かつて失われた最愛の記憶

「……エマ……エマ、ですか。」


彼女が俺の名付けた名を反芻する。


「悪くないと思うんだが…嫌か?」


「いえ、そのような事はございません。とても良い名前だと思います。今後、私はエマと名乗らせていただきます。」


「そうか。」


内心、ホッとした。


「……ちなみに、名付けの理由をお聞きしても宜しいでしょうか?」


その言葉に、俺は少し驚いた。

先程までの様子から、何も言わずに受け入れるものだと思っていたからだ。

だが俺は、名前の意味を問われた事が嬉しかった。



「エマは……俺の、姉の名前なんだ。」


「お姉様の…?」


「あぁ。」


「それは、私が名乗って良いお名前なのでしょうか?」


「良いんだ。姉さんはもう……いないからな。」


「……左様でございましたか。思慮が足らず、申し訳ございませんでした。」


エマが深々と頭を下げる。


「いや、気にしないでくれ。もう10年以上も前の話だ。」


かつての最愛。

もう失ってしまったけれど。

今でもよく、覚えている。




「姉さんは、俺がまだガキだった頃、俺を魔物から守って死んじまったんだ。」








あれはまだ俺が10歳の頃だった。

当時、姉さんは17歳で、歳の離れた俺をいつも可愛がってくれていた。


村の商人であるうちの両親は、あまり子どもに愛情をそそぐ親ではなかった。

親として最低限の世話はしてくれたが、遊んでくれた記憶はない。

その代わりをするように、姉は俺の面倒をよく見てくれていた。


姉さんは綺麗で頭が良くて、そしてとても優しい人だった。

村の皆から好かれる俺の自慢の姉さんだった。



俺が10歳になったばかりのある日、俺は当時から仲の良かった幼馴染のトアと遊んでいた。

そんな俺達を、村の男子達が馬鹿にしてからかってきたのだ。

今にして思えば、当時から可愛かったトアを独り占めにする俺が羨ましかったのだろう。

それに、思春期特有の気になる女の子をいじめたくなるような衝動につつかれただけだったのかもしれない。


そういう事は度々あったが、俺はいつも相手にしていなかった。

姉さんから女の子を守るように言われていたからトアを庇いはしていたが、喧嘩は駄目とも言われていたからやり返しもしなかったのだ。


しかし、この日は違った。

彼らはやりすぎてしまったのだ。



何度からかっても流されてばかりで、沸点を超えてしまったのだろう。

悪ガキ達は、俺達に泥をぶつけてきた。

いつもは口で喚いているだけだったが、この日は物理的にちょっかいをかけてきたのだ。


俺は姉さんの言いつけ通りにトアを守った。

彼女の盾になって泥だらけになった。

トアは号泣して俺に抱きついていた。


その姿が彼らの燃える心に油を注いでしまった。



俺は体格の良い男子に押し倒され、押さえつけられた。

俺に引っ付いていたトアは引き剥がされ、髪を掴まれてグイグイと引っ張られていた。

トアはより一層泣き声を上げた。

彼女の涙に、俺は心が熱を帯びるのを感じていた。


かろうじて保たれていた理性が俺を律し、大声で助けを呼ぼうとした。

だが、トアの泣き声に激昂した男子が、彼女の頬を打つ方が早かった。

それを見た瞬間、俺の心は灼熱のような怒りに支配された。


激情のままに暴れ回り、手当たり次第に殴り、蹴り、引っ掻き、噛み付いた。

子どもの喧嘩では済まない程の怪我を負わせた。

気付いた時には、血塗れの男子達が転がっていた。


俺も血塗れだった。

トアは泣きながら俺に抱きついていた。


騒ぎを聞きつけた大人達が慌てて駆け寄ってきた時には、全てが手遅れだった。





これだけならば、ちょっとした喧嘩話で済む。

事情を知った大人達にこっぴどく怒られたが、あいつらだって叱られた。

跡が残るくらいの傷を負わせたが、俺だって傷を負った。



しかし俺にとって最もショックだったのは、姉さんに怒られた事だった。



俺は大人達にいくら叱られてもどうでも良かった。

俺はトアを守ったんだ。

俺は悪くないんだ。

姉さんならきっとわかってくれる。


そう思っていた。

だが姉さんは怒った。

そして泣いていた。


俺の頬を叩き、涙を流した。



今にして思えば、あれは俺を心配する気持ちもこめられていたのだろう。

それに誰よりも優しい姉さんは、弟である俺が他人を傷つけた事がショックだったのだろうと思う。



だがその時の俺は、まるで姉さんに裏切られたように感じていた。

俺の心は、またしても激情に支配された。


涙を流す姉さんを裏切り者と罵り、家を飛び出した。

そのまま走って村を出て、近くの森に行った。

どこか遠くへ行きたかった。

それなのに何度か行った事のある森へ駆け込んだのは、子どもだった俺の甘えなのだろう。


激しい怒りと悲しみに打ちひしがれていた俺は、"暗くなってきたら森には入ってはいけない"というかつて誰かに教えてもらった事を忘れていた。


空はあっという間に暗くなり、俺は夜の森で1人、怯えていた。

今更ながらにこんな森へ来てしまった事を後悔していた。

そして、そんな俺に襲いかかる影があった。



夜になると森に現れる、狼の魔物である。

冒険者として一人前にもなれば簡単に倒せる下級の魔物だが、当時の俺には恐ろしい悪魔のように見えた。


幼いながらに死を覚悟した。

助かる可能性など微塵も考えられなかった。




その時俺を救ったのが、村の男衆を連れて俺を探しに来ていた姉さんだった。

後から聞いた話だが、姉さんは男衆の反対を押しのけて捜索隊に加わったらしい。

そして魔物に襲われる俺の悲鳴を聞きつけると、静止の声を振り切って駆けつけ、必死に俺を助けようとしたそうだ。



自らを盾にして俺を救った姉さん。

涙と鼻水でボロボロになった俺の頬を撫でながら、姉さんは最期に優しく笑ってこう言った。




『ごめんね…アーシュ……大好き…だよ………』




決して忘れないその笑顔。

決して忘れないその言葉。


死にたくなるほどの後悔に心を焼かれ、体ごと灰になったかのように力が入らなかった。

気付けば男衆に担がれて村に戻っていた。





その後の事はあまり鮮明に覚えてはいない。

生き残った俺に父と母が何と言葉をかけたのか。

ささやかな葬式で村の人々が姉さんに何と声をかけたのか。


ただ一つ覚えているのは……俺が、姉さんに別れを告げる事さえできなかったことだった。

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