第4話

 翌日、晴子は休憩室の椅子を二つ確保した。ひとつには晴子が座り、隣の椅子にはクーラーの風除けのために着ていたカーディガンをかけておく。今日は琴美はいつものランチ仲間と座っているから、側に寄ってくることはないだろう。安心してコンビニ弁当を開いた。


 茶色の弁当を半分ほど食べすすんだころ、桃比呂が休憩室に入ってきた。晴子がカーディガンをどけて椅子を空けてやると、やはりこくりと頷くような会釈を見せて何も言わずに座り、コンビニの袋からおにぎりを取り出した。

 周囲からチラチラと視線がそそがれていることに晴子は気づいたが、桃比呂は気づいているのかいないのか、黙然とおにぎりを頬張っている。長身な桃比呂が大きな両手で大切そうに小さなおにぎりを握っている姿は観察に値する。晴子は時おり隣の席に目を向けた。


 一口かじって十回咀嚼、飲み込む。

 一口かじって十回咀嚼、飲み込む。


 桃比呂は律儀にそれを繰り返した。晴子は頬張ったご飯をろくに噛みもせず飲み込んでいたのだが、ちょっと顔を上げて考えると十回噛んでみた。ご飯が柔らかく甘くなったような気もしたが、生来のせっかちさが顔を出して、結局また丸飲みに戻った。


 それから毎日、二人は隣り合って座り、黙々と昼食をとった。晴子はコンビニで一番安い茶色弁当、桃比呂はいつもオカカとサケのおにぎりをひとつずつ。二人とも判で押したように毎日毎日、同じものを食べ続けた。


 みんな気を利かせているのだろう、昼休みには二人に近づいてくる人間は誰もいない。だが、午後三時の休憩時間に晴子が給茶機で麦茶を汲んでいると、必ず誰かが話しかけてきた。


 とくにしつこいのが井上順子という五十年配の女性だった。琴美がランチタイムを一緒に過ごしているグループのリーダー格で、琴美が言うには社内のことは何でも知っている事情通だという話だった。

 生まれてこの方、人のうわさに興味がない晴子は琴美から聞いた井上順子情報そのものを忘れていたのだが、三度も話しかけられたころには、すっかり思い出した。しつこくしつこく話しかけられ続けるうちに、事情通になるには精力的に人に干渉していく必要があるのだということを、嫌々ながら晴子は学んだ。


「ねえ、相良さん。いい加減に教えてよ。いつから桃ちゃんと付き合ってるの」


「べつに」


「全然気づかなかったわよお。不思議な組み合わせだわ」


「べつに」


 何を聞かれても「べつに」としか答えない晴子のことが気にならない様子の順子は、毎日毎日、同じ言葉で同じことを尋ねつづけた。きっとそのしつこさで、今までどんな人間からも情報を引き出したという実績があるのだろう。

 晴子がマグカップを抱えて給湯室を出ても、順子は後ろからついてきて熱心に話しかけつづける。とうとう晴子の我慢の限界がきた。


「相良さん……」


「うるさい!」


 思いっきり怒鳴って振り返ると、そこに立っていたのは順子ではなく永井恒夫だった。


 桃比呂のさらに上の上司を怒鳴りつけた晴子はさすがに固まった。永井の薄くなった頭髪越しにこちらの様子を興味津々で見つめている順子の姿が見えて、晴子は順子を睨みつけた。

 永井はちらりと振り返ってキューピー人形のような丸い目で順子の姿を確認すると、小さくため息を吐いて同情の目を晴子に向けた。


「すいませんね、今日もうるさく言いに来ましたよ。相良さん、有給どうするの。たまりにたまってるんだけど」


 有給という言葉にもさっぱり興味がない晴子は面倒くさそうに「はあ」と呟いた。


「はあ、じゃなくてさ。取るの、取らないの」


「じゃあ、取ります」


「あっそ。休暇取得の届け書を出しておいてよ。どうせならドーンと十日くらい休んだっていいんだよ」


 晴子がいなくても会社は回るのだと暗に言われたのだが、そのことに、まったく腹は立たなかった。自分がこの世の中に何かの影響を与えることが出来るのだ、などと夢見たことはない。世界は晴子にとって息苦しく自分を縛る場所、一人静かに消えていくことすら許してくれない場所だった。


 自分のせいでなにかが変わってしまうなんて恐ろしくて仕方ない。自分が関わったら、ろくなことにならない。

 きっとなにもかも、もっとひどい有様になるのは目に見えている。晴子はいてもいなくてもいい存在だと認定されていることを知ってほっとした。有休をとったら十日間は順子にあれこれ話しかけられることがない、少しは息も吸いやすくなるだろう。そう思うと、心が浮きたつような気がした。


 有給休暇の申請のために届出に必要な書類を事務室からもらってきて、残った休憩時間に書き上げようと休憩室に行く。ぽつりぽつりと社員が休憩している中に、桃比呂がいた。いつもの席に座っている。

 普段はずっと机の前から動かないのに珍しいことだ。晴子はなんとなくいつも通り桃比呂の隣の席に座る。手許を覗くと桃比呂も何かの届け書を書いていた。


 晴子はカーディガンのポケットからボールペンを取り出して用紙に記入していく。

 名前と社員番号、希望日数は十日、理由を何と書こうかと迷って目を上げると、桃比呂が晴子の手許を見つめていた。そういえば、桃比呂には言っておいた方がいいのではないかと、晴子は休みをとることを伝えようとした。


「十日間、来ない」


「あ、うん」


 桃比呂は心ここにあらずといった様子で、やはり晴子の手許を見つめている。


「聞いてる?」


「うん」


 返事はあるが聞いていないことは明らかだった。しばらく観察して、どうも桃比呂の関心は届け書ではなく、晴子のボールペンにあるようだと気づいた。やや大きめのぬいぐるみがぶら下がったボールペン。ぬいぐるみはオランダ村のゆるキャラ、ちゅーりっぷるというらしい。琴美が旅行に行った先で買ってお土産にくれたものだ。


「ちゅーりっぷる好き?」


「うん。え、いや、特別好きなわけじゃないんだけど」


「ゆるキャラ好き?」


「結構……」


 なぜか申し訳なさそうに俯いた桃比呂の鼻先に、晴子はボールペンを突き出した。


「あげる」


「え?」


「あげる」


「え、そんな悪いから……」


 そう言いながらも桃比呂はちらちらと、ボールペンにぶら下がっている、ちゅーりっぷるを見ている。どうやら目が離せないようだ。


「ぬいぐるみ邪魔だから」


 桃比呂の表情がぱっと明るくなった。


「それじゃあ、僕のボールペンと交換しましょう」


 桃比呂は握っていたボールペンを、両手で包んで晴子に差し出した。ひと目で高級だとわかるボールペンだ。ボディ部分の光沢は黒曜石のようで、ペン先やクリップの銀色部分には曇りひとつない。

 桃比呂の手で隠れてチラリとしか見えないが、どうやら名入れもされているようだ。さすがの晴子もこれには怯んだ。


「いや、悪いから」


「どうしても駄目ですか」


 悲しそうな目で晴子をまっすぐ見つめる桃比呂は、おやつを目の前にして「待て」と言われた忠犬の姿を思わせる。晴子はおかしくなってニヤリと笑った。


「べつに」


 晴子は高級ボールペンを受け取って、ちゅーりっぷるのボールペンを差し出した。桃比呂はちゅーりっぷるのぬいぐるみを両手で包み込んで胸に抱きしめる。


「ありがとう!」


 とっておきのご褒美をもらったかのような桃比呂の喜びようが面白く、晴子はニヤニヤと笑い続けた。桃比呂が交換にと渡してくれた高級ボールペンには、やはり名入れがしてあった。印字されているのは「MOMOKO」という名前で、これも誰かと交換したものなのかなと晴子は首をひねった。



 晴子は仕事が終わると、さっさと家に帰る。なににも興味がない晴子に、立ち食いソバ屋以外に寄り道する場所などない。人がいないことを見計らって、ぼろビルのギイギイと嫌な音がする、ぼろで古いエレベーターに乗る。


 自宅の玄関ドアに耳を押し付けて様子を探る。物音はしていないようだ。平日の夕方、両親は仕事でまだ帰っていない時間だ。けれど用心に越したことはない。音を立てないように注意して鍵を鍵穴にさしこみ、ゆっくりと回す。

 回り切る最後のところで急に手ごたえが軽くなるため、内部のシリンダーが音を立てないようにするのにコツがいる。

 このコツを体得した時はニヤリと笑みが浮かぶほどに嬉しかったものだ。全く音を立てずに鍵を開け、そっとドアノブを回した。


「お帰り、お姉ちゃん」


 玄関の上り口に妹が座って本を読んでいた。あまりに驚いた晴子は思わず息を飲んだ。妹はそんなことを気にもしない様子で淡々と姉に話しかける。


「お姉ちゃん、空き巣の犯人みたいだね。鍵が開いたのに全然気づかなかったよ」


「あんた、何して……」


「読書してるの」


「なんでいる」


「帰ってきたから。それより、お姉ちゃん。『あんた』なんて言ってたら、お母さんに叱られるよ」


 確かに『あんた』呼ばわりは失礼だと晴子だって思う。けれど、妹が高校を卒業して家を出てからまる四年、それ以前も晴子が離れに籠っていたために、めったに顔を合わせなかった。あまりに久しぶりすぎて妹の、朝子という名前がとっさには出てこなかったのだ。


「私、しばらく家にいるからね」


「なんで」


 朝子は専門学校時代から独り暮らしを始めて最近は家から遠く離れた町で保育士として働いているはずだった。


「花嫁修業するから」


「あ、そ」


 晴子は靴を脱ぐと朝子の足をまたいで離れに向かった。


「お姉ちゃんも結婚式に出てよ」


 朝子の言葉に返事もせず、晴子は離れのドアを閉めた。



 有給休暇をとったはいいが、晴子にはなにもすることがなかった。昼近くに起きだして寝巻きのまま、部屋でボーっとして過ごす。

 両親はともに、昼間は仕事に出かけて留守。朝子も結婚準備に忙しいらしく、ほとんど家にはいないようだった。


 とりあえずドアの前に置いてある、母が洗濯した衣服を部屋に引き入れて押し入れにしまった。家人の見ていない隙を狙ってコソコソと行動しなくていいのは楽だったが、そうすると気が緩んで食事をするのが億劫になった。食べ物を買いに行くのも考えただけで面倒だ。

 冷蔵庫のものを漁って食べても文句を言われることなどないのはわかっていたが、家族がいつもいる、ギスギスした空気が満ちたところには足を踏み入れたくない。何もせず畳に寝転んで天井を見つめていた。

 窓の外を通っていく人の話し声、遠くから聞こえる車の音、どこかで吠えている犬の声。晴子は首を起こして犬の鳴き声に耳を塞ごうとした。だが両手で耳を押さえても、犬の鳴き声は染み入ってくる。


 吠える犬は嫌いだ。立っていって窓をぴしゃりと閉めて、カーテンも引く。部屋は驚くほど暗く蒸し暑くなった。汗が拭きだして気持ちが悪い。目をつぶると悪夢を見そうだと思ったが、自然と瞼は落ちた。


 大学生のころのことだ。通学路に大きなお屋敷があった。敷地の端から端まで高いブロック塀に沿って歩くのに一分四十秒かかった。

 その間、塀の上から顔を突き出したドーベルマンに吠えられ続けた。晴子は嫌な思いをするときには、一秒という時間が案外と長いのだということを知った。入学してすぐは恐ろしくて仕方なかった。

 違う道を通れるものなら通学路を変えたかったのだが、大学までは一本道で、どうしてもドーベルマンに吠えられ続けるしかなかった。


 しかし、二か月もすると慣れた。吠えられても平気で塀の側を通れるようになった。どうせドーベルマンは塀の外に出られやしない。ぎゃあぎゃあと喚き散らすことしか出来ないのだ。

 恐れがなくなっても、不快さは残った。毎日毎日、吠えられて気持ちがいいはずがない。晴子は朝夕、ドーベルマンを睨みつけながら通り過ぎた。

 こいつがいなければ、どれだけすっきりするだろう。安全な場所から吠えることしか出来ない犬に、生きている価値なんかあるのだろうか。なんの理由もなく人を傷つけようとする犬に存在価値なんか。

 晴子はドーベルマンがこの世からいなくなるように願う日々を過ごし続けた。


 ドーベルマンはある日、ぱたりと吠えなくなった。吠えないように躾けられたのかと思っていたが、どうやら死んでしまったらしいという噂を耳にした。

 ドーベルマンがいなくなったことを学生たちは喜んでいた。晴子はいい気味だと思って高い塀を見上げた。


 その時、そこに真っ黒な穴がぽかりと開いているのが見えて、晴子はあわてて通り過ぎた。黒い穴は悪意が固まったもののように思えた。

 ドーベルマンを嫌った学生たちの、吠え続けたドーベルマンの、ドーベルマンが消えるように願い続けた晴子の、そんな悪意が形になった穴のように思えた。

 その黒い穴は、いつの間にか塀を乗り越えて、晴子のそばについて回るようになった。晴子は生活のあらゆるところで、その穴につまずいた。

 

 朝食をとっていると膝に穴が触れてきた。家を出ようとすると穴が玄関にわだかまった。帰宅すると家の奥から、うつろな穴がぞろりぞろりと近づいてきた。

 なにより、通学途中のドーベルマンがいたお屋敷の前に、飛び越せない水たまりのように大きな黒い穴が待ち構えていた。

 そうして穴から吹き出る風が、冷たく晴子の足を凍らせた。晴子は穴を恐れた。油断していると、その真っ黒な穴に引きずり込まれそうになる。一歩でも踏み入ってしまったら、自分は消えてしまうかもしれない。


「気のせいでしょ」


 まともに会話しなくなって長い月日が経っていたが、勇気を出して母に相談した。その時、母はすげなく答えたのだった。


「罪悪感でそう思うだけよ。バカなこと言ってないで、さっさと学校に行きなさい」


 納得も出来ないまま、反論も出来ずに、晴子は離れに戻った。通学路の黒い穴は一段と広がったように思えた。晴子は毎日ドーベルマンがいた塀のそばを通った。

 塀の方に顔を向けることなど出来なくて、下を向いたまま穴の間際を爪先立って歩いた。今はもう聞こえないはずのドーベルマンの吠え声が、耳の底にこびりついている。

 いつまでたっても吠え声は消えず、爪先立つことに疲れた晴子は身動きが取れなくなって、ある日、穴に捕まった。

 穴の中は昏く、なんの臭いもせず、触覚も働かず、晴子を脅かすなにものの存在も感じられなかった。それなのに、ただなにか不安な気持ちがゾワゾワと背筋を這い上った。

 助けを求めたい、誰かにすがりたかった。だがこの穴のことを誰になんと言って説明すればいいのか、どうやって理解してもらえばいいのかわからない。


 途方に暮れて立ち尽くしても晴子は泣かなかった。ただ、動けなかった。

 大学を中退したのは、突然に体が動かなくなったからだ。学校に行こうと思うと足が重くだるくなり、玄関でしゃがみこんでしまう。

 夜は眠れず、食事もほとんど喉を通らない。何をするのも億劫で、そもそも何をする気にもなれないほど頭がぼんやりして重い。

 内科で検査を受けても身体に悪いところは見つからない。そのうち家から出られなくなり、少し体調が良くなると玄関まで行っては、しゃがみこむという事を繰り返す日々を送った。


 そうやって二か月を過ごし、ある日ハッとした。もしかしたら自分は鬱病なのではないだろうか?

 インターネットで鬱病について調べてみると、晴子の心身の状態は、まさしく鬱病の症状に当てはまった。

 製薬会社のサイトで『鬱病診断』というテストをしてみると、「病院の受診をおすすめします」と回答される結果になった。


 大学にカウンセリングルームがあることを思い出し、カウンセラーに相談しようと決死の思いで電車に乗って学校へ行った。

 髪はぼさぼさ、風呂には何日も入ることが出来ていない。けれど、そんなことにかまっている余裕はなかった。

 這うような思いで黒い穴がわだかまる、大学までの坂道を登っていった。穴が足首に触れ、晴子はぞっと寒気に震えたが、すぐそこに光があるのではないかという望みを抱いて進み続けた。


 カウンセリングルームのドアをノックすると、白衣を着た中年のふっくらした女性が顔を出した。晴子は今にも目の前の女性に倒れかかりそうなほど憔悴していた。


「ちょっと、鬱っぽいんですけど」


 話すだけで息切れがした。カウンセラーは、そんな晴子に困った様子を見せ、とても親切そうな声で言った。


「カウンセリングは予約制なの。これから予約の学生さんが来るから、悪いんだけど……」


 晴子はカウンセラーというのは誰にでもオープンで優しいものだと思っていた。しかし、それは思い込みだと知った。目の前のカウンセラーは優し気な口調だったが、あからさまに晴子を拒絶していた。

 その偽物の優しさは鋭い刃になって晴子を切りつけた。晴子が今まですがりついてきた、社会と繋がっているための最後の細い糸が切れた瞬間だった。


 晴子は挨拶もせずにカウンセリングルームに背を向けると、事務室に向かった。身体は重く、カタツムリよりも遅いのではないかと思える速度だったが、確固とした態度で歩いた。


「退学します」


 その判断が鬱状態からくる投げやりな思いだったのか、カウンセラーに拒絶されたショックのために躁状態になってしまったのか、もとから心の底に眠っていた願望だったのかはわからない。

 事務室では、真面目そうな事務員から、ゆっくり考えて決めるようにと何度も言われた。今まで通った二年間が水の泡だ、せっかく受けていた奨学金ももったいないと説得された。だが、何を言われても、やめると言って貫き通した。

 

 みょうな行動力を発揮した、その日の晴子は、それから八年を過ごし二十八歳になった今になって振り返ってみても、驚くほどに生き生きとしていた。

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