静かな水面.1

 朝の支度はいつもより少し遅いものになってしまったので、家族からは文句を言われたものの、不審に思われるような時間にはならなかったことが幸いした。


 やがて、神殿の惨状が村にも伝わるはずである。その時に何も知らないふりをし続けなければいけないということだけがラズの気がかりであった。そんなことを自分がうまくできるだろうかという不安であった。


 朝食の後はいつも穏やかな時間になる。男たちは出かけて、母もだいたいこの時間に洗濯に行く。


 ラズと祖母と妹だけが家に残る時間は、いつもの日々であっても安息の時間であったが、今日はとりわけその安息がありがたいとラズは感じた。

 

 妹も母の荷物持ち兼、洗濯の手順をそろそろ教えられる歳になったのだろう。家にはラズと祖母だけが残り、機織の音と、静かな糸紡ぎの音が部屋の中を支配していた。


「ラズ、あんた昨夜はよく眠れたかい?」

祖母がこんな問いかけをしてくるまで。

「えっ?どうしたの急に?」

驚きの余り変な言い回しになっていないか、自分の一挙一動が不安になる。


「どうも今日のお前は動きが鈍い気がしてね。いや、こんな年寄りにそんなことは言われたくないだろうね。鈍いというか、まるで身重の娘を見ているような気分になるんだよ。それでちょいと気になってね」

「身重だなんてやめてよ。でもそう?そんな風に見える?どうしてかしら」


「いや、年寄りの言葉だよ。気にしなくていい。悪かったね」

「お婆ちゃん、言うほど年寄りでもないじゃない」

そう言って笑いながら話を流して機織へと手を戻す。変な汗が掌を湿らせているが、変なことは何も言わなかっただろう。大丈夫。心の中で自分に言い聞かせる。


 それにしても普段から余計なことはとにかく口にしない主義の祖母のこの言葉はラズには気にかかるものになった。彼女が口にしたということは、余計なことではないことである可能性が高いからである。


 多くの人が面倒がって流してしまうようなことだけど、真相に最も近い言葉を幼い子供や年寄りは時々ザクリと放り投げてくることがある。身重という言葉が、単調な機織作業の合間に幾度も頭の中に繰り返し響いてくる。まさかそんな簡単に子供など授かる筈がないと、ラズは頭の中で何度も反論してみせなければならなくなった。

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