第8話
終業後、晴子は休憩室で桃比呂がやって来るのを待っていた。
カニのことを考えると、同時にあの正月のことも考えてしまう。みっともなく、冷たく、あさましい昔の自分の食欲のことを思うと、胃の中に石が詰まったような感じがして気分が重くなり、なにも食べたくなくなった。
好物のことなど思い出さなければよかった。いっそのこと桃比呂が来る前に帰ってしまおうかと思ったところに、当の本人がやって来た。
「すみません、お待たせしました。行きましょうか」
昏い気持ちで桃比呂を見上げると、いつも通りの、何を考えているのかちっともわからない無表情で立っている。晴子がなにも言わずにじっと見続けても、桃比呂は表情を変えることもない。
本当はなにも考えていないのではないか。頭の中はからっぽで、いつでも瞑想状態なのかもしれない。そう思うと、悩んでいた自分がバカらしくなった。
小さくため息をついて立ち上がり、桃比呂の後に続いて休憩室を出た。
桃比呂が向かったのは、会社からバスと電車で二十分ほどの繁華街にあるカニ料理専門店だった。六階建てのビル一棟まるまるが、カニ料理を提供するためだけに作られたビルの壁には、大きなカニの模型が張り付けられ、足をウネウネと動かしている。
カニの動きが苦手な人なら気持ち悪がるだろう。特に苦手でもない晴子の食欲さえ、ますます減退させられた。店の前まで来てしまったが、やはり帰ろうかと思っていると、桃比呂は晴子を振り返ることもせず、スタスタと店に入って行く。仕方なく後について行くしかなかった。
店内はがらんとしていた。一階はテーブル席になっていて、四人がけのテーブルが十卓並んでいる。だが、背もたれの低い、そば屋かうなぎ屋のもののような椅子には誰も座っていない。平日の夕方まだ早い時間だからかもしれないが、閑散とした空気はこの店の日常にしっかりと馴染んでいるようにも思われる。空気の冷たさが冷却装置からの風のためだけではないようだ。
店の奥から出てきた和服姿の店員に桃比呂が名前を告げると、二階の座敷に案内された。晴子は階段を上りつつ、六階席の客も階段で上るのだろうか、料理を運ぶのも階段だろうかと、どうでもいいことをぼんやりと考えていた。
通された部屋は六畳でこじんまりしている。掘りごたつ式の座敷でテーブルを挟み、桃比呂と差し向かいに座る。店員に飲み物をどうするかと聞かれ、二人とも烏龍茶を頼んだ。料理は予約してあるようで店員はすぐに部屋を出て行った。
いつもは隣り合って座っているので、桃比呂の顔を見ることはあまりない。晴子は初めてつくづくと桃比呂を観察した。濃紺のスーツと同じような色のネクタイは、いつも変わらず、まるでそれしか持っていないかのように着ている。ワイシャツの胸元に少しシワがある。朝ならばアイロンがよく利いてピンとしているのだろう。
色白で顔が小さく首が長い。これで顔が良ければモデルにでもなれるのかもしれないが、残念ながら顔は普通としか言いようがない。それでも悪い顔ではない。
細い目、細い鼻、細い唇、どれも細いながらに顔のパーツは整っている。パッと見ると神経質そうにも見えるが、昼休みにテーブルに落ちたおにぎりのご飯粒を拾って口にするところから考えると、たいして神経は使っていないのかもしれない。
かなり無遠慮に、じろじろと観察しているのだが、桃比呂は何も言わず、顔を背けたりすることもない。いつも通りの無表情で、じっと晴子を見返している。晴子も見られていることをとくに気にするわけでもない。二人は無言で互いを観察しあった。
人に見られることも苦手なはずだが、今は平気だと晴子は不思議に思う。桃比呂の無表情がもたらす効果なのかもしれない。マネキンに見つめられているような感覚に近いのかもしれない。さまざまに考えてみたが、答えは出なかった。
ぼんやりと見つめあっているうちに料理が運ばれてきた。カニときゅうりの酢の物、タラバガニの刺身、茹でガニ、そこまでが一度にやって来た。晴子は二十年ぶりのカニを前に緊張していた。
あの日から食べてはならなくなったカニをここで食べて、また何か良くないことが起きないだろうか。本当に食べてもいいのだろうかと見上げると、桃比呂は淡々とカニの酢の物を口に運んでいた。十回噛んで飲み込む。次のカニの身も十回噛んで飲み込む。いつもと何も変わらない。
晴子は、酢の物の入った小鉢に鼻を近づけ臭いを嗅いでみた。酢の臭いの中に、たしかにカニの甘い香りも混じっている。箸をとってカニの身をつまむと目の高さまで持ち上げて、しばらくじっと眺めてから口に入れた。
舌に乗せたカニの身を噛むことが出来ずに、口をすぼめたまま桃比呂に視線を向けると、すでに酢の物を食べ終えて、刺身に手を伸ばしている。晴子の動きが止まっていることには無関心なようだ。晴子は口の中のカニの始末について時間をかけてゆっくり考えた。
食べるか、吐き出すか。
今ならどちらでも選択できる。晴子の意思しだいだ。晴子はまた桃比呂を見た。黙々と茹でガニの殻からカニ用のフォークで身を掘りだしている。無心な様子でカニと向き合っている桃比呂を見ていると、悩んでいる自分がバカらしくなってきた。
カニは、ただのカニだ。晴子が悩もうがどうしようが、すでに料理されて目の前に並んでいる。晴子が食べなければ干からびて、無駄に捨てられるだけだ。あの日と同じように。
考えこんでいるうちに、噛んでもいないのにカニの味がじんわりと感じられるようになっていた。ゆっくりゆっくりと噛みしめる。
海の香りとカニ独特の甘さ、筋肉繊維がほぐれていく感じ。どれもよく覚えていた。忘れたふりをしていただけだ。
晴子は掻きこむようにして酢の物を飲み込むと、刺身もあっという間にたいらげた。箸を放り出して茹でガニにむしゃぶりつく。夢中になって身をほじっていると次の料理が運ばれてきた。焼きガニ、カニシュウマイ、カニのステーキ、どれも熱いうちにぺろりと食べてしまう。カニの茶碗蒸しも、カニ雑炊も食べきり、デザートのバニラアイスクリームがやって来て、晴子はやっと人心地着いた。
長い間ずっと忘れていた好物は今でも変わらず好きで、干からびさせることもなく思う存分食べきることができた。
「美味しかったですか?」
デザートを食べ終えた桃比呂が尋ねた。晴子は黙ったまま、ゆっくりと大きく頷いた。桃比呂の頬がちらりと動いた。笑ったような気がする動きだった。きっと笑ったのだろう。
満腹で、カニは美味しく、悪いことはなにも起こらず、目の前にいる桃比呂もご機嫌だ。晴子は今まで感じたことがないほどの満足を覚えた。
おしぼりで手を拭いてもカニの匂いが残った。この匂いをずっと覚えていよう。そうすれば、いつでもこの時間を思い出せるだろうから。
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