第12話 希望
急いで服を着る。
これまで着ていた制服は、ボロボロになってしまったが、念のため洗ってしまっておく。
この服のおかげでロウドから、日本から来たことに気づいてもらえたのだ。
それにもうこの制服だけが、自分と日本を繋ぐ持ち物だった。
これが無くなってしまったら、自分がどこから来たのか忘れてしまうような不安がある。
学生という身分に、特別の思い入れなどなかった。
むしろ、うんざりしてさえいたのに、今は制服にそんな気持ちを抱いているのが、皮肉である。
「ふうん? 淑音が
相変わらずミツキは、
「そう言うミツキは……どうなの……」
「何か聞きたいことがあれば、教えてやってもいいよ」
やけに上から目線で語られる。
「もちろん実践して……ね?」
と、顔を淑音の唇を後数センチで奪えそうなところまで近づけて言った。
淑音は慌てて距離をとる。
「じょ、冗談やめて!」
「冗談なものか。淑音ならいいって言ってるんだ」
どこまで本気か分からないミツキに、淑音は耳まで真っ赤になりながら、大いに慌てた。
ミツキはしばらくの間、淑音の初心な反応をからかって遊んでいたが、目を覚ましたレオに気づいて自分の宿舎に退散していった。
さて、女性のプライベート空間に無断で踏み入れた男が、頭を振って意識を取り戻しつつあった。
淑音の顔が自然と鋭くなる。
「……見た?」
淑音は顔に張り付かせた笑顔に、目だけ笑っていない状態でレオを詰問する。
レオには、地面に正座するように言ってある。
「い、いや……! 暗くて何も!」
「……本当に? 嘘じゃないよね?」
淑音は疑いの目を向けた。
レオは気弱そうななりをしているが、これでも男だ。
もし覚えているとでも言い出したなら、鍛え上げた武術を総動員して、レオの記憶を綺麗さっぱり吹き飛ばす所存だった。
「……で、何だったの?」
仕方なく、話を進めるとレオが思い出したように叫んだ。
「ああそうだ! とんでもないものを見たんだよ! さっき!」
淑音の眼光が鋭くなる。
それに気づいて慌ててレオは首を降った。
「違う違う!! 裸とかそういう事じゃなく!!」
生命の危険を感じたらしく、レオは冷や汗を掻きながら弁明する。
「だから何を?」
淑音は酷く低い声で詰問する。
「あれはなんだろう。そうだ。神を見たといっても過言ではないというか……」
とにかく話が要領をえなかった。
埒が明かないので、淑音は表情を崩してレオに先を促す。
「落ち着いて。ゆっくり話してくれればいいから」
淑音はレオを落ち着かせるように言った。
淑音の隣でミリィもことの顛末を見守っている。
話はこうだった。
夜に主人の部屋に、訪問者があったらしい。
主人訪ねる訪問者は多くはないらしく、何事かと奴隷たちの間では話題になった。
淑音はもしかしたら、ロウドが訪問して自分を買い付ける相談をしているのではないかと思った。
レオもそう思ったらしく、出来るだけ主人の部屋での会話を盗み聞こうと懸命に努力したらしい。
訪問者は、男とそれに付き従う従者だった。
話を聞きながら淑音とミリィは顔を見合わせた。もしかしたら本当に助けがくるかもしれない。
「淑音に会いたいと男が言ったんだけど、大切な試合の前だからと主人が突っぱねたらしい。でも、言付けだけでもっていうんで、近くにいた俺が主人の部屋に招かれたんだ」
「訪問者はあの人だった?」
「ああ、そうだよ。確かにあの人だった」
わあと淑音とミリィが思わず抱きしめあった。
「主人は、僕たちを試合の後なら売ると約束していた。だからあの男の人は明日の戦いを何が何でも生き残れって。俺は興奮で何が何やら分からなくなるくらいになったんだ」
やっと事情が分かった。
だとするとレオが、あれほど慌ててやってきた理由も分かる。
「でも覗きの件は、しばらく許さないから」
それでも淑音は正直に言う。
「それは本当にすまなかったよ……」
「で、神のくだりは?」
風呂場でのことをまだ根に持っている淑音が頬膨らませる横で、ミリィが尋ねた。
「そこなんだよ。とても神々しいものを見たんだけど、記憶からすっかり抜け落ちてしまって……。あの桶の直撃で記憶が吹っ飛ばされたみたいだ」
何とも残念なお話だった。
とはいえ、希望がより確かなものになった。
ここに来て一番胸が高揚している。
──絶対に。絶対に生き残る。
淑音たちは興奮を抑えつつ、決意を新たにした。
自然とレオが、ミリィが手を差し出していた。
その手を淑音がしっかりと握り返す。
奴隷達の眠る宿舎の夜は、深まっていく。
***
一旦は淑音も宿舎のベッドに入ってみたのの、当然ながら大切な試合を控えて、眠気は訪れなかった。
同室のふたりを見ると、今日一日の訓練の疲れのせいか寝息をたてている。
明日に備えて寝るのが一番だ。
けれど目を閉じると明日への不安が、次から次へと浮かび上がってくる。
止む終えず淑音は部屋をでて、宿舎の中を歩くことにした。
ふたりを起こさないように、そっと部屋を抜け出す。
宿舎内の星が見える場所を探して、中庭にたどり着いた。
申し訳程度に生えている草と、中央に植えられている木。
とても殺風景で逆に寂しい。
それでもどこからか鳴いている虫の音が、耳に心地よい。
庭の片隅に据え付けられているベンチに腰を下ろし、少しの間物思いにふける。
──なにか見落としはないかな?
万全を期したとは、とてもではないが言い切れない。
奴隷達に色々指導してみたとはいえ、所詮は付け焼き刃。
どれだけ明日、役に立つかは分からない。
だから、油断すると胸の奥に封じ込めた不安に、心をねじ伏せられそうになる。
屈するものか、と淑音は思う。
義父からされた鍛錬という名を借りた、虐待じみた道場での日々を思い出す。
打ちのめされ、地面に倒れ、口のなかが切れて血を吐いても、弱音は決して吐かなかった。
淑音を支えたのは、その頃には既に亡くなってしまった祖父の面影。
自分を信じてくれた祖父の優しい表情を、何度も思い出した。
今度もわたしは乗り越えて見せる。
──おじい様。どうか見守っていて。
異世界まで、亡くなってしまった祖父の加護があるかどうかは怪しいものだが、淑音はそう願わざるを得なかった。
「なんだ。淑音も眠れないのか?」
背後からの呼び掛けにビクリと身を縮ませる。
こんな真夜中に、自分以外の人間がいるとは想像していなかったので、余計にそうなった。
「ライジュウ?」
そこに居たのは、獣のような名前の奴隷仲間だった。
長身で体格に恵まれ、それでいて爽やかな雰囲気を醸し出している。
奴隷がひしめき合うこの場所に、不釣り合いに思える青年だ。
「あなたも眠れないの?」
「ああ、そうだね。コロシアムに立つ前の日はどうしても。みんなそのはずだけど……」
にかっと笑うとますます爽やかだ。
爽やか過ぎて、どうしてこんな育ちの良さそうな人が奴隷に堕ちたのだろうか、と疑問が湧いてくる。
尋ねたい気持ちもあったが、それは相手から尋ねられた時だけ聞くことにしていた。
大抵は、自分の転落した訳を、好き好んで話したいとは思わないはずだ。
「わたしも、何か見落としていることがないか不安になって、どうしても眠れそうにない」
「まあ、寝てる間は死んでるようなもんだよ。明日本当に死んでしまうかも知れないから、敢えて今、寝なくてもいいんじゃないかと俺は思う」
ライジュウは全然笑えないジョークを、可笑しそうに笑ってみせた。
「やっぱり明日死ぬって思ってる?」
「うーん。どうかな。死にたくはないけど大分部は悪いと思ってる」
「そう」
ライジュウはさも平気そうだ。
そんなライジュウの言い草は、淑音をざわつかせた。
「なんか随分冷めた言い方ね」
「そう聞こえたかい? 気に障ったならごめんよ。ただ、そうでも考えないとここで生きていくのは難しいんだ」
言われて、はっとする。
確かにそうなのだろう。
このライジュウがどれくらいの期間生き延びてきたのかは知らないが、淑音とは比べ物にならないくらいのここでの経験があるのだろう。
昨日までいた仲間が今日にはいない。
淑音と同室だった男もそうだった。
彼は、再びカーミラに捕らえられた時に「淑音のせいだ」と言っていた。
それに家族の元に帰らなければならないとも。
そんな願いを持つ個人など、この場所は平気で踏みにじり、蹂躙するのだ。
希望を持つほど、絶望は重くおおいかぶさってくる。ならば、希望を持たないことを処世術にするとしてもおかしなことではない。
「いえ、こちらこそごめんなさい。別に責めるつもりじゃなかったんだけど」
「いいさ」
ライジュウは笑った。
今度は笑顔が何だか痛々しく感じられた。
もし、自分に無限の力があったら、こんな場所など壊してここにいるみんなを自由にしてあげられるのに。
そう願ったところで、それは神の所業だ。
残念ながら淑音は神ではないし、そんな力も持ち合わせてなどいない。
やれることをやるといっても、やれることが限られすぎている。
「けど、わたしは諦めない。ライジュウあなたも諦めないで」
淑音は、挫けてしまいそうな自分を説得するように言った。
そんな淑音にライジュウははっとさせられたのか、呆れたのか、表情からは読み取れなかったが、小さく頷いていた。
「淑音。君は不思議だね」
そんな風に言われて、淑音は胸の奥で罪悪感を感じた。
ライジュウと淑音では状況が違う。
かたや、いつ終わるとも知れない戦いの日々。
かたや、淑音は明日を乗り切れさえすれば救われる可能性がある。
一体何様のつもりで「諦めないで」などと言えたのだろう。
淑音はそれ以上かける言葉が見つからなかった。
フェアじゃない。
まったくフェアではないが、開放されるかもしれない事をライジュウに説明する気にはなれなかった。
自分だけならまだしも、ミリィとレオの生命もかかっている。
迂闊なことを言って、仲間を危険に晒すわけにはいかない。
だから、それっきり二人の会話はなかった。
それぞれが互いの気持ちを測りつつも紡ぐ言葉が見つからない。
そんな沈黙だった。
「今夜は話せて良かった」
ライジュウは、いつしかそう言って立ち上がった。
「ええ、また明日」
淑音は、どこか落ち着かない面持ちで、ライジュウの背中を見送った。
この世界は、淑音が今まで住んでいた世界より、ずっと死が近い。
安全圏から「命を大切に」などと語ることが、傲慢に思えるほど。
どちらが正しいのかはわからない。
でも、今淑音がいるのはより残酷なこの世界なのだ。
ますます眠れなくなってしまった。
ベンチに力なく腰掛け、なんとなく夜空を見上げる。
砂漠で見た時と同じように、知らない星座が瞬いていた。
視線とは不思議なものである。
目で確認したわけでもないのに、ふとどこかから向けられている視線を感じることがある。
それは第六感ともいうもので感じているのか、それとも他のどこかの器官が機能しているのか。
淑音には知る由もない。
ただ確かなのは、今淑音に向けられている視線があるということだ。
明らかに敵意を含んだもの。
それはほとんど殺意に近かった。
ふと、ミツキが言っていた「誰も信用するな」という言葉が脳裏に蘇る。
こんな真夜中に何者だろう。
まさかライジュウ。
それとも他の誰かだろうか。
まだ、しっかり話したことのない死神のような容貌をした男、クロウだろうか。
ほかにも、まだあったことのない奴隷宿舎の住人がいるだろう。
明確な殺意は、例え腕に覚えのある淑音でも、落ち着かない気持ちにさせる。
じっとりと、背中に嫌な汗をかいているのを感じた。
今にも、そいつが襲い掛かってくるのではないかという不安が、限界まで高まった時
「淑音!」
と、呼びかける声がした。
親し気な、そして淑音を気遣うような声色。
気づけば、ミリィとレオだった。
淑音が寝床にいないことに気が付いて、心配してやってきたのだろう。
二人が安堵の表情を浮かべていた。
淑音も二人を見て、緊張でこわばらせた筋肉を、弛緩させた。
「ふたりとも、良かった・・・・・・」
ミリィとレオが現れてから、殺意の視線の主はどこかに消えていた。
「大丈夫? 淑音」
ミリィが、ただならぬ表情を浮かべていた淑音を気遣うように、背中を撫でてくれている。
「ありがとう。ミリィ」
レオが淑音の顔を覗き込んだ。
「急に夜中に淑音がいないから、心配したよ」
「ごめんなさい。なんだか眠れなくて」
「そりゃあそうだ。俺たちも疲れていたせいか、数時間は眠れたけど、明日のことが気にかかって目が覚めてしまったからね」
ミリィも淑音を心配するように続ける。
「何かあった?」
ふたりに視線のことを話すべきか悩んだが、これ以上自分一人で抱え込む自信がなかったので正直に話すことにする。
話を聞いた二人は神妙な顔つきになって、誰がそんなことをするのか考え込んでいた。
「レオ。もしかして私たちが明日出られるかもしれないことを誰かに話したりしてないよね」
ミリィにしては、厳しい表情を浮かべてレオを問いただす。
「まさか! 流石にそこまで迂闊じゃないさ」
「ならいいんだけど」
レオがそう言い切ったので、それ以上は追及しなかった。
淑音としても、レオが少し抜けているところがあるとはいえ、分別がないとは思わない。
「とりあえず、そういうことならひとりでいない方がいい」
レオの提案に、淑音とミリィは頷いて、自分たちの部屋に戻ることにした。
大切な明日を控えているのに、またひとつ大きな不安要素がのしかかっている。
今夜はやはり眠れそうもない。
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