第98話 バイト先の彼女とバレンタイン後
バレンタインの日から数日が経った日。この日はバイトで柊さんとシフトが被る日だった。バレンタインの日にチョコをもらえたことはあまりに嬉しかった出来事で、誰かに話したかった。だが、一ノ瀬に話すのはなんとなく嫌だったし、相談にのってくれたお礼も兼ねてバイトの締め作業を終えたところで柊さんに話しかけた。
「柊さん少しいいですか?」
「はい? どうしました?」
髪を揺らしながらこてんと首を傾げる柊さん。真っすぐにこっちを見つめ、レンズの奥の瞳はどこか興味ありげに見えた。
「つい先日バレンタインがあったじゃないですか」
「はい、そうですね」
「やっぱり予想していた通り、彼女、用意してくれていたみたいで無事貰うことが出来ました」
「それは良かったですね」
「はい。渡されたのが本当に最後の最後だったので、もうもらえないものかと思っていたんで、余計に嬉しかったですね」
あんな帰り際、というか帰っている途中に渡されるとは思っていなかったので、渡されたときは驚いた。一回は諦めかけていた分、貰えたことは本当に嬉しかった。
あの時のことを思い出していると、柊さんは控えめな上目遣いでおずおずと尋ねてきた。
「……嬉しかったんですか?」
「もちろんですよ。好きな人からもらえて嬉しくないわけがないじゃないですか」
「ふ、ふーん」
こんこんと右のつま先で地面を打ちながら目線を下にして、もじもじと体を動かしている。俯きかげんの横顔は澄ました表情ではあるが、その頬はほのかに桃色だった。
「これ見てください。めっちゃ綺麗じゃないですか?滅多に写真とか撮らないんですけど、あまりに嬉しくてつい撮っちゃいました」
惚気だとは分かっていても、さらに話したくてポケットからスマホを取り出して、写真を見せる。その写真は一口分だけへったチョコブラウニーとオランジェットが写っているものだ。それを見た柊さんはどこか驚いた様子でつぶやいた。
「写真まで……」
「だってせっかくもらったものですし、残しておきたいじゃないですか。流石にもう全部食べちゃいましたけど、形には残しておきたくて」
「そんなに気に入りました?」
「もちろんです。渡してきた彼女は自信なさげでしたけど、普通にお店の物みたいに綺麗ですし、なにより味も美味しかったですから。本当は一日で食べきりそうになって、勿体なくて我慢したくらいなんですから」
「そ、そうですか。そんな気に入っていたんですか」
頬を髪で隠すようにしてその毛先をくるくると指先でいじる柊さん。顔は俺から斜めに向けて、ちらっと横目にこっちを見ては、また逸らしてしまう。その挙動不審な行動が引っ掛かる。
「あの、どうかしました?」
「え?べ、別に何でもないですよ。あまりに田中くんが赤裸々に語るものですから、聞いていて私の方が少し恥ずかしくなっちゃいました」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか。流石に本人にここまで正直に話してませんよ。伝えるのは恥ずかしくて、普通に美味しかったとしか伝えていません」
柊さんの説明に納得していると、彼女は一瞬目を伏せる。それからゆっくりと上げて、なにかを窺うように見つめてきた。そして控えめな声でそっと零す。
「……その、本人にそんなに喜んでいたことがばれたらどうします?嫌だったりしますか?」
「……恥ずかしすぎて死ねますね。知られて嫌というわけではないですが、ただただ恥ずかしすぎます」
一瞬想像して、死にたくなった。こんな赤裸々な思いが全部知られたとか、もう二度と顔を見れなくなる自信しかない。一体どんな顔をして話せばいいんだ。
考えただけで顔が熱くなった俺に柊さんは目をぱちくりとさせて、それから「ふふふ、そうですか」と薄く微笑む。真剣そうな表情から、ほんのり明るく顔を輝かせた。
「そういえば、柊さんも確かバレンタインにチョコを渡すって言っていましたよね?上手くいきました?」
「はい。一応渡すことは出来たんですけど、そのあとの感想の言い方が微妙で、実は少し不安だったんです」
「よかったら相談にのりますよ?」
「いえ、それはもう解決したので大丈夫です」
「そうですか?いつも相談にのってもらっているので、困ったときはいつでも言ってください」
日頃相談に乗ってもらっているのでその恩を返そうと思い告げると、柊さんはくすっと笑う。そして口角を上げて上目遣いに微笑みかけてきた。
「では、そのときはぜひ田中くんの彼女さんの話を聞かせてくださいね。それが1番困った時の参考になるので」
いたずらっ子みたいな笑みはどこか小悪魔のようにも見えた。
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