第7話

 それから数日して、琴美が寿退社した。左手の薬指に小ぶりなダイヤモンドがついた指輪をはめていた。仲良しグループの女性たちが琴美を取り囲んで、おめでとうの大合唱をしている。

 なるほど、もらう専門とは指輪のことだったのだなと納得して、謎が一つ解けた晴子は、なにやら気分がよくなった。


 琴美がいつもの仲良しグループから離れた隙に、こっそりと話しかけてみる気にもなった。そっと忍び寄って背後から声をかけた。


「指輪、もらったの」


「そうなの!」


 振り返った琴美の笑顔はキラキラ輝いているようで、とてもまぶしかった。もう少しで、晴子が住んでいる迷宮の奥まで、その輝きは届きそうだった。明るい光にさらされて自分の奥底を見られたくはない。

 誰にも、自分自身にさえも。晴子は怯んで一歩下がった。


「そうだ、ちょっと待ってて。渡したいものがあるの」


 晴子は小走りに走っていく琴美を見送った。このまま放っておいて立ち去りたい気もした。琴美の輝きは、晴子などには遠く手の届かないものが世界にはいくつもあるのだということを、はっきりと思い出させた。欲しても近づくことさえできないことが、山のようにあるのだと。

 そんなことは知りたくない。自分の手でなにも掴むことが出来ないことを、直視したくはない。現実は晴子には受け止められないほど恐ろしいのだと思い知りたくはない。


 逃げようと足を踏み出したとき、ロッカールームに入って行った琴美が小さな包みを持って出てきた。輝くような笑顔で近づいてくる琴美を見て、晴子は諦めて足を止めた。


「これ、もらってくれない? お世話になったお礼」


 差し出されたピンクの小さな紙袋に晴子は目を丸くした。


「お世話してない」


 はっきり言えばお世話されたのは晴子の方だ。それでも琴美は優しい笑顔を浮かべる。


「仲良くしてもらったもの」


「でも」


「迷惑?」


「べつに」


 そう答えると琴美は晴子の手を取って包みを握らせた。


「女の子はね、もらうのが専門なのよ。遠慮しなくていいの」


「あなたは?」


 琴美はまた、まぶしいくらいの微笑みを見せた。


「私はもう、一番大切なものをもらったからいいのよ。もらう専門は卒業。これからは、あげる専門になるの」


「そうなの」


「そうよ」


 晴子は素直に包みを受け取って小さく頭を揺らした。琴美は晴子がプレゼントを受け取ったことが本当に嬉しいと思っているようだった。人の気持ちを汲むことをしない晴子にもはっきりとわかるほど、幸せそうな明るい笑顔だ。


 琴美は晴子の肩をぽんぽんと軽く叩いて、またロッカールームに入って行った。まだ誰かにプレゼントを渡すのだろう。あげる専門になるのも大変なんだなと琴美を応援するような気持ちになった。


 そう思った自分に、はっと驚く。近くにいる誰かが大変な目にあっていようが自分には関係ないとずっと思って来たのに、なぜか琴美のことは気にかかった。もうこれから会うことがなくなるということで感傷的になっているのだろうか。そう思うと自分がずいぶんと薄っぺらな人間になったような気がした。


 一人きりで生きていくしかない、迷宮の奥の奥を照らす輝きなど持ってもいない自分が何を悲しもうというのか。誰にも必要とされていない、誰も必要としていないはずの自分なのに。


 それなのに出来ることなら誰かにこの闇のような迷宮の奥から連れ去って欲しいと思ってしまいそうだった。晴子はあわてて目をつぶり、自分には分不相応な誰かの幸せを願う気持ちを抑え込んで、一人きりの迷宮の中へ自分を押し返した。重い息を吐いて、いつもの昏い穴の中から目だけを出しているような心持ちに戻った。


 一人きりだ。大丈夫、一人きりだ。何度も自分に言い聞かせる。


 すっかり心の波が静まって仏頂面が戻って来てから、受け取った小袋を開けてみると、中身は袋と同じようなピンク色のハンカチだった。白い水玉模様で、ふちにはフリルとリボンがついている。

 これをどういうシチュエーションで使えばいいのだろうかと眉根を寄せていると、いつからいたのか桃比呂が晴子の隣に立ってピンクのハンカチを見下ろしていた。


 突然現れた桃比呂に内心ぎょっとしたのだが顔には出なかったようで、桃比呂は平然としている。もしかしたら、ピンクのハンカチにしか注意が向いていなくて、晴子がいることにも気づいていないのかもしれない。そう思えるくらい、桃比呂の視線はハンカチに釘付けだった。


「いる?」


 晴子が聞くと桃比呂は、その細い目を見開いて驚いた。だが、すぐにいつもの無表情に戻ると、耳をくすぐるような低い声でそっと答えた。


「いえ、悪いですから」


 無理やり自分自身に言い聞かせているような言い方をする桃比呂がおかしくて、晴子はニヤリと笑った。


「交換する?」


「本当ですか!」


 目を輝かせる桃比呂はやはり犬のようだ。尻尾があったら、ブンブン元気よく振っているだろう。


「そうだ、さっき平田さんからいただいたハンカチがあるんですけど……、いただきものではダメでしょうか」


「べつに」


「じゃあ、よろしくお願いします!」


 桃比呂はジャケットの内ポケットから紺色の包みを取り出して両手で差し出した。晴子からピンクのハンカチを受け取った桃比呂は大事な宝物を扱うかのように、そうっと内ポケットにしまった。


「かわいいもの好き?」


「はい。すみません」


 桃比呂は申し訳なさそうに俯いた。桃比呂が何を謝っているのか、いまひとつ分からなかったが、晴子はとりあえずいつものように相槌を打った。


「べつに」


 ちらりと晴子に視線を戻した桃比呂はさらに肩を縮めた。その縮こまった姿も叱られた犬のようで、晴子はニヤニヤしてしまう。俯いたままで晴子の表情に気付かない桃比呂は、なぜだか申し訳なさそうにしている。


「ゆるキャラも、このハンカチもかわいくて、つい無理を言ってしまって。呆れているでしょう」


「べつに」


 昼休みの休憩室という戦場で助け合う同志を激励したような満ち足りた気分で立ち去ろうとする晴子に、桃比呂が恐る恐る尋ねた。


「男のくせにかわいいものが好きだなんて気持ち悪い、と思いませんか」


 何を聞かれたのか意味がわからず、晴子は桃比呂を見上げた。桃比呂はとても大切なことを尋ねているような、それこそ人生がかかっているのかもしれないと思うほどに真剣な表情を浮かべていた。


 晴子はその真っ直ぐな瞳に圧倒されて、すぐに口を開くことができなかった。時間がたつごとに桃比呂の顔にだんだんと曇りがさしはじめた。暗くなっていく表情がかわいそうになって、晴子は首を横に振った。気持ち悪くないと伝えたつもりだったのだが、なぜか桃比呂は逆の意味に取ったようで、ますます雰囲気が暗くなる。


 仕方なく晴子は苦手な言葉で伝えようと思った。だが、どう言えばいいのか考えているうちに、桃比呂の視線は下へ下へと落ちていく。

 踵を返して歩きだそうとした桃比呂の背中に向けて、晴子はあわてて口を開いた。


「いや、ない!」


 叫んだ晴子の勢いに驚いた桃比呂が顔を上げた。晴子はしばらく言葉を探し続けたが見つからず、いつもの仏頂面に戻った。


「べつに」


 それだけで言いたいことは伝わったようで桃比呂の瞳が揺れた。あ、泣くのかなと思ったが、桃比呂は笑った。


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げて去っていく。その足取りがいつもより軽やかなようだった。


 晴子は自分がとてつもなくいいことをしたような気がして、そわそわと落ち着かなくなった。

 自分が他人になにか影響を与えることがあるなんて、何か悪いことの予兆ではないだろうか。

 晴子にとって他人は皆わけのわからない生き物だ。理解できない衝動にまかせて活動して理屈に合わないことを言う。


 都合の良いときには好き勝手に褒めておいて、都合が悪くなるとひどく貶す。個々人が気分だけで生きていて、気が向かないと平気で人を傷つける。

 そんな棘だらけの人間関係しか知らない自分が、誰かを笑わせることが出来るなんて今まで考えられなかったことだ。晴子はいつだって、人の動きと感情に振り回され続けるだけの木偶の坊でしかなかったはずなのに。


 鼓動がドクドクと耳に響くほど大きく早くなって、血が足許へ向かって下っていくような不快さを感じた。体温も下がってきた。晴子は桃比呂から受け取った紺色のハンカチをぎゅっと握りしめる。

 足許にわだかまる昏い穴に頭から落ちてしまいそうだった。自分がしたことのせいで誰かが変わっていく、そんな恐ろしいことがあってはならない。晴子は誰かを変えてしまった責任など負えない。


 それに周りの何かが変わってしまったら、晴子だって変えられてしまうかもしれない。

 だが、と、ふと思う。もしかしたら桃比呂はいつも隠しているだけで、本当は笑顔も多くて明るい人間なのかもしれない。

 それなら問題ない、それなら晴子は責任を取る必要もない。目を開けてハンカチを見下ろす。ぐらぐらと眩暈がした。なんとかしなければ、また動けなくなる。なんとかしなければ。

 晴子は試してみることにした。


 翌日から昼食を買い求めるコンビニで、かわいいものを見ると買うようにした。ミニチュアの家具に飴がついている食玩や、ぬいぐるみが当たるクジを買ってみたりする。

 買ったものを弁当と並べてテーブルに並べておくと、休憩室にやってきた桃比呂の目が、かわいいものに釘付けになる。そのままふらふらと歩いてきて晴子の隣の席に座る。今日も晴子は手のひらに乗るくらいのサイズのヒヨコのぬいぐるみを仕入れてきていた。


「いる?」


 尋ねると小さく頷く。大柄な桃比呂が子どもに戻ったみたいに素直だ。かわいいものを手のひらに乗せていると頬が少しだけゆるんでいる。かわいいものを見つめる視線は優しく真っ直ぐだ。


 だが昼休みが終われば、桃比呂はいつも通りの、感情がないような無表情に戻る。何日もその反応を見続けて、晴子はやっと安心した。桃比呂はやはり元からこういう人間だったのだ。

 かわいいものやきれいなものに心動かされる細やかな感性を持っている人間なのだ。それでいて周囲には本当の自分を隠して、無表情な冷静さを装っているのだ。

 どんな信念があるのかは知らないが、桃比呂のいつもの固まったような無表情が晴子のちっぽけな行動ごときでブレるはずがない。


 桃比呂の自分に対する態度が変わらなかったことに心底、ほっとした。晴子は自分を取りまく昏い迷宮の奥で、桃比呂の笑顔がもたらす一筋の光を感じた。今にも消えてしまいそうな細い光だ。その細い細い、力のない光ならば、自分を変えることはないだろう。

 なにしろ桃比呂は、自らその光を冷静な表情の仮面をかぶることで消してしまうのだから。晴子は恐れることなく、時折、漏れ入ってくるその光を見つめることが出来た。



 今日も晴子は、かわいいものを、そっと桃比呂の方に押しやる。


「いいんですか?」


「いいよ」


「ありがとうございます」


 桃比呂は晴子の手許から子ネコのぬいぐるみを受け取ると両手で包んで見つめる。瞳がキラキラと輝いている。晴子はついでに買ってきた、かわいらしいウサギのイラストが描かれたロールケーキの袋を開けて桃比呂に半分差し出した。


「いただきます」


 晴子がかわいいものを買い与えるようになってから、初めのうちは遠慮がちだった桃比呂も慣れてきたようで、最近ではすんなりと受け取るようになっていた。ロールケーキを食べ終えて、パッケージに描かれたウサギの絵をじっと見つめていた桃比呂が、至近距離で晴子の顔を覗きこんだ。


「いつもすみません」


 唐突な行動に驚いて、晴子は桃比呂の顔が近づいてきた分、頭を後ろに引いて距離をとる。謝られるようなことは何もないはずだがと、いぶかしんだ晴子は軽く眉を顰めた。


「……べつに」


 傍から見れば晴子の表情は不機嫌そのものに見えるだろう。だが桃比呂はそんな顔を見ることには慣れたものだ。いつもの無表情のマイペースのまま晴子の方を向いて座りなおし、姿勢を正した。


「僕ばかりいただいていて悪いので、何か相良さんに必要なものがあればプレゼントしたいのですが」


 唐突な申し出に晴子は目をしばたたいた。


「なにかありませんか」


 重ねて聞かれても晴子は答えることが出来なかった。昔からずっと欲しいと思っていたなにかがあったような気はするのだが、思い出せない。思い出せないなら大したことではないのだろうと思う。


「べつに」


 いつも通りの返事を予想していたのだろう、桃比呂は軽く頷いて次の提案にうつった。


「なにか食べたいものはありませんか。おごります」


「カニ」


 間髪おかずに晴子の口から答えが滑り出た。そういえばカニが好物だったことを自分の声を聞いてからようやく思い出した。コンビニ弁当の日々を送ってきた晴子は、もう何年も好物を食べていなかったし、薄給の身で高級食材のことは考えても仕方ないと諦めていた。


「では、カニを食べに行きましょう。今日はどうですか?」


 晴子は勢いよく何度も頷いた。桃比呂も生真面目に頷いて、一足先に仕事に戻っていった。降ってわいた僥倖に晴子はしばらく固まっていた。


 カニ。松葉ガニ、越前ガニ、ズワイガニ、カニ、カニ、カニ。


 頭の中がそのことでいっぱいになってうわの空で、午後の仕事はろくに手につかなかった。

 たびたび、ボーっとして手が止まる。

 カニ。

 考えただけで口の中に唾が湧いてくる。カニが好きだということは思い出せたが、はたしてどんな味だったのかは、さっぱり思い出せない。

 美味しかったというぼんやりしたイメージに浸っていると、小さい頃に家族そろってカニ鍋を食べたことを思い出した。



 正月に、おせちだけでは子どもにはつまらないだろうからと言って、母が奮発して市場で大きなカニを買ってきたのだ。茹でられぬままの生のカニを、しゃぶしゃぶにして食べた。

 妹の朝子はまだミルクを飲んでいたのでカニを食べていたのは両親と晴子だけだった。生来、食欲の強い晴子は遠慮などすることもなく、カニを貪り食って両親の口にはほとんど入らなかった。晴子は深く感動して何日もカニの話をし続けた。


 翌年の正月もカニ鍋だった。晴子は両手にカニの足を持って一人占めして食らいついていた。

 隣で大人しく鍋の中の白菜を食べていた朝子が、突然、その場で吐き戻した。手や首に赤く発疹が浮いていて、両親が救急病院に連れて行った。


 小学二年生になっていた晴子は一人で留守番をすることになった。晴子はカニ鍋を前に途方に暮れた。自分が何をすればいいのか、何を思えばいいのかわからずに戸惑っていた。

 正直なところ、朝子を心配する気持ちはほとんどなかった。けれど一人でカニを食べてしまってはいけないような気がしていた。


 だが目はカニに釘付けで食欲が収まることはなかった。冷めていく鍋を眺めながら、晴子は自分の心の中にカサカサと乾燥した冷たいなにかがあることに生まれて初めて気付いた。その時見つけた冷たい心は、今も晴子の中にあって、晴子を通して世の中を昏い目で見つめている。


 それ以来、甲殻類アレルギーだった朝子のために、相良家の食卓にカニが上ることはなくなった。

 晴子は正月を迎えるたびに発疹が浮いた朝子の顔を思い出そうとしたが、思い出せるのは食べられることなく、じわじわと乾燥していったカニの姿だけだった。

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