離れの晴子

かめかめ

第1話

 この部屋の窓は大きい。けれど窓にはいつもブラインドが下ろされている。

 晴子はブラインドの向こうの今日の空を思い返した。真っ黒な雲が一面に広がっていて、あちらこちらで紫の稲光が走っている。夏の嵐が近づいているらしい。


 人口減少が叫ばれる、この地方都市のビル群に人通りはない。まるで灰色の廃墟のようだ。遠くにはこの町を囲みこむ山々がそびえていて、晴子を閉じ込める黒い壁のようにしか見えない。


 そんなおどろおどろしい景色には興味がないので、ブラインドがあるのは、なかなかに快適だと言えた。

 座り心地の良いひじ掛け椅子に座って、適度な空調で夏の暑さから守られた静かな部屋で黙っていられるのは、晴子にとって価値のあることだった。

 ただ、目の前のカウンセラーが大きな机越しに、自分のことをじっと観察していることだけは不愉快極まりない。


「何か変わったことはありましたか?」


 放っておくと晴子はカウンセリングの時間中ずっと黙り続けるとよく知っている初老の女性は、いつも通りの質問を投げかけた。


「べつに」


「気持ちは落ち着いている?」


「べつに」


「最近イライラはどう?」


「べつに」


「少しは眠れるようになった?」


「べつに」


 何を聞いても晴子からは情報を引き出せない。それでもカウンセラーは人当たりの良い笑顔を浮かべている。心理学を学んでいる人というのはみんなこうなのだろうか。晴子はうんざりして、あからさまにため息をついてみせた。


 カウンセラーはそんな晴子をじっと観察し続けて、晴子のすべてを丸裸にしようと虎視眈々と狙っている。

 弱いところも痛いところも、なにもかも引きずり出して、それで晴子が泣いて泣いてすっきりしたら病気は良くなる。きっとそう思っているに違いない。そんなのはまっぴらごめんだった。


 むっつりと黙ったまま視線を合わせないように、部屋の隅に目をやる。精神療法に使うのであろう積み木が打ち捨てられたように散らばっている。それを見つめ続けているうちに、カウンセリングの一時間は終わった。


 カウンセリングルームを出て精神科医院の待合室に戻る。カウンセラーが今日のカウンセリングの内容を記入したカルテを精神科の主治医に渡す。それをもとに本日の診察を受けることになる。その二段階のシステムも、まどろっこしくて嫌なのだった。

 晴子の病気、双極性障害、いわゆる躁鬱病には心理療法が必要だと言われた。だが、薬だけ処方してくれればいいと通院を始めた八年ほど前に、何度かはっきりと言ったことがある。だが、口ひげを生やした主治医が笑顔を崩すことはなかった。


「なにごとも人生経験だよ」


 その言われようにもカチンと来た。成人しているくせに人生経験のないダメなやつだと思われた、子どものように扱われたと感じた。その時に晴子は心理学者に意見を述べるのはやめようと心に誓ったのだった。


 精神科からの帰り道は地獄のように暑かった。今にも雨が降りそうな真っ暗な空のせいで湿気がひどい。着ているTシャツがじっとりと肌に張り付いた。家に帰ったらシャワーを浴びよう。それだけを心の支えに晴子は家に戻った。


 晴子は離れに住んでいる。と言っても、晴子の家に母屋があるわけではない。古ぼけたビルの3DKが晴子たち一家の住まいだ。


 玄関を入ってすぐ右側が母と、今はもう独り立ちした七歳年下の妹、朝子の同居部屋。廊下を真っ直ぐに進むとダイニングキッチン。その右の部屋を父が使っている。

 廊下を進まず左へ折れるとトイレと風呂。その前を通って突き当りが晴子の部屋だ。畳敷きなのに何故か洋式のドアで、鍵はついていない。


 晴子が大学進学を控えていたころ、父が事業に失敗して引っ越しが決まった。このぼろビルに越してきた初日、すべての部屋の押し入れの襖は取り払われ、母の部屋の畳の上にまとめて積んであった。

 どの襖がどの部屋のものか分かりやすいようにという配慮だろう、襖の裏に小さく薄く、クレヨンのようなもので部屋の名前が書いてあった。父が現在使っている部屋が『北部屋』。母と妹の部屋が『南部屋』。そして晴子の部屋の襖には『離れ』と書いてあった。


 家族は腹を抱えて笑った。この狭い家に離れがあるという、そのちぐはぐさがおかしかったらしい。父の事業の失敗、広い家を手放したこと、多額の借金、そんな事情のもとですっかり笑顔が消えた相良家に久々に訪れた笑いだった。

 だが晴子はなぜか父の、母の、妹の笑顔に腹が立ってしかたなかった。まるで自分の失敗を笑われているような気分で、襖を全部めちゃくちゃに蹴破ってやりたかった。


「何がおかしいのよ!」


 晴子が怒鳴ると家族の笑いが凍り付いた。目をカッと見開き口は曲がり歯をむき出しにした、まるで般若のような怒り顔。その怒鳴り声は、子どものころからの晴子の癇癪に慣れているはずの家族でさえ、恐れおののかせる迫力だった。


 晴子は離れの襖をまとめて担ぎあげると、足音高く自分の部屋に入り、思いっきりドアを閉めた。それ以来、離れのドアは閉めきったままになっている。

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