第一章 六話

ミルトは彼らと別れるまでに、なんとか二つの約束を取り付けることが出来た。


 その約束とはまず、あの女の子ミラーとの話題はマレスとポムだけにする事と、そしてこれからは、なるべく他の話題を探す努力をする事である。


 しかしその代わりに今日はミルトが母親にあの女の子の話をしない事を約束させられた。明日三人揃ったところでその事を皆で報告することにされたのだ。ミルトはそれも嫌だったが、今日はもう心が疲れ切っていたので、その条件を飲むしか手はなかった。


 じゃあまた明日と二人と別れて、やっとミルトは一息つく事が出来た。


 いつの間にか夕暮れ時になり風も出始めていた。


 帰路につく者もあちこち見られる様になり、二人で寄り添う様にして帰る者や一人寂しく肩を落として帰る者もいた。


 遠くではまだ音楽が鳴り響き、祭りの賑わいを見せている。たぶん夜を通して騒ぐのであろう。


 強い風が道に散らばった花を勢い良く吹き飛ばし花びらを天高く舞い上げている。木々が時たま強い風に揺さぶられ奇妙な音をたてていた。これはこの地方特有の夕風というやつだ。


 これは慎月祭の時期に吹く大風で、特に夕暮れになると急に吹き出すので注意が必要になる。


 ミルトはこの風を体で受けると、風が早く家に帰れと急かしているような感じを受けるので、いつも駆け足で帰っていたのだった。


 ミルトが家に帰る途中の道で、ユセイラ川に架かる橋が見える所を横切ろうとしていると、その橋の手摺りから身を乗り出すようにして遠くを見つめている小柄な人影に気づいた。


 何となく胸がざわめき、少し気になって良く見てみると、あの綺麗な青い服で銀色の髪を風になびかせているので、すぐにミラーだと分かった。


 ミルトはその場で立ち止まり、離れた場所からミラーを見つめた。


 彼女は風の強い橋の上の真ん中で何故か立ち止まり、どこか遠くの一点をじっと見つめている。


 ミラーは髪と服を風の吹かせるままに任せ、ずっと何かに気を取られているかの様だった。  


 ミルトはどうしたんだろうと思い、彼女に気づかれない様にそっと、その視線の先が見通せる場所まで近づいて、彼女が見ている方角に目をやった。


 するとそこには、その橋から少し離れた所に立っている背の高い樹の枝に引っかかって、風に揺り動かされている空色の帽子が見えた。


 彼女は心配と悲しみが混ざった様な表情でそれを見つめていたのだった。


 ミルトはすぐに分かった。


 この強い夕風のせいでいきなり帽子を飛ばされたのだろう。この風の強さならもうすぐにでも目の届かないどこか遠くに吹き飛ばされてしまってもおかしくはない。


 彼女はもう途方にくれているように見える。


 ミルトはそんな彼女の表情を見ていると、とても胸が痛み何とかしてあげたいと強く思った。


 ミルトは迷う間も無く意を決すると、とにかくあの帽子が飛ばされない内にと急いで帽子の引っかかっている樹の根元まで駆け寄った。


 橋の上の彼女がはっとして自分の事を見つめているのが分かる。


 ミルトは意識をその彼女の視線から何とか逸らし、頭上の帽子を取る方法を考えた。


 帽子は自分の背の何倍もある高さの枝に引っかかっているのでいくら跳んでも届かない。樹に登っても細い枝の先に引っかかっているので多分無駄だろう。そしていくら周りを見渡しても、丁度あそこに届くようなそんな都合の良い長い棒の様な物もない。


 帽子は強い風にあおられて今にもどこかに飛んでいってしまいそうだ。


 ミルトは心を決めた。

 こうなったらもう風を操るしかない。


 そう考えたミルトは彼女と周囲を見て、他に誰も見ていない事を素早く確認すると、帽子の方向に手を伸ばし目を閉じた。


 そして意識を集中しようとしたが、ふとポムの忠告が頭によぎった。

「人前で力を使ってはならぬぞ」


 ミルトは少し不安になったが、頭を強く振りその不安を打ち払った。


 彼女は友達だ。大丈夫さ、きっと秘密にしてくれる。


 ミルトは自分に言い聞かせて覚悟を決めた。


 心の奥深くで彼女に対する根拠のない自信のようなものがあって、不思議とその行動の後押しをしてくれたのだった。


 ミルトは大きく息を吐き、意識を肉体の奥底にまで引き下げて、目をゆっくりと開いた。


 ミルトの目に宙を舞う無数の淡い緑色に光る球体が見え始める。

 風の精霊達である。


 ミルトは強く願いながら呟いた。


 ―風の精霊達よ。どうかお願いだ。あの帽子を僕の所まで持ってきておくれ―


 すると、ミルトの周りから突然風がなくなったかの様に見えた。


 彼の髪と服は風にはためくのを止めて完全に静止している。


 そして枝に引っかかり激しく揺り動かされていた帽子も同様にいつの間にかぴたりと動くのをやめていた。


 しかしその周りの枝葉は相変わらず風を受けて音をたてて激しく動いている。


 まるでミルトと帽子だけがその場から孤立している様だった。


 しばらくすると空色の帽子はするりと枝から離れ、ミルトの差し伸べたその手のほうに静かに舞い降りてきた。


 ミルトはその帽子を手に取り、腕にしっかり抱えると精神の集中を解いた。


 いつの間にか彼の体と帽子は風を受けはためいていた。


 ミルトは大事そうにその帽子を抱えて土手を上がると、ミラーがいる所に早足で歩み寄って、ミラーの数歩手前で立ち止まった。


 ミルトは出迎えたミラーと向かい合わせで立ち、無言で彼女に帽子を差し出した。


 彼女の瞳は不思議な色を漂わせていた。感謝だろうか、感動、感激の全部が混ざった様な感じである。


 ミルトはまた無言で帽子を突き出して、彼女に受け取るように催促した。


 ミラーはとっさに受け取ろうと手を伸ばしたがなかなか受け取らなかった。まるで帽子を手に取ると同時にミルトが逃げてしまうのが分かっているかの様だった。


「ありがとう、ミルト」

 風で乱された髪をかき上げながらミラーは笑顔を見せた。ミルトは黙って首を小さく一度縦に振るだけだ。


 ミラーはもじもじしながらミルトに話しかけた。

「出来れば貴方と、もっとお話しがしたいのだけど……」


 そう言ってミラーはやっと帽子を受け取った。


 案の定、帽子を渡せたミルトは少し後ずさり、今にも逃げ出しそうな構えを見せる。


 ミラーは慌てて話を続けた。

「あの、明日なんてどうかしら?私時間あるの」


 ミルトは少し考えると小さな声だがはっきりと返事をした。

「うん、いいよ。明日のお昼の鐘が鳴る頃に。またこの橋の上で。」


 そう言うと赤い顔をしてミラーの脇をすり抜けて走り出した。


 しかし橋を渡りきる前に立ち止まり、まだミルトの事を見送っていたミラーに向き直って言った。

「さっきのあれは秘密だからね」


 ミルトはそう言うとじっとミラーの瞳を見つめた。


 すぐにさっきのミルトの精霊術の事だと察しのついたミラーは深く頷き返した。

「うん。分かったわ、秘密ね」


 ミルトは安心してこの場から逃げ出した。


 秘密を共有した嬉しさからか彼女の顔は輝いて見えたし、たぶん自分の顔もそうなんだろうと思った。


 顔にあたる風が心地よく、風も自分を後押ししてくれているかの様に軽やかに走った。


 それにしても今日は何かに逃げてばかりの一日だった気がする。いつになったら自分はあの子に慣れるのだろう。まあ当分は無理かな。あの子が輝いて見える内は…。


 ミルトは家に近づくにつれ、今日最大の逃げ出す場がまだあったと思い至った。嫌な約束事をしてしまったものだ。あの子の事を何も言わずに今日の出来事なんて母親に話しようもない。


 ミルトは玄関先で深呼吸すると、いたずらを隠しているのをいつばれるかとびくびくしている子どもの様な気持ちで扉を開けた。扉はいつもより重く感じ、いつもよりきしむ音を響かせて開いた。


 ミルトがただいまと声をかけると、台所の方からお帰りなさいと返事があった。いつもなら真っ先に母の元に行き、今日の出来事を報告するのだがトーマ達に止められているので、なんだか話しかけようがなかった。


 しょうがないので、ミルトはとりあえず椅子に座って手持ち無沙汰な感じで足をぶらぶらとさせていた。


 マレスはいつもと違う息子の行動に首を傾げながら訊ねた。

「どうだったかしら今日の祭りは。楽しかった?私も城前の大広場まで行ったけどすごい人だったわね」


 マレスは大広場と言った瞬間大きく動揺した息子の様子と、腰に刺してあるこの辺では見覚えのない青い花を見て、すぐに何となく察しがついた。


 何も言ってこない息子の様子を見て、何だか嬉しい様な寂しい様な、そんな複雑な気持ちを隠して、マレスは明るい声で息子に言った

「さあ、もう着替えてらっしゃい。すぐご飯も出来るから手もちゃんと洗ってね」


 ミルトはうんと返事をしてそそくさと母親の前から姿を消した。


 自室で着ていた鎧服を脱ぎいつもの服になると、その鎧服の腰に刺してあった青い花を手に取った。


 そしてそれをしばらく眺めてから花を活けている花瓶にそっと挿しておいた。一応目立たない様に裏の方に隠す様にして。


 いつもより静かな夕ご飯の時間になった。


 ミルトはあの子の事を除くと余り言う事がなくなり、マレスは口数がいきなり減った息子を黙って見守っていた。


 ミルトはもうこれ以上黙っていられなくなり、ぼそっと呟いた。

「明日トーマとキルチェが来てなんか色々話すから」それだけ言ってまた黙った。


 マレスは三人一緒に報告すべき事があったのだとすぐに理解して、優しく頷いた。


 ミルトは夕ご飯を黙々と食べ早々に寝床についた。


 そして布団の中で何度も寝返りをうち明日の事を考えていた。


 たぶん朝早くからトーマとキルチェが来てお母さんにあの子の事を話すだろう。


 一晩経って二人の興奮は収まっているのだろうか。もしかしたら逞しい想像力で話が色々と膨らんでいるかもしれない。


 そしてそんなあの子との話を聞いてお母さんはどんな反応をするかな。きっとお母さんも会いたいから家に連れてきなさいと言い出すだろうな。


 たぶんこれは間違いない。


 はー……まだまだこの話題は続いていきそうだ。


 それに明日はあの子と会う約束もしちゃったし。でもこれは三人で行けばどうにかなるか。


 あ、でも、あの子は僕と二人っきりで会うつもりなのかな……。うーん、今回はかんべんしてもらおう。僕があの子に会ってもがちがちに固まらなくなったら二人きりで会うという事で。


 そんな事を考えながらミルトは眠りについた。


 彼の寝顔は安らかだったが時折引きつった笑顔を見せていた。


 それがどんな夢なのかはもう言うまでもないだろう。




 朝はすぐにやって来た。


 そしてトーマとキルチェも日が昇ると同時にやって来た。


 いつもよりかなり早い。それはマレスが寝間着姿で二人を出迎えた事からも分かる。


 ミルトは彼らが来た事を浅い眠りから気がついた。まだこの覚醒しきってない頭で考えてみても、彼らの興奮は一晩経ってもまったく覚めてない事を簡単に理解した。


 ミルトはさて今日も頑張ろうと考えながら寝具から身を起こしたのだった。


 ミルトは母親が起こしに来る前に、きちんと着替えて彼らの元へと出向いていった。驚いているような目の母親に朝の挨拶をしてから、彼らにも沈んだ口調で挨拶をした。

「やあおはよう……。今日はまたかなり早いね」


「うん?そうかな。今日は天気も良いしね」

 トーマはミルトの皮肉は全く気にせずに明るく答えてから、ミルトのほうにあの子の事はまだ言ってないよねと尋ねるような目を向けた。


 それに敏感に気づいたミルトは両手を広げてまだだよと表現した。


 それを見て安心したトーマはどういった順序で話を進めたら盛り上がるかを黙々と考え出した。キルチェのほうはまだ何か眠そうでぼーっとしているが、話が始まれば喜び勇んで参加してくるのは確実だろう。


 ミルトはもう諦めの心境で、朝ご飯の準備をしている母親の後ろ姿を椅子に座って眺めていた。 


 朝食の間、そしてそれが終わってもミルトは穴があったら入りたい様な状況に陥っていた。


 マレスの反応はとても素晴らしくトーマとキルチェは存分に話を盛り上げる事に成功していた。


 はたして自分の息子が女の子に好かれているという事実を喜ばない母親がいるだろうか。


 しかもその相手がとても可愛い女の子なら尚更だ。


 ミルトは母親の追求を黙秘と生返事でごまかしていたが、やはり最後はマレスがその女の子を見てみたい話をしてみたいという結論に至った。とりあえず予想通りだった。


「大丈夫だよ、マレス母さん。ミラーは俺たちの友達だからさ。近い内に連れてくるよ」トーマが自信満々に請け負った。


「まあでもミルトしだいなんですけどね」キルチェが楽しげに付け足す。


 はいはいそうですね。ミルトが膨れっ面をして胸の内でそう呟いていると、期待を込めた目で母親に見つめられた。


 ミルトはちらりと目を合わせると頭をぼりぼり掻いて言った。

「うんまあ、その内に……」


 マレスはまだじっとミルトの目を見つめている。


 ミルトは溜め息をついた。

「近い内に。必ず。約束するよ」


 やっと解放してくれた。しかしまたしても新たな約束をしてしまった。また当分この約束事で頭を悩ませるのだろう。


 ミルトは小さな溜め息を漏らした。


 いったい今日何度目の溜め息だろうか。


 時計塔の鐘が鳴り響き、いつの間にか昼近くになっていた。


 ミルトはよくもまあこんな同じ話題で時間をつぶせるもんだと感心していると昨日の事を思い出した。


 ミラーと今日昼過ぎに会う約束をしていたのだった。


 しかしこの状況でそれを言い出すのはかなり抵抗がある。もし言ったら言ったで母親に彼女を今この場に連れてこいとか言われかねないと思った。


 ミルトは眠らしておいた頭の機能を猛回転させて、彼らを外に連れ出す案をまとめ上げた。


 ミルトの出した提案はとても楽しそうに思えて彼らはまんまとそれに乗る事になった。


 早めの昼ご飯を食べた後、三人は家を出て祭りの余韻が残る街の中を歩いた。


 街角の隅には花びらとごみが石壁のそばに小山状にいくつも集められ、そこいらからは花の香りと酒の匂いが混ざった様な、微妙な臭気が漂っていて何だか少しわびしい感じがする。


 ミルトはうまいこと彼らの興味を引きながら、昨日ミラーと約束した橋まで誘導していった。


 目的地の橋が見えてくる所まで来ると、昨日と同じ場所でミラーがすでに待っているのが見えた。


 ミラーは昨日の服装とはまるで違う感じの、色は薄い青色で丈が膝くらいのふわりとした形の可愛らしい街着を着ている。


 ミルトは仲間の意識を橋から逸らして彼女に近づいていった。遠くから彼女の存在を知られたら仲間に何を言われるか分かったものじゃないからだ。


 ミラーのほうはとっくにミルト達の存在に気づいていたが、明らかに不自然なミルトの行動を見て、彼らが近づいて来るのを黙って待っていた。


 仲間の一人がミラーの存在に気づいたと同時に、ミルトはミラーに急いで声をかけた。

「あれ?やあ、ミラーじゃないか」


 ミルトは偶然を装って仲間と共にミラーに近づいていき、ミラーの瞳をじっと見て彼女の返事を待った。

「こんにちは、ミルト。みんなでお出かけ?」


 やはりミラーは頭が良い。瞬時にミルトの心情を察して答えを合わせてくれていた。


「それとトーマ君とキルチェ君も、あの……昨日はどうもありがとう」

 そう言ったミラーの照れた笑顔はとても素晴らしく、少年達のふとよぎった疑問をどこか遠くへ吹き飛ばしてしまった。 


 ミルトはほっと胸をなで下ろしていた。


 ふう、これで最初の問題は解決した。次はミラーをどうやって仲間に引き入れるか。


 礼儀正しいキルチェがまずミラーに挨拶をした。

「こんにちはミラーマさん」


 キルチェは周囲を見回しながら訊ねた。

「こんなところで何をしてるんですか?」


 ミルトは心の内で焦った。

 まずい、ここでまごついたら彼らに疑いの芽が……。


 しかしミラーは落ち着いて答えてきた。

「うん、いまねお散歩の途中なの。ほら私ってこの街に来たばかりでしょう。あまり道も知らないものだから、少しひとりで色々とこの街を探検していたの」


「ふ~ん」とトーマ。

 ミラーの言葉を少しも疑ってない様だ。


 ミラーは思いついたかのように胸の前で手を合わせて言い出した。  

「そうだ!もしいま時間があったら、私にこの辺の事を少し案内して貰えないかしら」


 ミラーは少し首を傾げて頼んでくる。


 彼女の輝く笑顔を間近で見ながら、彼女のそのお願いを断れる者が果たしているのだろうか。


「えっ、うん。いいよ」見つめられたトーマが即座に頷いていた。


 つい勢いで安請け合いしてしまったトーマが仲間に良いよねと気弱な目を向けてくる。


 ミルトもキルチェも頷き、ミルトが明るい声で言った。

「うん、それじゃあみんなで行こうか。」


 その声を聞き、トーマの方が何故か安堵した状況になっている。キルチェもこの急な展開に若干戸惑いながらも嬉しそうだ。ミルトはもちろん心から喜んでいた。


 ミルトがあれこれと悩む必要もなかった。ミラーはミルトのあの始めの一言から彼の心情を推測して、彼にとって一番良い形で元々の結果に導いていったのだ。


 ミルトはそんな彼女の頭の回転の良さに惚れ惚れとしていたのだった。

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