第65話 バイト先への来訪者
「ご、ご案内いたします」
なんでここに!?嘘だろ!?内心でバクバクと心臓が激しく脈打つ。だがここで冷静さを失うわけにはいかない。これまでにも何度かは同じ高校の人が来ていたのだから同じように対応すればいいだけ。そう自分に言い聞かせながら、なんとか平静を装う。メニュー表を持ち、空いている卓へと2人を連れて行く。
「こちらです」
手を添えて案内すると、一ノ瀬と女性は向かい合って座った。
「こちらがメニューになっております。ご注文の際はそちらのベルを鳴らしてお知らせ下さい」
焦る気持ちを押し殺しながら出来るだけ噛まないようマニュアル通りに話してメニュー表を渡す。これでとりあえずは離れられる、そうほっと気を緩めそうになった瞬間、一ノ瀬が声をかけてきた。
「ありがとうございます。……田中さんって言うんですか?」
「……はい。そうですがそれがどうかしましたか?」
じっとあの教室で見せた見透かすような視線で見つめられる。ここで目を逸らせばそれだけ疑われる要素になりかねないので、心当たりがないように不思議そうな表情を意識して惚けるように見つめ返す。
見つめ合ったのは実際にはほんの少しの間だっただろうが、とても長い時間に感じられた。一瞬張り詰めた空気が流れるが、一ノ瀬はふっ、と真剣な表情を緩めて朗らかに微笑んだ。
「いえ、なんでもないです。決まったら呼びますね」
「はい、失礼いたします」
笑顔を貼り付けたままその場を急いで離れる。お客さんから見えないところまで来て大きく息を吐いた。
はぁ。まさか一ノ瀬が来るとは。これまでも何回かは同じ高校の人が来たことはあったが、俺の知り合いが来たのは初めてだ。クラスメイトが来るのはまだいいとしてもよりによって一ノ瀬とは。
あいつは本当に勘が鋭い。気付かれただろうか?とりあえずこれ以上この場所で一ノ瀬と関わればバレるのは間違いない。
一ノ瀬の対応をどうするべきか迷っていた時、不意に柊さんに声をかけられた。
「田中くん、どうかしましたか?」
「あ、柊さん……。実は知り合いといいますか少し苦手な人が来ていまして。その卓だけお願いしてもいいですか?」
柊さんに一ノ瀬の対応を任せれば、少なくとも今日はもう関わらずに済むことに気付く。個人的な都合で勝手なお願いをするのは心苦しいが、今回だけは許してほしい。
「……はい、いいですよ」
俺の提案に少しだけ悩むようにしたあと、柊さんはこくんと頷いてくれた。
その後は順調に進んでいく。ちらっと見た感じ一ノ瀬を相手にきちんと対応してくれていた。料理も出したことだしあとは一ノ瀬が帰るのを待つだけ、そう気を緩めた時だった。
ガチャンッ!店内に何かが割れる音が響き渡った。
慌てて周りを見渡すと、柊さんが膝をついていた。一瞬で転んで食器を割ったのだと理解した。
急いで柊さんのところへと向かう。柊さんは転んだ拍子にメガネが外れてしまったようで、拾ってかけ直しているところだった。背をこちらに向けているので
柊さんの顔は見えない。
近くにいたお客さんに謝罪しようとした時、その卓はちょうど一ノ瀬の卓で、なぜか少し目を丸くしてメガネをかけ直している柊さんを見つめていた。
「失礼いたしました」
「あ、うん、大丈夫です」
俺の言葉にこちらに気づいたようで、いつもの調子で返してくる。
「柊さん、大丈夫ですか?怪我はないですか?」
「はい、問題ないです。とりあえず、この割れた食器を片付けましょうか」
「分かりました」
急いでほうきを持って食器の片付けを済ませていく。無事片付けを終えれば店内はまた元の静かな雰囲気に戻っていった。
「すみません、助かりました」
「いえいえ、怪我をしなかったならよかったです」
掃除道具を棚にしまいながら、そんな会話をする。それにしても珍しい。柊さんはあまりミスをしない人なので、少しだけ違和感を覚える。
「大丈夫ですか?もしかして、調子が悪いとか……」
「……いえ、そんなことはないですよ?」
「そうですか」
きょとんと不思議そうに首を傾げるので、俺の推測は外れていたらしい。まあ、それはいいことなので特に気にはしない。
「本当に助かりました。じゃあ、もうひと頑張りしましょうか」
「はい、頑張りましょう」
そこからはまたいつものように仕事をこなしていった。淡々と。食事の品を提供したり、食べ終わった食器を片付けたり。さっき起きた柊さんが転んだ事件が嘘のように何も起きずに過ぎていく。
––––––––だからだろうか、ほんの少しだけ油断していた。
(げっ!一ノ瀬!?)
丁度帰るところのようで、同じ通路の向こう側から歩いてくる。迂闊だった。仕事の方に集中するあまり、一ノ瀬への注意を疎かにしていた。
ゴクッと生唾を飲み込んで、通路の横にずれて待機する。これは仕事のマニュアルなので仕方がない。それにここで逃げたところで余計怪しまれるだろう。
頭を下げて礼をしながら、一ノ瀬たちが通り過ぎるのを待つ。カツン、カツンと靴音が近づき、目の前までやってくる。何か言われるかもしれない。そう覚悟を決める。だが、特に何も言われることなく靴音は止まらず過ぎ去っていった。
(よ、よかったー)
はぁ、と息を吐いたのも束の間、背後から声をかけられた。
「じゃあね、田中」
「っ!?」
慌てて振り返るとにやりと笑っている一ノ瀬がいた。その笑みは俺の正体を確信したそんな笑みだった。驚きのあまり頭の中は真っ白で何も言えずに固まってしまう。今度こそ用事は済んだらしく、どこか楽しそうに去っていった。
––––––––どうやら、俺の変装はバレたらしい。
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