夜明け.2
村の外れ、ラズの家の近くの緩やかな丘の裏手で馬は静かに速度を落として止まった。
「ありがとう。さっきの言葉に早速したがって、もう払えるものがないなんて思ったりしないわ。お礼だけ伝えるわね」
「それがいいよ。それに、お礼を言わなければいけないのは僕の方だ。僕の中で荒れ狂う血を君は止めてくれた。君が傷つくのもお構いなしに。申し訳ないことをしたと、君には思っている」
「私が決めたことを、あなたは大事なこととしてくれたわ。それだけで充分よ。知ってるでしょうけど、この村にはそんな男はいないでしょうから」
「余計に心が痛むよ。僕はもう行かなければいけない。此処にいては、また僕の血が彼らを許すなと騒ぎ立ち始める気がするんだ。君の勇気が無駄になるようなことがあってはならない。僕は今すぐ此処を発つよ」
「そう…もう会えることもないのね」
「こんな酷い男に君は会いたいのかい?」
そう言ってティファンは笑いながらラズの頬に手を添えた。
「分からない。でも、もう会えないと聞くと切なくなる。それだけじゃなくて、本当のことを言えば」
「それ以上は僕には聞ける資格がない言葉だ。ありがとう。大丈夫、ちゃんと分かってる」
「…気をつけてね。危ないことはしないで」
「危ないのはたぶん僕の存在だよ」
「…私はただの人間で、あなたの言う鬼神の血筋とやらも、正直よくわからないし、契約や代償なんてものも求められないけれど、最後にこれだけ伝えさせて」
「なんだい?」
「自分をそんなに悪く思わないで。あなたが大切に思ってるものに、囚われてしまわないで。私は…村のみんなが裁かれる姿なんて見たくなかった、見る勇気がなかったから、あなたに無理を言って頼んだの。市場で値切りするのと同じようなことよ。そしてあなたは私の言葉を聞いてくれた。受入もせずに最初から拒むことはしなかった。私にはあなたが同じ人間にしか見えない。でもあなたはそうじゃないんだと言う。だとしても、あなたはずっと私の前では人間だったわ。今まで会った多くの人よりも誠実な人だった。そう思ってあなたを見ていた私がいたことを忘れないでね」
「…わかった、忘れないよ。約束する」
「…気をつけてね。危ないことはしないで」
「危ないことはしないよ。ありがとう、ラズ。いつか此処じゃない場所で巡り会えたらいいのに」
「でも私は…いえ、そうね、こんな事が起きるなんて、昨日までの私は思いもしなかったもの。もしかしたら、この村じゃない場所で会えるかもしれないわね…気をつけて、いってらっしゃい。ティファン」
「行ってくる。ラズ」
朝焼けの気配が村に潜り込む寸前に旅人を乗せた馬は旅立って行った。
ラズは丘に登り、その姿がやがて砂の粒程の大きさになるまで声も出さずに見送り続けた。
ティファンを表す点さえも見えなくなった瞬間、村に朝焼けが入り込み始めた。ラズは一度だけ硬く目を瞑り、上を向いて息を吐くと、たった今寝台から起き上がったかのような素振りで家の庭へと滑り込んで空のバケツを手にして井戸へと向かった。
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