第93話 バイト先の彼女とバレンタイン前

 斎藤の暴走から1週間ほどが過ぎて、もうバレンタインまであと数日となった。

 ここまで近くなると色んな店でバレンタインのイベントのコーナーを見かけるようになる。煌びやかに飾られた箱のチョコが並べられていた。


 あの日の斎藤の様子だとバレンタインにチョコを渡してくれそうなのでとても楽しみになっている。あともう少しで貰えると思うと、少しそわそわするのを抑えられなかった。


 そんなバレンタインに期待を寄せながら今日はバイトをしていた。


「やっと落ち着きましたね」


「そうですね。今日は早めにピークが来ましたけど、無事乗り切れてよかったです」


 お客さんの出入りが落ち着き、やっと一息をつけたところで柊さんと言葉を交わす。

 

 バイトを始めてからかれこれ半年近く経ったが、もう随分と慣れた。これだけ多くのお客さんが来ても難なくこなせるし、柊さんに指導してもらうことは殆どなくなった。

 あれからもうそんなに経ったんだな、少しだけ感慨深くなる。


「そういえば、田中くん。私の気のせいかもしれませんが今日は随分と楽しそうですね。何かあったんですか?」


「え?あー、もうすぐバレンタインじゃないですか。それで実は例の彼女からバレンタインにチョコを貰えそうなので、それが楽しみで」


 まさか、柊さんにバレるほど態度に出ていたとは。自分的には結構平静を装っていたつもりだったのだが。


「……なるほど、そういうことでしたか。でもどうしてチョコが貰えそうだと分かったんですか?」


「ついこの前、好みの味とか甘いものは苦手なのかとか、色々質問されたので。今の時期であることを考えればそうなのかなと」


「なるほど……それは気付くんですね」


 何か言いたげな視線をこちらに向けて、柊さんは小さく呟く。


「えっと、どうしました?」


「いえ、なんでもないです」


「そうですか?まあ、そんな感じで質問を受けたので多分貰えるんじゃないかと。……これで貰えなかったら恥ずかしいですけど」


 ここまで期待して貰えなかったら、恥ずかしくて死ねる。まあ、流石にそれはないと思いたい。


「そういえば、その質問された時なぜか急に聞いてきたんですよね。不自然に会話の流れを切る感じで。その不自然さのおかげでバレンタインのことは分かったんですけど、どうして急に聞いてきたんですかね」


「それは……。もしかしたらですけど、焦ったからだと思いますよ」


「焦る?」


「他の女の子に取られるかもしれないと思って、居ても立っても居られず、みたいな」


 やはりこういう話は慣れていないのだろう。柊さんはほんの少しだけ目を伏せて言いにくそうにしながら、小さく教えてくれる。


「うーん。別にそういう相手はいないんですけどね。まあ、いいです。とにかくその彼女からチョコが貰えそうなので、それが楽しみなんですよ」


 結局、斎藤のあの反応は謎のままだが、それよりも今はチョコの方が楽しみだ。あそこまで頑張って作ろうしてくれるなんて、それだけで嬉しい。


 ついこの先のことを考えてにやけそうになっていると、柊さんは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。


「その、あんまり期待しない方がいいと思いますよ?所詮は素人の手作りですから。スイーツを作るのに慣れていなくて、お店のものみたいな綺麗で美味しいものじゃないかもしれませんし……」


 どこか心配で不安げな表情の柊さん。かなり実感の籠ったような声だった。


「もしかして、柊さんも誰かに渡すんですか?」


「えっと、はい」


 俺の予想は当たっていたようで、僅かに視線を左右に揺らしながらもこくりと小さく頷く。

 おそらく相手は以前話していたお世話になっている男子だろう。なんとなく想像がついた。


 やはりこういうのは渡す側は緊張するものらしい。珍しく弱々しい柊さんの様子に再認識する。


 相手の期待を裏切ってしまわないか。全然喜んで貰えなかったらどうしようか。相手の反応を考えれば不安にもなるだろう。

 そうなるのは当然だし、俺だって斎藤に贈り物をしたときはとても不安だった。


 それだけ相手に贈るというのは難しい。でも、だからこそ、それでも贈ろうとしてくれる、その行為だけで十分に相手に気持ちは伝わるのだ。


 だから柊さんの言っていることは一つだけ訂正することにした。


「いいですか、柊さん。手作りは手作りだからいいんですよ」


「はい?」


「そういう不慣れなところがあっても全然いいんです。むしろ不慣れなところがあることが良いんですよ。そうやって慣れないことを頑張って自分のために作ってくれたっていうことが嬉しいんです」


 つい熱く語ってしまう。


 勿論美味しさや見た目も大事ではあるが、そこを重要視するなら店の物を買えば良い。

 それを敢えて手作りにするということは、その気持ちを伝えるということなのだ。


 相手のために頑張った、それが一番大事だと思う。


「だから、柊さんは安心して相手に渡してください。絶対喜んでくれますよ」


「……分かりました」


 俺が真剣な視線を向け続けると柊さんはこくりと頷く。


 だが、まだ何か言いたいことがあるようで、眉をへにゃりと下げて伏目がちに上目遣いにこっちを見上げてきた。


「……例えばですけど、田中くんはその彼女さんから見た目があまり良くないチョコを貰っても嬉しいですか?」


「勿論です。彼女から貰えるならどんな物だって嬉しいです。死ぬほど喜びますよ」


 死ぬほどは言い過ぎかもしれないが、斎藤からチョコが貰えたなら、多分、というか絶対喜ぶ。その時のことを想像して、思わず笑みが溢れ出た。


「っ!?そ、そうですか」


 俺の返事に柊さんは一瞬目を丸くすると、上擦った声でそれだけ呟いて急に俯いてしまう。俯いた彼女の姿からは茜色に染まった耳たぶが覗いていた。


 

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