月下の誓い、心の発露
過去の過ち、姉さんの記憶を滔々と話す。
エマは神妙な顔で黙って聞いていた。
「姉さんが死んでからは、俺自身も死んだように生きていた。何を見ても感情がわかなくて、何を聞いても興味が持てなかった。」
過去の自分を嘲るように笑う。
「たぶん、周りの奴らも呆れていただろうな。姉が命を賭して救った弟がこの様じゃ浮かばれねぇ…ってな。」
だが…と続ける。
「そんな俺を見限らなかった奴がいる。あいつは何度も俺を慰め、励まし、ずっと傍にいてくれた。」
幼馴染のエマ。
彼女は常に俺の味方だった。
最愛を失った俺が縋った先である。
「エマのお陰で俺は立ち直れた。そんで思ったんだ。強くなりてぇって。俺が弱いままだったら、きっと姉さんは悲しむから。」
伏せていた目を開ける。
「だから鍛えた。身も心も強くなって、いつの日かあの世で姉さんに再会した時、今度はちゃんと褒めてもらえるように。そんで、あの時の事をきっちり謝りてぇんだ。」
話し終えたと見てエマが口を開いた。
「……それが、アーシュ様が力を求める理由の原点なのですね。」
「……まぁ、今では他にも欲しいもんができちまったけどな。」
強くなりたいという幼稚な欲求。
大人になるにつれて、人の欲望は増していく。
手に入れたはずの最愛も奪われた。
これまでずっと俺を支えてくれたトア。
思い出したくもない彼女の痴態が脳裏に浮かぶ。
人は変わるものだ。
大人になるとはそういう事だ。
肥大した欲望は、時として倫理を凌駕する。
純粋だったトアは変わってしまった。
あの男は俺から最愛を奪い取った。
だが、今度は俺が奪う番だ。
魔の神の力なんて、姉さんに誇れる力じゃねぇが。
それでも俺は、醜い欲望に向き合うと決めたから。
「そのような方のお名前を、本当に私が名乗っても宜しいのですか?」
「……あんたはな、似てるんだ。姉さんにな。」
「似てる?容姿がですか?」
「いや、姉さんはもっとふわふわした茶髪だったし、目は榛色だった。顔の雰囲気はもっと柔らかくてあんたほどの美人ではなかったし、あんたほどスタイルも良くなかったはずだ。」
「それでは、私の何がお姉様と似ているのでしょうか?」
「笑顔だ。」
即答する。
「…笑顔、ですか?」
「あぁ、あんたの……エマの笑顔は、姉さんによく似ている。月の光に包まれるような……ホッとする、優しい笑顔だ。」
「笑顔……」
エマが己れの頬を細い白指で触る。
俺は自然にふっと笑った。
「まぁ、細かい事は気にすんな。俺が良いって言ってんだから。」
その言葉に、暫し俺を見つめていたエマがゆっくりと頷いた。
「かしこまりました、アーシュ様。」
その笑顔は、やはり姉さんによく似ていた。
「そんで、これからどうするかだが……」
「早速、練習致しますか?」
さも当然というように笑うエマ。
「……練習って…権能の、だよな?」
「肯定致します。」
「その、具体的には何をするんだ?」
聞きたいような聞きたくないような……
「アーシュ様の権能である『色欲の王』は性を司るものですから、性行為に関する効果が多数ございます。ですから、実際に交わるのが練習として効率は良いと存じます。」
「だよな……」
「私ではご不満でしょうか?」
「あ、いや、そうじゃねぇんだ。ただ……エマは、それで良いのか?」
「私はその為に遣わされました。」
「そうだけど、そうじゃねぇ。エマ個人はどう思ったんだって事だ。」
「私個人に忌避感などはございません。」
嫌じゃねぇって事だよな。
「それは、アスモデウスの命令だからか?それとも、そういう風に作られてんのか?」
「サキュバスは性行為に対する忌避感や倫理観といった類のものを持ちません故、仮に汚らしい動物が相手であろうとも、それが主のご命令であれば否やはございません。」
「ま、マジか。」
「しかし、私は特別に知恵を授けられております。知恵は感情を作り、主観が発生致します。そして主観は常に感情によって干渉されるものでございます故、そこには物事に対する優劣や好悪が生まれます。」
「………つまり?」
「今の私にとって、嫌なものは嫌、という事でございます。」
「じゃあ、さっきのエマの言葉は……」
「私の感情、主観によって導かれた回答でございます。」
「…本心か?」
「虚言を吐けとのご命令あらばそう致しますが、そうでない場合、私がアーシュ様を謀る事など決してございません。」
要するに、エマにだって好き嫌いはあるし嫌なものは嫌だが、俺とそういう事をするのは嫌ではない、と。
そして、エマの言葉を信じるのであれば、それはアスモデウスに命令されたからとかではなく、エマ自身の主観による感情だという事で良いんだよな?
「あー……まぁ、エマがそう言うなら良いんだけどよ。」
「アーシュ様は些末な事を気になさる必要などございません。私はアーシュ様のモノでございます故、どうぞお好きにお使い下さいませ。」
気持ちは嬉しいけど、そのスタンスがどうもな……
「あのさ……俺は確かに魔の神の使徒になったし、自分が清らかな人間だとか思っちゃいねぇよ。自分の欲望は否定しねぇし、ぶっちゃけ今すぐにでもエマを抱きたいと思ってる。」
エマは俺が何を言いたいのかわからず首を傾げている。
「けどよ……俺は、心まで人間をやめたつもりはねぇぞ。」
怪しく光る紅眼が驚きに見開かれた。
「欲しいもんは手に入れるし、抱きたい女は抱く。その為にこの力を使う事に躊躇いはもうねぇ。」
性奴隷だとか練習台だとか言われて、戸惑いはしたがな。
「だが、そんな身勝手な欲望を果たしていこうっていう俺だからこそ、プライドを持って歩きてぇって思ってる。」
「プライド…でございますか?」
「決意表明って感じだが………」
その瞳を真正面から見詰め、俺は心に抱いた決意を口にした。
「俺は俺のモノにした女を絶対ぇ幸せにする。俺の女になって良かったって思わせてみせる。そこまで含めて、俺の欲だ。」
エマがはっと息を飲んだ。
「勿論あんたも例外じゃねぇ。サキュバスとか神の性奴隷とか練習台とか知ったこっちゃねぇ。俺の女になる以上、エマも必ず幸せにしてやる。」
エマの瞳が揺れる。
それは確かな感情の波。
彼女自身、今まで感じた事のない……感じるはずもなかった暖かい気持ち。
「だから、そんな無機質な言葉で俺を誘うんじゃねぇ。あんたの言葉で、あんたの気持ちを聞かせてくれ。」
エマが豊満な胸に手をやる。
熱を帯びた鼓動の高鳴り。
彼女は自らが単なる性奴隷ではなく、"アーシュの女"である事を自覚した。
「アーシュ様………」
潤んだ瞳が俺を見る。
上気した頬が俺の心を一層強く揺さぶる。
そして彼女は、おそらく神に生み出されて初めて、己の"欲"を口にした。
「私を……アーシュ様の女にして下さいませ。」
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