあげる事にした。
「ふうん、レオニスさんか。私もお話を聞いてみたいわね」
「だろ?あの人もとりあえずこの街に滞在するみたいだしな」とトーマ。
「あっそれにレオニスさんは魔法の心得もあるみたいだよ。ポム爺さんのことも知ってて今度挨拶に行きたいって言ってたよ」とキルチェ。
「あら、それならそのレオニスさんとポムお爺様の会話も聞いてみたいわ。とても面白そう」 ミラーは目を輝かせて言った。
「ははあ、いいですねそれ。とても興味深い話が聞けそうです」キルチェも弾んだ声でのってきた。
それならば今度レオニスさんをポム爺さんの所に案内をしてあげればと、みんなでわいわい楽しく話し合っていた。
だがその時突然、ミルト達の周りに異変が起きたのだった。
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