第3話
翌日の昼休み、晴子は休憩室に行かなかった。他で食事できるところを探したが、この会社は情報を売り買いしているせいかセキュリティーに厳しく、業務に関係ない私物の持ち込みも、自分のデスクで食事をすることも禁止されている。
社内をうろうろして座れる場所を探したが休憩室以外に弁当を広げられそうな場所はエントランスの受付嬢の前に置いてあるソファくらいだ。まさか来客用のソファを占領するわけにもいかず、トイレで便座に座ってコンビニの茶色の弁当を開いた。
個室内に食べ物の臭いが広がり、こもる。もしかして外まで臭っているのではないか、便所飯がばれるのではないかと不安になって、ろくに食べた気がしなかった。
それでも、また翌日も休憩室には行かなかった。だが、ひやひやしながら便所飯を続けるほど無神経でもなかった。
コンビニで弁当を買った帰り道、いつも会社の窓から見下ろしている公園に、初めて足を踏み入れてみた。炎天下、ギラつく太陽に炙られている公園には誰もいない。
いかにもオフィス街の公園らしく、ベンチが何台かとゴミ箱と、形が整いすぎた落葉樹があるだけで、遊具も広場もない。子どもが公園で遊ぶことは考えられていないようだ。無邪気な子どもが楽しそうに大騒ぎして遊んでいるところを見なくてすむのは、子ども嫌いな晴子にとって嬉しいことだった。
刺すような日差しに辟易して、少しでも涼しいところを探す。石畳風のタイルが敷き詰められた歩道も、やや伸びすぎている歩道脇に敷かれた芝生も、みんなよく日にあたっていて今にも焦げ付きそうだ。
ぐるりと公園を見渡すと、ひとつだけ木陰になっているベンチがある。移動してみると風も通り、他よりずいぶん涼しく感じられた。
腰かけてビニール袋から弁当を取り出す。今日はいつもの安い茶色ばかりの弁当が売り切れていたため、『彩り野菜の夏カレー』というものにしてみた。茶色弁当より二百四十円も高い。
誰に見せるわけでもないのに見栄を張ったような気分になって、悔しくて歯ぎしりする。この値段で美味しくなかったら地獄の底まで道連れにしてやると言わんばかりの迫力で、晴子はカレーを睨みつけた。
プラスチックのスプーンを勢いよく突き立てて、カレーをご飯にまぶし、大きく開けた口に放り込む。美味しい。あまり辛くはないがコクがあって家で作ったカレーのようだ。二口、三口と食べすすめるうちに、最後にカレーを食べたのは何年前だったろうかと、ふと思った。
毎日コンビニ弁当という今の食生活を始めたのは、まだ二十代前半のころだった。大学を中退してから鬱症状の一つである疲労感が酷かったため家に引きこもっていた。
そんな晴子がまともに体を動かせるようになって、初めて働いたバイト先で身についた習慣だった。
父の事業が順調だったときに付き合いがあった会社に口をきいてもらってバイトの身分で入社した。
そこは測量会社で、とても辺鄙な場所にあった。駅から遠く、周囲は田んぼばかりで飲食店はない。一番近いコンビニまで往復四十分かかるのに、晴子は雨の日も風の日も、毎日歩いて通った。
あまりに熱心に通うので、コンビニで働いている誰かに片思いでもしているのではないかと噂されているのを知った時には、見当はずれの噂のタネにされて恥ずかしくてしょうがなかった。
だが、なんと言われようと、コンビニ通いはやめなかった。同僚と肩を並べて仲良くランチするなどといったことは恐怖以外のなにものでもなかったから、他の人が昼食をとる時間とずらすためにちょうどよかったのだ。
晴子が担当していた仕事は、測量が終わって印刷されてきた青写真の線を色分けするというものだった。真っ青な線だけで描かれた地図を、川の線は水色、山の際は茶色、畑の外周は緑と、色鉛筆で線を上書きしていく。
黙々と線を引き続ける作業は、砂絵を描くチベットの修行僧になったかのようで、心がしんと静まった。
ただ、隣のデスクで同じ仕事をしている女の子がひっきりなしに話しかけてくるのが煩わしくて仕方なかった。話しかけられるたびに、無音の無我の境地から現実世界へ呼び戻されることは、涙が出そうになるほど悲しかった。
あの頃はまだ鬱の症状が重かったんだな。躁鬱病の薬が効いている今の晴子は、バイトをしていたころのような理由のない後悔に襲われることもなく、以前のことを思い出すことが出来るようになった。
青写真に涙を落とさないように必死に唇を噛んでいた頃には食べることも寝ることも座っていることさえ辛く苦しいことだった。
その頃は、今でさえこれほど苦しいのに、これから何十年も人生が続いていくなど信じられない地獄だと思っていた。
いつも絶望のなか、のろのろと足を引きずって歩いていたのだ。あの当時も現在も、晴子が人生に期待することはなにもない。それでも腹は減った。
けれど晴子は空腹に背中を押されコンビニに通うことで、生きることを続けた。無我の境地にあそび、ただ歩き、腹を満たす。その生活が晴子に観念するということを教えてくれたように思う。
世の中に満ちた悲しみから隠れ逃れるために、ただ静かに息をするのだ。そうやって時を過ごしていたあのころの思い出は、今の晴子に静謐をもたらしてくれる。
その代わりにひどい鬱の時期から脱した現在の自分に意識が戻るとイライラすることだらけだ。歩きタバコの男も、歩道の真ん中で立ち話する女たちも、大きなクラクションを鳴らす車も、何もかもが晴子をイラつかせる。
そんな時は、世界中の人間がみんな消えてしまって、存在する人間は晴子一人だけになるという妄想に浸るようにしている。うっとりするくらい素敵な妄想だ。
ある日突然、地球上から誰もいなくなるのだ。家にも町にも世界中のどこにも。テレビもラジオも何も伝えず、水も電気もガスもすぐに止まってしまう。
そんなからっぽの世界で晴子は一人きりでのびのびと両手を広げる。何にも心乱されることがない。
生活だって不安はない。スーパーに行けば缶詰がごまんとあるのだし、人がいなくなれば川も海もすぐにきれいになるだろう。缶詰の消費期限が切れるまでに釣りを覚えればいい。
自転車に乗って遠い海まで行くのもいい。街を取り囲む山に行けば山菜も取れるし、晴子が大好きなアケビだって取り放題だ。小さい頃に家族で登山した時に見たアケビの群生地を今でも覚えている。
目を閉じればすぐそこに、手を伸ばせば届くかのように思い出せる。アケビのさっぱりした甘さを妄想して、スプーンを動かす手が止まる。
だが、どんなに考えても世界から人間が消えることはないし、あの山は宅地造成のせいでなくなってしまった。アケビはもう二度と味わえないのだ。晴子は一人きりになどなれない。
ただひとつ、一人きりになる方法は離れにこもること以外にない。
いつまでも離れに引きこもって、どろどろに溶けて消えてしまえたら、どれだけ楽になるだろうか。晴子はいつも夢想する。
中空を見つめて、ぼーっとしていると、それだけで汗が噴きだした。どんどんTシャツが湿っていく。その不快さで素敵な妄想に浸り続けることが出来なくなった。
カレーの器をベンチに置いて、ジーンズのポケットからハンカチを取り出し、汗をぬぐう。拭いても拭いても汗は流れる。しまいには腹が立ってきて、カレーを地面にぶちまけようとしたとき、声をかけられた。
「暑くないですか」
その渋い声を聞けば振り向かなくてもわかる。竹田桃比呂だ。年下だとは言え、一応、上司だ。カレーをぶちまける姿を見せるのはちょっとまずいぞと、癇癪を爆発させる一歩手前で晴子の理性がささやいた。
「暑い」
同期で年下で周囲の人間から「桃ちゃん」と呼ばれている男に敬語を使う気にはなれず、晴子はぶっきらぼうに答えた。そもそも晴子は男が嫌いだ。生まれてこの方、男を好きだと思ったことがない。
それどころか、わけもなく憎いとすら思う。思いっきり睨みつけてやったが、桃比呂は不機嫌な晴子の態度は微塵も気にしない様子でぼんやりとしている。
「ベンチのこっち側、借りてもいいですか」
晴子はあからさまに嫌そうな顔をしてみせたが、これにも桃比呂は反応せず、いつも通りの感情があるのかないのかわからない細い目で、ベンチに置かれた彩り野菜の夏カレーを眺めている。
同期の中で飛びぬけて仕事ができて正社員に取り立てられた桃比呂だが、コミュニケーション能力に長けてはいないようだった。質問をしたきり、ぴたりと動かなくなってしまった。
「べつに」
晴子はイラつきながらも諦めて、カレーの器を自分の膝に戻し、桃比呂に場所を空けてやった。
こくりと頷くような会釈をしてみせて、桃比呂はベンチに腰かけコンビニの袋からおにぎりを取り出した。ゆっくりと丁寧にフィルムを剥いで、両手で大事そうに抱えておにぎりをかじる姿は、他のことには心とらわれない無心の芸術家のようにも見えて、晴子はほんの少し落ち着いた。
男が嫌いな晴子だが、桃比呂の覇気のない姿や小さな声は晴子が思う男らしさという概念からかけ離れていて安心していられる。制服のようにいつも濃紺のスーツ姿でビジネスライクなところは上司としては最適だと思えた。
席をゆずってやるくらいの親切はしてもいいだろう、それくらいで態度が変わる人物には見えない。晴子のことを放っておいてくれるだろう。
思った通り、ぼんやりと地面に目を落としておにぎりを噛みしめている桃比呂は、晴子と、晴子の食事に関心を持つことはなさそうだった。安心して桃比呂から意識を遠ざけてカレーの味に集中することが出来た。大ぶりに切られたオクラも素揚げのナスも美味しかった。
一言もしゃべらず晴子はカレーを、桃比呂はおにぎりを食べ終えた。ガサガサとコンビニ袋を鳴らして、二人そろって後始末をする。午後の始業まであと二十分。まさか炎天下で残りの時間を過ごすという自殺行為はするまいと晴子は立ち上がった。桃比呂もつられたように立ち上がって晴子に話しかけた。
「相良さんは毎日公園で食べているんですか?」
話しかけられるまで晴子はほとんど桃比呂のことを忘れていた。忘れていたというよりは並んでいることに違和感がなかったと言った方がしっくりくる。他人と肩を並べて息苦しさを感じなかったことに心底驚いて晴子はすぐに返事をすることが出来なかった。
桃比呂はじっと返事を待っていた。「待て」と命じられた忠犬のようでどこか愛嬌があった。なにか話しかけてやった方がいいような気がしたがなにも思いつかず、気の抜けた返事をしておくことにした。
「はあ」
「暑くないですか」
「まあ」
同じベンチで並んで座っていたのだから、聞かずともわかっているだろうにと思ったが晴子は素直に答えた。桃比呂は何か考えているようで、ちょっと首をかしげた。いつだったか大昔に目にした何かの看板の、蓄音機の前で小首をかしげる犬の絵に似ていた。
「雨の日はどうするんですか? 傘をさして?」
馬鹿にされているのかと、ムッとした晴子の声が尖る。
「便所飯に……」
決まっていると言おうとして、晴子はあわてて両手で口を押えた。つい白状してしまった言葉を、なんとか口の中に戻せないかと鼻から深く息を吸ったが、残念ながらそれは桃比呂の耳に、もう届いていた。
「便所飯。なるほど、その手があったか」
「へ?」
馬鹿なことをしていると笑われるか、マナーが悪いと叱られるかと身構えていた晴子は、拍子抜けして間抜けな声をあげた。桃比呂はごく真面目に頷いている。
「ありがとう、とても参考になりました」
「するの、便所飯」
「はい。すごくいい手だと思うし」
「なんで」
「一人になれる場所って、あまりないじゃないですか。休憩室だと話しかけられるでしょう。人と一緒に食事するのは苦手なんです」
そうは言ってもいくらなんでも便所飯はやりすぎだと、晴子は自分のことを棚に上げて、桃比呂の無謀なチャレンジを止めようとした。
「今、ここで食べた」
「ああ、そうですね、並んで食べた。でも一緒に食べたわけじゃないし」
それはそうだ。だが二人で並んで食べたことは事実だし、その事実は晴子にとって嫌なことではなかった。
「あの」
「はい」
「休憩室で……、並んで……」
晴子のコマ切れの言葉でも言いたいことを汲み取ってくれたようで、桃比呂の頬が少しだけ動いた。笑ったのかなと思った時には、もうその動きは消えていた。
「その手があったか。いい考えですね。二人で並んでいたら誰も話しかけてこないでしょう」
それだけ言うと桃比呂はさっさと会社へ向かって歩きだした。晴子もゴミの入った袋をぶらぶら揺らしながら、のんびりと桃比呂の後について歩く。
そういえば今日は言葉がするすると出たな、暑すぎたせいかな、などと思いながら。
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