6-5

 総合病院の屋上庭園。

 朱里亜は一度頭を冷やそうと救命センターを離れ、そこに身を寄せていた。


 男の方は保護者が現れたということで、早々に退散した。

 強い風がびゅうと吹き上げる。朱里亜は震える両肩を抱いた。


 しかし彼女の震えは、けっして寒さのせいだけではなかった。

 夕闇が倉敷市の空を藍色に染め上げる。


 ブルーモーメント、あるいは逢魔おうまが時。昼が夜に変わる瞬間は、悪魔が現れる。または不幸が訪れるとの言い伝えから、そう呼ばれたりもするのだ。


 両肩を抱きながら、遠い目をして暮れゆく藍色の空を見上げる。

 朱里亜は、自らの半生を思い返していた。


 自分も幼い頃に、親に虐待をされていた。

 幼い自分に対して、母は何度も手を挙げた。

 その激しさから、意識を失うことも何度もあった。


 母はシングルマザーだった。しかし働いている姿を見た記憶がない。

 男を取っ替え引っ替えで部屋へと連れ込み、その代償として生活費を賄っていたようだ。


 自分以上のあばずれで、父親は誰だか分からない。今の麻里亜のように、母の内縁関係だった男のひとりに殺されかけたこともある。


 初体験も、そんな間男の中のひとり。朱里亜は日常的に無理やりレイプされていたのだ。


 中学を卒業してから、逃げ出すように家を出た。

 それからしばらく、数々の男の家を渡り歩いて生きてきた。


 そんな荒れた生活の中で産まれた娘。それが麻里亜だ。

 父親は誰だかわからない。このままでは軽蔑していた母親とまるで同じだ。


 麻里亜を産んで数年後、母が急病で他界したとの通知を役所から受けた。

 しかし遺骨がどうなったのかとか、その後は知らないし知る気もない。おそらく無縁仏として、処理されたのだろう。


 これまでずっと、親を恨んで生きてきた。

 自分はあんなクズな母とは違う。


 だから自分でしっかり働いて娘を育てないと。

 こうしてキャバクラに勤め始めた。


 しかし慣れない接客業で心を病んで、鬱病となり一年前から無職の状態だ。

 以来、ナマポとパチスロに依存しながら、ぎりぎりの生活で食いつないでいる。


 負の連鎖ってあるんだなと、他人事のように考えてしまう朱里亜だった。

 娘には優しく接してあげたいのに。


 育児が上手くいかないと、ついつい大声や手を上げてしまう。

 こんなクズな母親で、きっと娘だって恨んでいる筈。


 だから自分なんて。

 自分なんて――。


 自分はあの時、死んでいれば良かった。

 母の間男に、殺されていればよかったのだ。


 そうすれば、負の連鎖は断ち切れたのに。

 娘の麻里亜を、苦しめずに済んだのに。


 自分のように、最低最悪なクズ親の元で育っても。

 脳に重度の障害が残ったまま、この世に生き延びても。


 どちらにせよ、お先真っ暗の人生だ。

 だから麻里亜は、このまま息を引き取った方がきっと幸せ。


 それが、あの子の為だ。

 そして今度こそ、自分も死ぬべきだ。

 今こそ、負の連鎖を断ち切らなければ――。


「そう思うのは自由だけど」


 朱里亜がはっと振り返る。


「今、あなたに勝手に死なれても。書類上、困るのよね」


 白いコート姿の少女だ。高学年児童ぐらいだろうか。

 心の中を見透かされたような発言に、朱里亜が戸惑う。


「あんた……何者なの?」


 抑揚のない口調で少女が言う。


「天使よ。あなたの娘を迎えに来たの」

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