第5話
ふと目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。目をこすって体を起こす。
頭がぼんやりして、寝る前よりも疲れているような気がした。体が重くて立ち上がれない。何もする気になれず、ぼうっと座り続けていると、目が覚めた理由がわかった。
天井から、正確に言うと真上の部屋からピアノの音が聞こえてきていた。とんでもなく下手なピアノだった。一小節も弾けば、つっかえる。何度も同じところでつまづき、ちっとも前に進めない。和音を台無しにして、ただ鍵盤を撫でているだけだ。
イライラした。いつも昼間は仕事に行っているし、週に一度の休日は耳栓をつけてずっと寝て過ごす。ピアノを弾く人間が上階にいることなど知らなかった。しかも、こんなに下手くそだとは。
五分は我慢した。けれどイライラはどんどん大きくなるばかりだ。いつまでも同じところでつまづき続ける演奏者に、腹が立って腹が立って仕方ない。離れから飛びだし、掃除機のノズルを引っ掴んで、天井を突き上げようと身構えた。
その時、今まで聞いたこともないような美しい音が天井から降ってきた。素晴らしい演奏だった。大学を辞めて以来、鬱のせいか音楽のことなどまったく興味がなくなった晴子が、ぽかんと口を開けて聞き惚れるほど、その演奏は晴子の胸を震わせた。
その音はたったワンフレーズだけで終わり、また下手な演奏者にバトンタッチしてしまった。
だが、いつかまたあの音を聞けるかもしれないとノズルを手放し、正座して天井を見つめた。しかし、しばらくするとピアノの音はやんでしまった。
「天井から天上の音楽……」
一人、ダジャレを呟いて、誰も聞いていないのに赤面した。
掃除機のノズルを持ってうろうろしたせいか、お腹が空いた。離れを抜け出して食事に出ることにした。ついでにどこか涼しいところに居座って、夜まで時間をつぶそう。
そう思いながら一階に降りて、ビルのエントランスで郵便受けに目をやった。防犯意識の高まりのためか名前を掲示していない部屋が多い。晴子の家も表示されているのは部屋番号だけで、名無しだ。
だが晴子の部屋の上の階、ピアノの音をさせている部屋は、きちんと郵便受けに名前を出していた。
『河野夏生ピアノ教室』
なるほど、天上の音楽はピアノの先生のものだったのか。納得して通り過ぎた。
涼しくて暇をつぶせる場所を求めて近所をうろつく。喫茶店、ネットカフェ、ファミレス、どこでもよかったのだが、どこも値段が高い。
夜までネットカフェにいようと思ったら千五百円もかかる。ファミレスだって言語道断だ、ランチセット七百八十円を頼んだだけで破産しそうだと脅えて近づけない。
かといって今は夏のど真ん中。外で時間をつぶしていたら熱中症にでもなるだろう。結局いつものコンビニ弁当を買って、汗だくになりながら離れに戻ることにした。
ぼろビルのエントランスは北向きで、周囲からビル風が強く吹く。おかげで、クーラーもないのにずいぶんと気温が低い。晴子は立ち止まってしばらく涼んでいくことにした。
ぼんやり立っていると、出がけには空っぽだった郵便受けに郵便物が入っているのが目についた。いつもなら放っておくのだが、今日はなぜか郵便受けを開けるのもいいかという気になった。
天上の音楽がまだ耳の奥に残っていたせいかもしれない。入っていたのはダイレクトメールのハガキと、当たりくじ付きの暑中見舞いのハガキが二葉。すべて母親宛のものだ。晴子には関係のないことなのに、くじが付いているのは、なんだか得をした気分になった。
ふと上階の河野夏生ピアノ教室の名前が目に入った。『夏生』はなんと読むのだろう。
『なつお』? 『なつき』? 『げしょう』?
げしょうはないだろうとニヤリと笑っていると、エレベーターの扉が開く音がした。振り返ってみると降りてきたのは、やけにイケメンな人物だった。
すらりとしてスタイルがいい。卵型の顔に上品な目鼻立ち。優しげで中性的な魅力がある。イケメンは立ち止まり晴子の手許に一瞬目をやってから丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。河野と申します」
いきなりの自己紹介に戸惑った晴子は、ちょっとだけ首を動かして会釈のようなものを返した。イケメンは晴子が開けっぱなしにしている、部屋番号が表示された郵便受けを指さす。
「上の階のものです。引っ越しのご挨拶にも伺わずに失礼しました」
「ああ……」
挨拶して欲しいわけでもなかったし、どちらかと言えば黙って通り過ぎて欲しかった。目をそらすために『河野夏生ピアノ教室』の名札を見ていると、イケメンは晴子があからさまに迷惑そうな顔をしていることにも気づかないのか、気にしていないのか、にこやかに会話を続けた。
「ピアノ教室に興味があるんですか?」
「べつに」
「音が響いてうるさくはないでしょうか」
「べつに」
「お買い物だったんですか?」
「べつに」
夏生は、ふと微笑んだ。
「べつに、が好きなんですね」
「……べつに」
夏生のツッコみがちょっと面白くて、ニヤリとしかけたがなんとか押し殺した。笑いそうになったのを無理やり押さえつけたせいで、晴子の顔は苦虫を噛みつぶしたようなしかめ面だった。その表情を見て夏生はくすっと笑う。
「ではまた」
軽く会釈して去っていく夏生は後ろ姿まで爽やかだ。
「げしょう?」
夏生が振り返って小さく首をかしげた。晴子は『河野夏生ピアノ教室』の名札を指さした。夏生は吹きだして、くすくす笑う。
「げしょうもいいですね。ですが、なつおと読みます。かわのなつおです」
晴子が二度頷くと夏生は手を振って、明るい日差しの中へ歩いて行った。人と話すことが、とりわけ男性の声を聞くことさえ嫌いなはずなのに、夏生と挨拶を交わしたことは晴子をいらだたせなかった。
それどころか美味しいくだものでも食べた時のような後味の良さだった。男なんてろくでもない生き物だとしか思っていなかったが、中にはましな人間もいるものだ。天上の音楽を奏でられる人物だから、特別なのかもしれない。
晴子は男性一般が嫌いだが、とりわけ若い男が嫌いだ。
なかでも自分と同年代だと最悪だ。彼らは『真面目』という言葉を知らないのだと晴子は思っている。いつでも悪ふざけして騒ぎたて、人のあら捜しに余念がない。
それに気づいたのは小学校に入ってすぐのことだった。隣の席の野上翔也という名前の男子生徒がことあるごとに晴子の物まねをした。
口を曲げて目を吊り上げ睨みつけてくるのだ。晴子は自分が癇癪を起こした時にそんな顔をしていることを初めて知った。そんな醜い顔を人に見られたくはなかった。
それでも晴子の癇癪は収まることはなく、とりわけ翔也に対して爆発し、そのたびに翔也は晴子の表情をまねしてみせた。鏡に映したように晴子と同じ顔の歪め方なのに翔也は怒ってはおらず、晴子の癇癪を嘲笑っているのだった。
今まで自分は人のためを思って叱っていると思い続けてきたが、そうではなく、自分の思い通りにいかないことを周囲に八つ当たりしているだけなのだと、翔也は嘲笑ったのだ。
晴子は笑われることが我慢できなかった。ますます翔也を睨みつけ、そのたびに更に酷い顔を見せつけられるという屈辱を味わい続けた。
翔也と顔を合わせていたのは一年生の時だけだったが、学年があがっても男子生徒は、やかましくて粗暴で手の付けられないバカ者だらけだと、晴子は彼らを睨み続けた。
成長するうちに男子たちは表面上は大人ぶった行動をしだしたが、隙を見つけてはふざけだすことを晴子は何度も目撃した。大学に行っても、社会人になっても、根本的なところは小学生時代からなにも変わっていないのだとわかっていた。そんな生き物と馴れ合う気はない。
だが、もしかしたら、晴子の周りにいなかっただけで、男にもマシなやつもいるのではないだろうか。河野夏生はその可能性を感じさせた。
世の中バカばかりだと思っていたが、救いようのないバカばかりではないのかもしれない。自分が知らない心地よい人が、そんな人がいる心地よい場所があるのかもしれない。そんな可能性を見つけて少し機嫌がよくなり、有給休暇も悪くないと思いながら晴子はエレベーターに乗った。
機嫌がよくなったせいか、ハガキを食卓まで持っていく気になった。いつもならすぐに玄関から廊下を左に曲がる足を止めた。
足音をしのばせて廊下をまっすぐに進む。閉め切ってあるダイニングキッチンへ続くドアを数センチだけ開けて中の様子をうかがってみた。無人だ。家族が誰もいないことを確認して、体が通るだけ薄く開けたドアから部屋に入り込む。
テーブルにハガキを放り出して壁の時計を見上げると、晴子が知らぬ間に時計は新しいものに代わっていた。引っ越しの時に持ってきた古い大きな木枠の時計は壊れてしまったのかもしれない。スタイリッシュな真新しく白い時計は、古ぼけた壁紙とは馴染まないように見えた。
新しくなったのは時計だけではなかった。キッチンの冷蔵庫も食器棚も白くてぴかぴかだった。便利の良さそうなキッチンラックや、幾何学模様のラグなども晴子が見ない間に追加されていた。どれもこれも角ばって尖った印象だった。
変わっていないものもある。壁に貼り付けられた家族の写真だ。晴子の七歳の誕生日祝いの時のものだ。テーブルいっぱいにごちそうが並んで、大きなケーキがドンと置かれている。
タイマーか何かで撮ったらしく、父も母も赤ん坊の朝子も、笑顔で写っている。晴子は一人、無関心でケーキをえぐって大口で頬張っている。口の横についた生クリームの汚らしさに晴子は目を背けた。
上り調子だった気分が急降下した。やはりこんなところまで入って来るべきではなかったのだ。こんな写真は二度と見たくない。
昔から晴子は食に対して貪欲だった。何もかも飲み込んで、テーブルに乗ったものは他人の分まで食べ尽くした。食欲に打ち勝とうなどと思ったことはなくて、いつもどれだけ満腹になれるかということだけが気にかかっていた。
今でもそれは変わらない。自分は腹さえ満ちていれば幸せなのだ。そう思って離れに戻りドアを閉め、冷たいままのコンビニ弁当を掻き込んだ。
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