第9話


 一階に下りて、桃比呂が会計をすませるのを待っていると、自動ドアが開いた。視線を向けると、ヒゲもじゃの男性とハンサムな人の二人連れが入ってきた。もしかしたら今日の客はこの二人で終わりなんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、なんだか見覚えがある人間だなと晴子が考えていると、ハンサムが晴子に気付いた。


「こんばんは。偶然ですね」


 声を聞いて思い出した。河野夏生ピアノ教室だ。晴子は挨拶の代わりに軽く頭を揺らした。夏生は楽しそうに笑いかけてくる。


「デートですか?」


「べつに」


「違うんですか? 意外だな」


 晴子がデートをするような人間に見えるのかと思いながら尋ねてみる。


「なんで」


「カニを一緒に食べられるのはかなり親しい人だけという定説があるから。親しい友人や恋人じゃないと無言の食事は気まずくなるからね」


 適当に頷いてみせた晴子に会釈してから夏生が通り過ぎた。夏生の連れのヒゲもじゃの男性も晴子達に微笑みかけてから歩き去る。その頬から顎までの立派なヒゲを黒いサンタクロースのようだな、まだ若いサンタかなと思いながら見送っていると、いつの間にか隣に移動してきていた桃比呂が尋ねた。


「知り合いですか?」


 晴子が頷くと桃比呂は珍しく二人に興味がありそうな視線を向けた。いつも無表情な桃比呂でも人間に興味を持つこともあるのかと感心する。


「カニを一緒に食べるとデートだというなら、彼らもそうなんでしょうね」


「男同士でもデートっていうの」


 階段を上っていく二人の背中を眺めながら、そういうこともあるのかと晴子は納得しそうになった。


「女性ですよ」


 晴子の動きがぴたりと止まった。


「ヒゲもじゃ?」


「いえ、もう一人の方です」


 もう見えなくなった夏生の後ろ姿を思い出してみても、男性としか思えない。初めて会ったときに中性的だとは思ったが、第一印象から女性だとは思いもしなかった。


「男装の麗人とは彼女のような人を言うのでしょうね」


「男じゃない?」


「女性でしたよ」


「なんでわかるの」


「僕も同類ですから、同じ臭いがします」


 晴子は、くんくんと鼻を鳴らしながら、まじまじと桃比呂の頭からつま先まで視線を這わせた。特別な臭いはしなかった。


「女なの?」


「いえ、男性です」


「男装?」


「いえ、男性です。女装趣味の」


 二人の間に無言の時間が流れた。いつも無表情で隠しているものはこれだったのかと晴子は感心した。桃比呂はいつも通りの無表情で晴子から視線をそらした。


「出ましょうか」


 うながされて晴子は自動ドアをくぐった。外はすっかり暗くなっていた。片道二車線の道は渋滞していて、テールランプが赤い川のように連なっている。

 来るときはバスだったが、この渋滞なら歩いた方が早いだろう。二人は黙って歩きだした。

 桃比呂は前を向いて、やや速足で歩いて行く。晴子は置いて行かれないように大股でついていく。桃比呂のスピードがどんどん速まり晴子が小走りになったころ、桃比呂が真っ直ぐ前を見たまま話しかけた。


「驚きましたか?」


「べつに」


「気持ち悪いですか?」


「べつに」


 急にぴたりと桃比呂は足を止めたが、止まり切れなかった晴子は桃比呂の左手にぶつかった。突然どうしたのかと桃比呂の顔を見上げると、桃比呂は晴子と視線を合わせて笑顔を見せた。


「よかった」


 細い目がますます細くなって糸のようになる。新月前後の月もたしかこんな形だったなと晴子は思う。


「女装してなにするの?」


 桃比呂は笑顔のまま首を横に振ると、また歩き出した。ゆったりとした歩調で晴子も落ち着いて歩くことが出来る。


「家で一人で楽しむだけです」


「どこで買うの」


「通信販売です。今はなんでも揃うんですよ。服もカツラも化粧品もアクセサリーも」


「下着は?」


「いえ、そこまで本気のレベルではないので」


 女装にもレベルがあるのかと感心していると、桃比呂がくるりと振り向いて後ろ歩きで話しかけてきた。


「たまにサイズを間違っちゃうんですよ。でも、もったいないから捨てられなくて。小さいサイズの服が、かなりあるんです。もらってくれませんか」


「いいけど」


「よかった」


 また笑顔になった桃比呂はいつもとは別人のようで、晴子はどういう顔をしたらいいのか迷ったが、どんなに考えても表情筋は動かなかった。まあ、どうでもいいかと、いつも通りの仏頂面で歩いた。

 桃比呂は満足したようで前を向いてゆっくりと歩く。晴子は空を見上げてみた。桃比呂の目のような細い月はまだ出ていなかった。



 シフトを確認すると二人の休みが重なる日がなかったので、晴子が余りに余っている有給休暇をとることになった。その日は土曜日で、両親が家にいるはずだった。二人とかちあわないようにと晴子は早朝に起き出して手早く着替え、パジャマを洗濯機に放り込んで家を出た。

 外はまだ暗く、夜の名残で肌寒い。エレベーターで一階に下りたところで、帰ってきた朝子に見つかった。


「お姉ちゃん、久しぶりー」


 へらへら笑う朝子は缶ビールを片手に持って、かなり酔っぱらっているようだった。


「お出かけー? どこ行くのー?」


「べつに」


「早起きだねー。私はねー、朝帰りー」


 面倒くさいので放っておこうと朝子の横をすり抜けようとしたが、腕をがっちりと掴まれた。


「どこ行くのー、どこ行くのー」


「べつに」


 腕を振りほどこうとしたが、いやに力が強い。そう言えば学生時代は部活で何か球技をしていたはずだ。握力も鍛えていたのかと、うんざりと妹を見上げた。知らないうちによく成長していたようで、晴子より十センチは背が高い。

 そう思ったが足許を見るとヒールが五センチはありそうなパンプスを履いていた。


「私はねー、同窓会だったのー。お酒いっぱい飲んだー」


「ああそう」


「それでねー」


「うるさい」


 晴子に邪険にされてもめげずに、朝子は話し続ける。


「元カレに会ったんだー。もう子どもが二人もいるって」


「知るか」


「私と付き合ってる時から、今の奥さんと付き合ってたって。私、二股かけられてたの。どう思うー?」


「知らん」


「私、傷ついたのー。すごく傷ついたの。だからねー、浮気させてやった」


 へへへ、と朝子は顔を歪めた。


「浮気がばれるように、スーツのポケットにピアス片方入れてやった」


「あんた、結婚は?」


「するよ」


「旦那は」


「旦那がなにー?」


「傷つかないの」


「知ったら傷つくかな。だから、死ぬまで秘密なの。お姉ちゃんも秘密にしてね」


「知るか」


 朝子の顰めたような苦そうな笑顔が、くしゃっと崩れた。なにか痛みをこらえているような表情のまま、晴子の両腕を握って揺する。


「約束してよ」


「知らん」


「約束してよお」


 両腕を握ったまま、自分より小さな晴子にすがりつくようにして朝子は泣きだした。晴子はため息を吐いて、朝子のしたいようにさせた。声をこらえて泣く朝子の喉から息と混ざって高い声が漏れ出てくる。たまに、ひっくひっくと、しゃくりあげる音は、生まれてすぐのころの赤ん坊の朝子を思いださせた。


 頭がまん丸で、いつ見ても寝ていた。ミルクを飲むのが下手で、すぐにしゃっくりをして授乳に時間がかかっていた。母は疲れると途中で晴子に朝子を託した。

 晴子はしゃっくりを続ける赤ん坊を、震えながら抱えた。腕の中の小さな生き物を見下ろして、このまま普通の呼吸に戻らずに、死んでしまうのではないかと思ったものだ。


 今、目の前で泣いている朝子は、放っておいても死にそうにもない。しゃくりあげている声にも筋力が働いているとわかる力強さがある。本当は本人が一番それをわかっているだろうに。

 腹も減っていないだろう、トイレに駆け込みたいわけでもないだろう。それなのに大人になっても、よく泣くものだ。いったい何が欲しくて泣いているのだろう。


 考えても晴子にはわかりそうもなかった。ただ、いつもなら泣いている大人になど関心はないのに、朝子のことは気にかかった。血がつながっているから、というのはなんだか違うような気がした。

 晴子にとって家族とは重い石であり、この世界に自分を縛りつける足枷でしかない。妹だからといって朝子が特別な人間なわけじゃない。自分にとって、いないと生きていけないような存在ではない。

 ただ赤ん坊のころから知っていて、大きくなるまで近くにいた。それだけでしかないはずだ。けれど放っておくのは違う気がした。


「大丈夫」


 ぐずりながら朝子が顔を上げた。


「言わない」


 涙と鼻水で朝子の顔はぐちゃぐちゃだ。


「誰にも」


 朝子はぐちゃぐちゃの顔をさらにぐちゃぐちゃに顰めて「うー」と変な唸り声をあげて泣いた。




 朝子の気がすむまで泣くのに付き合っていたら 外が明るくなっていた。


「ごめんね、お姉ちゃん。出かけるの邪魔して」


「べつに」


 つぶれたような鼻声の朝子の、目が腫れて三分の一ほどしか開いていない顔をじっと見つめた。化粧が取れてぼろぼろの朝子は、なぜか大人の女性には見えない。苦労を知らずに泣きじゃくるだけの小さな赤ん坊の頃に戻ったようだった。結婚するというのは、きっと赤ん坊のように、何もかもこれから新しく始めていくということなんだろう。


「行ってらっしゃい」


「ん」


 短く言って晴子は外に出た。




 電車に揺られて二駅先まで。桃比呂の家がそんなに近いとは知らなかった。住所を見ると電車に乗らなくても、ぎりぎり歩いて行けそうだ。

 電車を降りてからは桃比呂が書いてくれた地図にしたがって進む。電車を降りて駅から十分もしないうちに、はたと立ち止まった。道に迷った。晴子は自分が方向音痴だとは思っていなかったのだが、どうやら地図を読む能力がまるでなかったようだ。


 駅まで戻ろうと、もと来た道を引き返そうとしたが、一つ目の交差点をどちらから来たのか思い出せなかった。振り返った時に体内磁石が狂ってしまったとしか思えない。交差点で四方の道の先を覗いてみたが、どこまでも住宅が連なっているだけだ。

 地図を見てみたが、住宅街などはそもそも書きこまれていない。朝早いせいか、道を歩いている人もいない。いたとしても晴子は話しかける気には到底ならなかっただろう。とにかくどこかへ出なくてはと、適当に右の道へと進んだ。


 一時間ほど右折左折を繰り返し、あてどもなく放浪した。地図もわからず、人にも会わなかったが、奇跡的に駅まで戻ってくることが出来た。底の薄いスニーカーのせいで足の裏と膝が痛い。もう無駄に歩き回るのはこりごりだった。

 嫌々ながら地図の隅に書かれた桃比呂の携帯番号に電話をかけることにした。と言っても晴子は携帯電話を持っていない。誰に電話をかける気もなかったし、晴子に電話をかけてくる人もいない。そもそも電話なんか大嫌いだ。


 駅に公衆電話はなかったので、目についたコンビニまで移動した。緑色の受話器を取ってプッシュ式のボタンを押す。ひとつボタンを押すごとに緊張してくる。電話をかけるなんて二十数年ぶりだ。手が震える。

 十個目のボタンを押した。最後のボタンを押そうとしたのだが、受話器を握った左手が勝手に受話器を置いてしまった。コイン返却口に十円玉が落ちてくる。

 自分がしたことなのに、チッと舌打ちして十円玉を拾いあげ、もう一度電話をかける。最後のボタンを押す前に肺いっぱいに息を吸う。息を止めて力いっぱいボタンを押し込んだ。


『はい』


 呼び出し音も鳴らないうちに応答があった。驚きのあまり晴子の動きが止まる。


『相良さん?』


 桃比呂の声だ、間違いない。いつもの良く響く声だ。安心してどっと疲れが出た。体が重くて仕方ない。頭もうまく回らない。何か言わなくてはと思ったが「もしもし」の「も」すら出てこなかった。

 呼吸が荒くなり喉の奥からヒーヒーと乾いた雑音が聞こえる。声を殺して泣いているようなその音が聞こえたのか、桃比呂があわてたように言葉を続けた。


『道に迷ったんですね。駅前のコンビニですか?』


「う……」


『すぐに行きます。そこで待っていてください』


 手短に電話は切れた。晴子が口を開かなくてもすべてを察した桃比呂に対する驚きから抜け出せない。

 受話器を耳に当てたままで動けなくなった。電話しておいて「う」しか言っていない。恥ずかしさで身がすくむ。

 日本語も話せないのかと自分をののしりたくなった。桃比呂は呆れているだろう。こんなダメな人間だと知られてしまって、どうすればいいか分からなかった。


 いつも偉そうに周りの人間を無視している自分が、ただの無能だと知られてしまった。いや、もしかしたらそんなこと、とっくにお見通しだったのかもしれない。桃比呂は入社当時からずっと晴子のことを知っている人間なのだから。


 いや、そう思っているのは晴子だけで桃比呂は晴子のことなど顔も覚えていないかもしれない。それどころか名前さえあやふやで到底知人とは呼べないと思っているのかもしれない。

 いや、そうではない。桃比呂は自分の上司でもあるのだ。冷たい目で、あの細い怜悧な目で自分を監視し、ランク付けしているのかもしれない。そのランクの中ではどう考えても晴子は最低だっただろう。仕事は出来ない、コミュニケーションは取れない、笑いもしない、挨拶すらできない。それに、それに……。


 もっとなにか浮かんできそうだったが晴子の頭は、それ以上回らなかった。ただ、背中を寒気が這い上って貧血を起こした時のように地面に吸い込まれそうだ。すがりつくように懸命に両手で受話器を握りしめた。


「相良さん」


 耳元で声が聞こえた。


「大丈夫ですか?」


 両肩を支えられた。


 ほっと息が楽になった。両肩に伝わる手のひらの体温。特徴のある深みのある声。いつも通りの冷静な口調、いつもと変わらない桃比呂だ。大丈夫、私はまだ大丈夫だ。まだ人間でいられる。

 自分に言い聞かせながら振り返ると、そこには美女が立っていた。


「相良さん?」


 晴子は美女の長身にまず驚いた。自分の背丈を二十センチは越えているだろう。きれいに巻かれた髪は豊満な胸元へふわりとかかり、細いウエストから腰のなめらかな線へと続くラインの美しさは格別だ。二の腕の細さ、首の長さ、すべてが夢のようだと思わせる姿だった。

 細面の頬にはまつげが濃く影を落とし、切れ長の目は理知的で、高い鼻と、薄いが形の良い唇が美女の知性を強調していた。


「大丈夫ですか?」


 なぜか見知らぬ美女に気遣われて晴子は驚きから抜け出せぬまま、コクコクと何度も頷いた。美女は落ち着いていて聞きなれた、深く響くような低い声で囁いた。


「こんなことなら駅まで迎えに来ればよかったですね。すみません」


「……もも、ちゃん?」


 晴子がかすれる声で呼ぶと、美女は弾けるような笑顔で「はい」と答えた。

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