第101話 斎藤玲奈の抱える想い

(バレンタイン、上手く渡せてよかった……)


 断られることはないと思いつつも、本番は緊張して渡すのは本当に最後の最後になってしまった。最後まで渡すか迷っていたけれど、渡せてよかった。田中くんもとても喜んでくれたみたいだし。

 まさか写真まで撮って残しておくほど気に入ってくれるとは思っていなかったけれど。思い出して恥ずかしくなってきた。ぱたぱたと頬を手で扇ぐ。


 田中くんとの関係は順調だと思う。いつも通り、平穏で安らげる関係。手放しがたいほどに大事で、大切で、失いたくない。だからずっと今の関係が続けばいいと思ってきた。でも、最近はもう少し進んでもいいのかな、なんて少し前向きに考えたりする。


 今回のバレンタインで、私の気持ちはもう完全にばれているだろうし、もしかしたらホワイトデーで彼が告白してくるかもしれない。その時は……なんてね。恥ずかしい妄想をしている自分に気が付いて、慌てて頭の隅に追いやった。


 田中くんと過ごす日々はあまりに楽しくて、かつてないほどに幸せで満ち溢れている。陽だまりのように暖かくて、それに私は癒されてきた。

 だからだろう。過去を思い出さなくなったのは。いつからか、悲しい記憶を振り返ることはなくなっていた。回想も追憶も想起もすることなく、今だけを見るようになっていた。幸せな今というものは、簡単に壊れ、呆気なく崩れさるものだというのに。


――1度失ってしまえば取り返しのつかない怖さというものを忘れていたんだ。


 田中くんと楽しく会話をしていたところに不意に電話が鳴り響く。私のスマホではない。もちろん田中くんのスマホでもない。音を鳴らしているのは私の家の固定電話。


 普段固定電話に電話が来ることはほとんどない。私に用がある人はスマホの方に連絡が来るし、固定電話の電話番号はもうずっとどこにも登録していないので、セールスの電話さえかかってくることはない。

 それなのに、この電話が置いてあるのはあの人との連絡手段のため。ずっと前に登録されたその番号からの着信を受けるためだけにこの電話は存在する。


 田中くんが少し驚いたように目を丸くして、電話の方を見る。それから不思議そうに首を傾げてこちらを見た。


「どうした? 出ないのか?」


「あ、はい。今出ます」


 上手く笑えていただろうか。変な風に思われていないだろうか。今、自分がどんな表情をしているのかすらわからない。突然の電話に動揺して、上手く頭の中が回らないまま、受話器を耳に当てた。


「……はい」


「ああ、玲奈か? 私だ」


 耳に響く低い声。大人の男声の濁った声はまったく聴き慣れないけれど、私の父親なのだとすぐに分かった。


「どうかしましたか?」


「お前の母親の三回忌についてだが、特に何もやらなくていいか? 大きな仕事があって忙しい」


 その言葉に冷や水を浴びさせられたような気がした。ずっと温まってきたものが一気に冷えていく。静かに。厳かに。


「……はい、分かりました。やらなくて大丈夫です」


「そうか。それだけだ。くれぐれも問題は起こすなよ。条件忘れるな」


「はい、分かっています」


 プツン、と電話が切れて、もうあの人の声は聞こえなくなる。しんとした部屋にはもう幸せな温かさは感じない。忘れていたもの思い出し、自分の愚かさをまた深く刻み込む。


「……大丈夫か?」


 田中くんはソファから心配そうにこちらを見つめ、優しく声をかけてくれた。そのことに少しだけ救われ、なんとか強張った表情を和らげて微笑んで見せる。


「……ええ、大丈夫です。ただ、少し一人にして欲しいです」


「……分かった。とりあえず今日は帰るわ」


「すみません」


 なにか言いたげだったけれど、何も言わずに荷物をしまい込んで帰りの支度を始める田中くん。そういう察してくれるところが、本当に優しくて好きだと思う。


 田中くんは荷物をまとめて立ち上がり、入り口扉に手をかけたところで振り返った。


「困ったことがあったらいつでも話を聞くから」


 それだけ言い残して帰っていく。田中くんがいなくなり鍵をかけて一人になったところで力が抜けて、ぽすっとソファに座り込んだ。


(どうして忘れていたんだろう……)


 お母さんがいなくなってからもうすぐ二年が経つ。三月にはお母さんの命日が来る。去年は一度たりとも忘れたりしなかったのに、今年はそのこと自体が頭の中から抜けていた。あまりに幸せな今に、悲しい記憶を封じ込めていたんだ。


 あの日のことが鮮明に蘇る。突然知らされたお母さんの死は、なぜかその時は実感がほとんど湧かなくて、時間が経つごとにはっきりと輪郭を帯びた。あまりに突然で、あっさりと、私の日常は崩壊した。


 昔から私が大事にしたものは壊れて消えてしまう。お母さんの命も。大事にしていた猫の命も。そして家族というものも。ほんの少しの大事なものがあっさりと私の手のひらから零れ落ちてしまう。

 

 失う恐ろしさの記憶がずきりとまた心に傷を刻み付ける。


 どうして田中くんとの関係を変えることを望んでいたんだろう。壊れるのが嫌だからずっと現状維持を望んでいたのに。失うくらいなら今のままでいいと思っていたのに。


 忘れていた記憶が恐怖で私を縛り付ける。今の日常で十分じゃないか。今の日々が送れるだけでもう私は報われている。これ以上、なにを望むというんだ。友達として彼のそばにいられれば、もう満足。


 近づけば近づいた分だけ壊れてしまう確率が上がる。かつての私のお父さんとお母さんのように。どんなに仲が良くても、いや、仲が良いからこそ、壊れたときの反動は大きくなる。永遠なんかない。どんなことでも壊れないものはない。いつかは必ず消えて無くなってしまう。


 それなら、出来るだけ今が続いた方が絶対いい。友達なら、私がそばにいようと思う限り無くならないから。


――私はこれ以上、田中くんとの距離は縮めない。



 

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