風呂【短編】

「先に入ってて。すぐに行くから」


 母は視線を彷徨わせながら言うと、円(まどか)を浴室にいざなった。円は母にうながされるままに、脱衣所の扉を開けた。


 部屋着を脱いで、脱衣かごに抛る。洗面台に映る自分を見つめる。中心に薄く生える毛が押しつぶされて、綺麗に下を向いている。胸を突きだしながら髪の毛を結う。


 浴室に入ると、まずシャワーで身体を流す。熱い湯が肌にあたり、少しずつ弛緩してゆくのがわかる。今日という日の後半がこれから始まり、終わりに向かってゆく。浴室の入り口に注意して、たびたび視線を向けるが、母が入ってくる様子はない。円は軽く息を吐いて、シャワーを止めた。


 ゆっくりと浴槽に身体を沈めた。


 円の家の浴槽は大人二人が足を伸ばして入っても余裕があるほどに広い。一人で入っていると解放感よりも寂寥感が浮かびあがってくる。その浴室の広さは、一つひとつの音を反響させる。


 母が肩を丸めて入ってきた。タオルなどは身に着けていない。円は浴槽の縁に肘を乗せて、母の裸を食い入るように、しかし無関心を装いながら、視る。母の身体からは恥じらいが漂い、それが蠱惑的であった。円は母の身体から視線を外し、頬を赤らめた。


 母の毛は濃く、塊りを形成してる。吸い込まれるように、黒い。その下にある肌を確認できない。シャワーから出る湯があたると、陰毛は示し合わせたようにすべてが下を向き、その上を湯が流れてゆく。湯は母の中心で流れを変えて、ポタポタと落ちてゆく。白色の照明に照らされて光り輝いている。


 肥満と言うほどではないが、母の腹にはしっかりと肉が付いている。円はその脂肪を確認すると、心が落ち着いた。


 母の肉体には熟成がある。その熟成は女の匂いを強くしている。とても直接的で動物的に雌であるということを無言で主張しているように感じた。円は母の裸を視て、綺麗だと思った。


「お母さん、きれい」


 円は思わず、口に出した。


 母は円と目を合わせずに、微笑した。


「……嫌味」


 円は首を横に振る。


「お母さんは、綺麗だよ。なんだか、すごく、魅力ある」


 母は頷いて、シャワーで髪の毛を濡らし、シャンプーを泡立て始めた。


シャンプーを泡立てているときの母の腕には、上腕三頭筋が浮きあがり、円はうっとりとした。


 円は母のような身体に憧れた。円の母の身体は円が「これが私のお母さん」と主張できるような身体をしている。それと同時に、円のあずかり知らぬところでは、どこまでも匂いの強い女として、そこにいる。母は母だけの身体を持ち、母は母だけの女という性を獲得している。概念ではなく、母は母としてそこにいる。


 母が浴槽に入ってきた。向かい合って座る。円は先ほどまでのように、母のことを視ることができず、あいまいに視線をそらす。母は目を細めて円を視ている。


「肌、綺麗だね」


 円は視線を合わせずに、答える。


「うん。でも自分ではそうでもない」


「そう? お母さんには綺麗にみえるよ」


「……でも私にはそうは見えないんだよ。私は、お母さんみたいな身体になりたい」


 母は天井を見つめて苦笑した。それきり二人とも黙る。沈黙が浴室に反響した。


 沈黙に耐えられずに、円が声をかけようとしたとき、それを遮るように、母が言った。


「身体、洗ってあげる」


「うん」


 円は絞り出すように返事をして、首を縦に振った。


 母はゆっくりと丹念に円の身体を泡立てて、洗った。背中をゴシゴシと洗われているときに、背中を流してもらうのは初めてだと気づいた。《よくあるシチュエーションだけれど、本当に気持ち良いな》と心の内で考えていたら、首筋に心地よい鳥肌が立っていた。


「でもお父さんは円を見ている」


 背中を流していた母が呟いた。円には母の表情は分からない。母は続けた。


「私じゃなくて、円、あなたを見ている」


 円はかろうじて答える。


「私が若いから。……私が若いから。ただそれだけで見ているだけだと思う。……たぶん、実際には私のことは見ていない。私じゃなくて、若い女を見てるんだ。それには何の意味もないよ。ただの反射だよ。たぶん」


 円の背中を規則的にボディタオルが上下する。円は正面の鏡に映る自分を視ながら、続ける。


「あとは、娘が可愛いだけ。セックスしたいのはあくまでもお母さんだよ」


「……なに言ってるの。あんたは」


 円は背中に控えめな押し殺した笑い声を確認して、嬉しくなった。


 母は円の全身を丁寧に洗ってくれた。洗い終えると、また二人そろって浴槽に身体を沈める。


「お父さんさ、また私にユニクロで服買ってきてくれたんだけど、それが絶妙にダサいんだよね」


 母は下を向いて苦笑した。


「どんな」


「薄桃色のカーディガン。サイズも合ってないし。あんなの格好悪くて着れないよ」


 父はたまに思いたったように洋服を買ってくる。円が父に買ってきてくれと頼んだわけでもないのに。冬には水色のダウンジャケットを買ってきてくれたが、円は一度もそのダウンジャケットを着ていない。


 母は口をとがらせて、呟いた。


「お母さんには買っきてくれないよ」


「あんなのだったら買ってきてくれないほうがましだよ」


 母はひとつ頷くと、一呼吸おいて、言った。


「円。たまにはお父さんに着ているところを見せてあげなさい」


 円は満面の笑みで答えた。


「あんまり気が進まないけど、たまには、ね」

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円【短編連作】 疑わしいホッキョクギツネ @utagawasiihokkyokugitune

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