第2話

 翌朝、いつもながらの不眠のために泥のように重い体をなんとか伸ばした。カーテンを開けても隣に建築中のマンションのせいで、離れの中は薄暗かった。

 エアコンがない晴子の部屋は、窓を開けていても汗がしたたるほどに暑い。ろくに眠れない理由が暑さからくる寝苦しさのせいなのか、長患いしている躁鬱病のせいなのかわからないが、晴子にとってはどちらでもいいことだ。


 汗拭きシートで簡単に体を拭く。大学を中退したころには身づくろいすることさえ難しかったが、通院を初めてなんとか風呂にも入れるようになった。

 だが、朝からシャワーを使っていると家族が起きてくる恐れがある。離れのドアを開けて、母が洗濯した衣服をドアの中に引っ張り込む。その中から適当にTシャツとジーンズを掴み出して細すぎる体を押し込むと、足音を立てないように気配を消して家を出た。


 ぼろビルのエントランスを出るとすぐに見える牛丼屋に向かう。頼むのはいつも一番安い納豆朝食。ごはん、みそ汁、納豆、生卵、海苔と、なかなか健康的なメニューだ。値段も三百六十円と安い。これは晴子にとって喜ばしいことだ。


 慣れた足取りで店に一歩入った途端、空腹で軽かったはずの晴子の胃がどんよりと重くなった。また新人だ。ニキビ跡が赤い男子だ。高校生くらいに見える。

 牛丼屋の店員は入れ替わりが激しい。やっと晴子の顔を覚えて注文する前から納豆朝食を目の前に置いてくれるようになったと思うと、もういなくなり新人に代わっている。

 もしかしたら早朝は新人が働く時間で、慣れてきたら昼か夜に異動しているだけなのかもしれないが、そんな事情を汲むつもりは晴子には、さらさらない。店員が代わるたびに注文のため口を開かなければならなくなるのは非常に億劫なのだ。晴子は出来ることなら一生話さずに生きていきたいと思っている。

 ベテラン店員を呼び戻せとイライラ考えながら呟く。


「納豆朝食」


 寝起きのまま水も飲まずに家を出てきた晴子の声は、かすれて聞き取りにくかったらしい。店員がとぼけた表情で聞き返してきた。


「納豆シラスですか?」


「朝食」と「シラス」の発音はちっとも似ていないではないかと思ってイラついたが、もう一度声を出すのが面倒くさくて晴子は黙って頷いた。


 カウンターのいつもの席に座ってメニューを確かめると、納豆シラス定食は納豆朝食より百十円も高い。めまいがしそうだった。


 注文を聞き間違えた店員を睨む。厨房にいるベテランらしい店員に注文を伝えると、そのまま何もせず突っ立っている。シャープな働きは出来ないタイプに見える。

 いや、そうに違いない、失敗ばかりで店のお荷物扱いされているはずだ。そう決めつけて、歯ぎしりする。

 大人なら子どもの失敗の一つや二つ軽くゆるしてやるべきだと思うのだが、眼光をゆるめることが出来ない。晴子は高校生男子より十歳近く年上だが、大人らしい対応はとても出来ないほど怒っていた。


 納豆シラス定食がやって来るまで店員を睨み続ける。店員はそんな視線にも気づかなかったようで、ガチャンと音を立てて定食の盆を置いていった。それにもむかっ腹が立ったが、やって来た定食のシラスの量がほんのちょっぴりだったことに、より腹が煮えくり返った。メニューの写真と全然違うじゃないか。今すぐ叫んで立ち上り、プラスチックの盆をひっくり返してやりたい。


 だが、ギリギリのところで思いとどまった。

 落ち着け。私は普通の大人の女だ。もう癇癪持ちは卒業したのだ。そう言い聞かせてもイライラはおさまらない。


 気分を安定させる薬が効いているのか、最近はかなり癇癪を抑えられるようになったのだが、晴子自身はそのことを評価してはいない。いつも通り激しく不愉快なままでいるのだから、病状が好転したとは言えないと思っている。そんな効果のない薬に支払う薬価の高さを、ふと思い出して、さらに苛立つ。


 それらすべての怒りをぶつけるように、ごはんに納豆もシラスも生卵も大根おろしもぶちまけて、仕上げにみそ汁をぶっかけてぐちゃぐちゃにして飲み込んだ。悔しいけれどシラスの塩気がきいて美味しかった。苦虫を噛み潰したような表情で、黙ったまま値段通りの小銭をテーブルに叩きつけて店を出た。


 店の前の歩道には通勤通学の人達が大勢行きかっていた。見上げると雲一つない青空。今日も朝から暑い。食後で体温が上がった晴子の体から汗が吹き出す。気持ちが悪い。会社まで二十分、眉間に深いしわを寄せたまま歩く。


 こう暑くてはスーツなど着ていられない。学生時代と変わらない格好で出勤できる会社に就職できたのは幸いだった。社風のせいというより晴子が契約社員であるおかげなのだが、スーツを着なければならない立場だったら就職初日だけで辞めていただろう。


 大学生時代から晴子の服装はいつも同じだ。Tシャツとジーンズに、履き古して底が抜けそうなスニーカー。手入れなどしたこともない髪は伸び放題で、適当にゴムでくくって背骨が浮いて見える背中に垂らしている。


 職場まで続くアスファルトを踏むとクッションのきかない靴底から、じかに地面の熱が伝わってくる気がする。夜の間に冷えることもなく、朝からむしむしして陽炎が立つのではないかと思うほどだ。

 晴子の眉間のしわが蒸し暑さのせいでさらに深くなる。出来ることならクーラーがガンガン利いたタクシーで通いたい。そんなことを夢想するが晴子の薄っぺらな財布からは一回分のタクシー料金も出てくることはないのだ。


 晴子は家の借金返済とは無関係であるにもかかわらず、貧乏だった。通勤路の道中にある牛丼屋で朝食をとるのも、いくら安いと言えど毎日積み重なると苦しい。時給八百円で働き、ボーナスも昇給もない晴子の財政事情では非常な贅沢なのだ。

 だが、昼は一番安いコンビニ弁当、夜は立ち食いそばかジャンクフードという食事だけでは体を壊すのは遠い未来のことではないと思われた。それをできるだけ先延ばしにするための納豆朝食なので、店に通うのをやめることはできないのだった。


 朝からイライラしたせいで仕事にまったく集中できない。普段ならこの職場は晴子にとって天国のようなところだ。

 冷暖房完備はもちろん、一日中閉まったままのブラインドのおかげで季節の変化などに心惑わされることもない。仕事はパソコンとにらめっこして、画面の右からやって来る様々なデータを、左の自社システムに入力していくだけの単純作業の繰り返し。数値や文字や記号や、その他どんな情報もその意味を捉えて理解する必要はない。

 コミュニケーション能力などいらないし、特別な知識を身につける必要もない。年中無休のシフト制なので、平日に休みをとれば、土日に家にいて家族と顔を合わせることもない。一言もしゃべらずに一日を終えることも多く、口を開かなければならない煩わしさもなく、仏のような面持ちで安らかでいられる。だが今日は天国にいても心穏やかにはなれなかった。


 パソコンと向き合ってキーボードに怒りをぶつけるようにガッチャガッチャとタイピングしていると、後ろから声をかけられた。


「相良さん、どうかしましたか?」


 深く響く、俳優のものでもあるかのような声。若いのに渋いその声を聞けば、振り向かなくてもわかる。竹田桃比呂だ。くすぶったままの怒りにさらにイライラが重なった。会話をしなければならない。


 椅子を回して振り返り桃比呂に向けた晴子の視線は、かなりきついものだった。しかし桃比呂は、何を考えているのか分からない細い目を晴子に向け続けるだけだ。晴子は面倒くさいと伝えるために、これ見よがしにため息を吐いた。


「べつに」


「そうですか」


 直属の上司として注意をしには来たのだが、晴子には真面目に対応する価値もないとでも思っているのだろう。桃比呂はたいした興味もなさそうに、自分のデスクに戻っていく。晴子は自分より年下の上司からなんの期待もされていないということに、少しほっとした。期待されて応えられるようなものを、自分はなにも持ってはいないのだ。


「相良さん、大丈夫?」


 隣のデスクの平田琴美がキャスター付きの椅子をコロコロと転がして寄って来た。琴美に向けた晴子の視線もまた、かなりきついものだったのだが、琴美は慣れっこになっているようだ。素直そうで心配げな顔を晴子に向けつづけた。

 なんの効果も生まないと分かってはいたが、晴子はまたこれ見よがしにため息を吐いた。やはり琴美は気にもせず優しく話しかけ続ける。


「なにかあったんだったら聞くわよ。話すだけでも気が楽になるかもしれないから」


「べつに」


 晴子は仏頂面で適当に答えてパソコンのモニターに目を戻す。琴美は心配そうな表情を崩さずにデスクに戻った。

 琴美は晴子と同期入社だが、年齢は一回り上だ。契約社員である晴子たちの中に新卒入社はほとんどいない。学生のアルバイトや定年退職後の再就職者も多い。


 晴子は同じ職場の人間に興味がないので、誰が誰やら把握していないが、琴美が勝手に話しかけてきては社員の名前を教えた。その他にもいろいろな情報を授けようと話し続ける。

 だが、有給休暇の申請の仕方や、希望シフトを通しやすくする裏技などを聞いても、晴子は頑なに無視し続けた。せっかく教えてもらっても興味がなく、有給休暇を一度も申請したことがない。琴美はそれでも嫌な顔一つせず、晴子に知識を与え続けた。


 昼休み、休憩室で晴子が人の輪から離れて一人でコンビニ弁当を食べていると、琴美が隣にやって来た。いつも昼休みを一緒に過ごしているおしゃべり仲間たちは、シフト休が重なったのだろう、全員休みのようだった。

 晴子は迷惑だという気持ちをわざと大げさに表情に出してみせたが、琴美は気にも留めない。


「相良さんはコンビニのお弁当なのね。美味しそう」


「はあ」


「私もたまには買って食べたいんだけど、お金がかかっちゃうから」


「はあ」


 ちらりと琴美の自作弁当を覗いてみると、ご飯の白、海苔の黒、卵焼きの黄色、プチトマトの赤、ブロッコリーの緑と色とりどりで、いかにも健康に良さそうだった。

 ひるがえって晴子は自分のコンビニ弁当を見た。ご飯の白、コロッケの茶色、から揚げの茶色、焼きそばの茶色、茶色、茶色、茶色のオンパレードだ。途端に食欲がなくなった。半分も食べていない弁当の残りをコンビニのビニール袋に突っ込み、席を立つ。


「あら、食欲ないの?」


「はあ」


「これ、あげるわ」


 琴美がカバンから、小さな袋入りのチョコ菓子を出して晴子に押し付ける。断るのも面倒くさくて黙って受け取った。


 弁当のごみを捨てに給湯室に向かう途中でチョコ菓子を開けたが、これも茶色。げんなりした。だが、そのまま捨てるわけにもいかないと思い一粒口に放り込むと甘さがじわりと広がって、少しだけ気分が落ち着いた。

 けれどなんだか、人の情けというものに負けたような気がした。憐れまれた自分がみじめで、残りのチョコ菓子は、ざらざらと口に流し込み、よく噛みもせずに飲み込んでしまった。

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