夜明け.3

 振り返っても蜃気楼のように村が儚く見える場所まで進んで、やっとティファンは馬の速度を落とさせた。


「ラズ、か…」


12歳になってすぐに、一族のしきたりだと言われて1人旅に出なければいけなかった。


 それからもう10年近くが過ぎたけれど、たぶん彼女はその決して短くない時間の中で、最も深く関わった唯一の人間だろう。


 多くの人はティファンの境遇にも興味はなかったし、最初の頃は出会う人全てが新鮮で、優しく見えて、必死に自分の中のあれこれを訴えたりしたものだったけれど、誰も皆各々のことで忙しく、話を聞いてもらえることは少なかった。


 反対に、しきたりのことや、裁きの懇願をする人々の声を聞くことばかりが多かった人生の中で、あんなにたくさん自分の思いを言葉にしたのはティファンにとって初めてだったかもしれないのだ。


 だからなおさら胸が痛む。彼女の願いを叶える為とはいえ、なぜあんな乱暴な真似をしてしまったのか。鬼神の血が沸きあがると言い訳して、そこに自分の薄汚い欲望などは無かったと言い切れるのだろうか。


「自分をそんなに悪く思わないで」

彼女の別れ際の言葉が脳裏によみがえる。


「無理だよ…今の僕には。でも、頑張ってみるよ、ラズ…君に誠実でいられ続けるように」

向かい風が吹いてくる。少し湿った草と土の香りがするから、ここを進めば高原にでも出るのだろうか。


「そういえば、どうして彼女はあんな場所にいたんだろう…聞きそびれてしまったな」

泉のほとりで蹲るラズと言い合いをした時のことを思い出す。


「まさか、僕を追って…?まさかな…彼女は僕があそこにいるなんて知るはずもなかったんだし、村で何か噂になっていたのだとしても、それを彼女が気に留める理由がない。村にいる父や弟を守りたいと言っていたから、あの場にいた男たちの中には彼女の肉親はいなかっただろうし。もしかして本当に僕のことを…?いや、理由はわからないまま、か…」


ティファンの呟きが、向かい風に乗って旅立った場所へと流れていく。その風の向く先にある村の井戸では、水を汲みながらラズは湿った草と土の匂いを感じたような気がしたが、雨が降るのだろうかと思うばかりであった。

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