第11話 死亡フラグ
その日。
平時であったら音を上げるような厳しい指導も、命がかかっているとあれば、身を入れざる負えないというものだ。
淑音は立ち回り方から、間合いの取り方まで、自分に教えられることはなんでも教えた。
勿論、淑音から見たらまだまだだったし、改善の余地はあったが、一日の付け焼刃でどうこうなるものではない。
時間は無限ではない。
やれることはやはり限られていた。
──それでも、今やれることはやった、と思う。
淑音は味気ない夕食を口に含みながら、考えた。
朝食と比べると、夕食は大分質素だった。
固いパンと薄味のスープ。
それと申し訳程度に添えられた、わけのわからないフルーツだ。
異世界に迷い込む主人公が大抵思うように、淑音もまた日本食が恋しくなった。
だが、今は贅沢を言える時ではない。
無感情に食事を、喉の奥に押し込んでいく。
「淑音。すごいな」
そう言ったのは、目の前にいるのはレオである。
食事場のテーブルを挟んで向かい側に座り、今日の淑音の指導ぶりに鼻息を荒くしている。
「淑音ほどの使い手は、アパタイトの中でもいないんじゃないか?」
「どうかな。上には上がいると思うよ」
決して謙遜ではなく、淑音はそう思っていた。
「いやいや、少なくとも淑音ほど強い女性を俺は見たことがないよ!」
そう言われて悪い気がしない気持ちと、あまりうれしく思えないなという気持ちが同時に沸き起こる。
「わたしも淑音は自信をもってもいいと思うよ」
隣にいるミリィもレオに同意した。
「ありがとうミリィ」
それでも、明日さえ分からない異世界で、自分を慕ってくれる人間がいるというのは、心強さもあった。
この二人を絶対に守ろうと誓う。
この世界にたどり着いてから、もう何人もの人間が淑音の目の前で命を落とした。
せめて手の届く範囲の人たちだけでも、守りたい。
その願いがどれほど高慢なものであっても。
「淑音! 俺は決めたぞ。淑音が教えてくれた『スイレンちゃん』をきちんと絵にしたいと思うのさ。明日もし生き残れたら……」
レオは熱っぽく語りだした。
「ちょっと待って!」
レオの言葉を慌てて手で制す。
「とてもいいことだけど、そういう言い方は良くないよ。わたしの住んでいた世界ではそういうのは『死亡フラグ』って言われてるんだから」
「し、『死亡フラグ』!? 初めて聞いたなあ」
「『明日生き残ったら』とか『この戦争が終わったら』なんて言う人は真っ先に帰らぬ人になるんだからね! 残された人がどれだけ悲しい気持ちになるか……」
淑音はスレインちゃんの第28話「帰らないあの人」のエピソードを思い出しながら、涙ぐんだ。
クラスメートの男の子がスイレンちゃんの前世の恋人で、そのことを思い出してテロリストに単身突撃をかけるという、今思えばなかなかに攻めたエピソードだったが、それだけに淑音の記憶には色濃く残っている。
「もし生き残ったら俺と結婚しよう!」
確か、そのキャラクターは小学生だったはずだが、そんな重いセリフを吐いていた。
当然ラストは帰って来なかったのだが、その数十話あとに洗脳されて敵として再登場する、というお約束まで果たしてしまった。
あの当時は「脚本家ふざんけんな」とか、「もう見ない」とネット上で大炎上したのは記憶に新しい。
必死に擁護にまわった淑音にとっても、つらい日々であったのは言うまでもない。
思い出しただけで泣きたくなってきた。
そんな脚本家の意図とは全く別の理由で涙ぐむ淑音を見たレオは、女性の涙に柄にもなくドギマギしてしまう。
「す、すまない。なにか嫌なことを思い出させてしまったみたいで……」
「とにかく! これから先のことも大切だけど明日に集中しましょう。お互いの夢を語り合うのはそれからでもいいでしょ?」
熱っぽくかたる淑音に、昔に死に分かれた男がいたのだろうかと、ミリィとレオは見当違いの想像を巡らすのだった。
「ちょっといいか?」
淑音達の会話に割り込んできたのは意外な人物──先ほど打ち負かしたミツキだった。
嫌われてしまってもおかしくないと、心配していたのだが、話しぶりからするのとそうでもないらしい。
「今日はこれから女は湯あみの時間だ。淑音。付き合ってもらうぞ」
ミツキの話ではこの宿舎では、週に2回風呂を浴びれるという。
蒸し暑いこの季節にはそれでも全然足りなかったが、淑音にとっては待望の風呂だった。
これほど身体を洗っていないのは人生でこれまでなかったし、あちこちが痒くなっていた。
それならばと、そうそうに食事を片付けて風呂場に向かう。
レオを残して、ミリィと一緒にミツキの背中を追っていく。
廊下をすこし進むとミツキがいう、湯あみの場所に辿りついた。
風呂場といっても中央に水溜があるだけの簡易なものに過ぎない。
屋根もなく周りも簡易な壁でしきられているだけだ。
それでも、隙間だらけの浴場は露天風呂と思えば、風情があるとも言えなくはなかった。
観察している淑音をほっておいて、ミツキはさっさと脱衣場に向かってしまう。
慌てて淑音達も続いた。
脱衣場といっても、ここも簡単な敷居で囲われているだけの簡単な造りで、どうにも頼りない。
周りに他の人間の気配がないことを、淑音は何回か確かめた。
本当にこの周辺には男の気配はないようだ。少しだけ安心する。
「そこまで警戒しないでも、誰も来ねえよ」
ミツキは言った。
「奴隷に。それも剣闘用の奴隷に孕まれでもしたら、大変なことだろ? だから主人はその辺はちゃんと監視している」
説明されて、なるほどと思ったが釈然としない理由だった。
話している間に、ミツキはすでに服を脱ぎだしている。
女性しかいないとはいえ、淑音は肌を晒すことに若干抵抗があった。
だから、いざ服を脱ぎだす段になって、ちらちらまわりの様子を伺う。
ミリィもミツキもほとんど抵抗を感じる事はないらしく、あっという間に一糸まとわぬ姿になる。
余り手間取っていると、自分だけが意識しているようで恥ずかしいので、淑音は隅の方でこそこそと服を脱いでいた。
日本にいた時も、銭湯や温泉というものをあまり利用したことがなかった。
だからそのせいもあるのだが、もう一つ理由があった。
淑音は洗い場に入りながら、ふたりの身体をこっそり盗み見る。
ミリィは妙齢の女性と言っても過言ではないのだが、肌艶があり、出るところはしっかり出ていて男好きしそうな身体をしている。
そして大人の女性の包容力のようなものが、その身体にも表れている気がした。
ミツキもまだ若く、鍛え上げられた筋肉で引き締まった身体をしていて美しい。
スレンダーでいて胸は、自分より大きいのだなと淑音は思った。
アニメだったら、ここで謎の光や湯気が発生して何も見えなくなるところなのだが、これはアニメではない。
やけに生々しい肌色に、淑音はほんの少しドキドキしていた。
でも、ここにいる三人とも、奴隷の焼き印はしっかりと刻まれていて、ここでも自分の立場を思い知らされる。
淑音が少し沈んだ気持ちになりかけた時には、ミリィもミツキはもう洗い場に向かい始めていた。
淑音はかぶりを振って、気持ちを払いのけ、慌てて追いかけた。
本当に久しぶりに浴びた生ぬるいお湯は、生き返る心地がした。
まだ痛みが残る肩口以外の汚れを、流し去っていく。
ふととなりに気配がした。
「……きれいな肌だな」
いつの間にかミツキが淑音のとなりで、身体を洗いながら言っている。
背中を無遠慮に撫でられて、「きゃっ」と思わず変な声が出てしまう。
耳まで真っ赤になった。
「その顔と身体なら剣闘士じゃなくて、娼婦でもやっていけそうなのに」
その上喜べばいいのか、怒ったらいいのかわからない褒め方をされる。
表情を見る限り悪気はなさそうなので、曖昧に笑っておくことにした。
「うーん。でもただ……」
続く言葉を、ミツキが淑音の胸元を覗き込むように言っているので、淑音は慌てて胸元を両腕で抱きしめるようにして隠した。
言いたいことがなんとなくわかって、淑音は頬を膨らませる。
「なーんだよ? 減るもんじゃないだろ?」
ミツキはさらにじゃれついてきたが応じず、淑音は無言で風呂に飛び込んだ。
残念なことに、ミツキも風呂の中で淑音のすぐ横に陣取った。
「で、どうしてここに堕ちた?」
そう尋ねられたので、話が真面目なことに切り替わったことにほっとする。
奴隷商に捕まったあたりからのことから、これまでの出来事を簡単に説明することにした。
日本のことを語ったところで、よく分かってはくれないだろう。
「そうか」
ミツキは同情するでもなく頷いた。
きっとこの世界の人たちにとって、奴隷に堕ちることは別段珍しいことではないのだろうと淑音は思った。
「わたしも聞いていい?」
淑音は興味がわいてきたので、ミツキのことも尋ねることにした。
「あ、あたしか。聞いて楽しい話じゃねえよ」
ミツキはまさか聞かれるとは思っていなかったのか、少し慌てたという様子だった。
ミツキはあまり自分のことを話すタイプではないのだろう。
そうしているうちにミリィが身体を洗い終わったらしく、風呂に入ってきて、湯船が揺れた。
ミツキは前置きを置いて話し出した。
想像していた通り楽しい話ではなかった。
酷い父親に育てられたこと、ある日その父親に乱暴されてはずみで怪我を負わされたこと。
それが額の傷として今も残っているということ。
その傷はコロシアムでの戦いでつけられたものじゃなかったことが、妙に淑音にとってショックだった。
それから、父親に生活の金のために売り払われたこと。
衝撃的な話であればあるほど、重く反応し過ぎないように淑音たちは気を張った。
「な? 楽しくねえ話だろ。だがあたしには、この気の強さと腕っぷしがあった。お陰で今日まで生き延びてこられたってわけだ」
ミツキは辛気臭い話を打ち消すように、あえて明るい声で語っている。
淑音もミリィも黙って話を聞く。
ここに来てから、笑えない話ばかり聞く。
「もしかして、ここでも一番強いんじゃないかって思い込んでいた。あんたに負けるまでは」
彼女が強さにプライドを持っていたことは、疑いようのない事実だった。
それを図らずも淑音が打ち砕いてしまったことになる。
フォローするつもりではないが、淑音は言った。
「実際ミツキは強いよ」
「でも負けた。ここでは強さがすべてだ。頼む。教えてくれ。あの技はどうやったんだ」
ミツキに真剣な視線を向けられる。
きっと湯あみに誘われたのはそのためだったのだと気づいて、淑音は答えることした。
「技ってほどのもじゃないよ。大体の人は動きを見るとき、無意識に動きのリズムを感じている。そのリズムを正確に掴み取ればとれただけ、上手く対応出来る」
淑音は身振りを交えながら、ミツキに説明した。
「熟練者ほど相手の身体の動きのリズムを正確に捉えている。こう動いたらこう。ああ動いたらああ、っていう風にね。そうやって自分はどう動くか見極めてるんだと思うんだけど。そこで、わたしがしたのは、あえて動きのリズムをずらしてやったの」
そうすると、と淑音は続ける。
「予測していない動きに惑わされて、目で追えなかったり、動きに対応できなくなるってわけ。まあ、ようはただの騙し技みたいなものね」
「あれがただの騙し技だって……」
ミツキはあんぐりと口を開けて驚きをあらわした。
淑音の後ろ側でお湯につかっていたミリィは、淑音がなにやらすごい技をつかったのだろうなとは思っていたが、説明されてみてあらためて尊敬すら覚えた。
言うほど実践するのは簡単ではないだろう。
長年の厳しい訓練で鍛え上げられた技術。
習得するのにいったいどれほどかかったのだろう。
「それにしても……」
ミツキはひと際、神妙な面持ちになっていた。
淑音も表情を引き締める。
「胸って、お湯に浮くんだな……」
背後のミリィの胸を凝視しながら、ミツキが真剣に言ったので、淑音はお湯の中に沈みかけた。
水中から眺めたミリィの胸は確かに浮いているように見えたが、激しくどうでもいい、と淑音は思った。
──あんなのただの脂肪の塊だし! 本当にどうでもいいし!
「教えてもらった礼に、あたしもひとつ教えてやるよ」
ミツキが、真剣な表情で淑音に向き合った。
「ここでは誰も信頼するな。ここで生き延びてるってことは、みんなどこかしらおかしくなってるってことだ。どさくさにまぎれて誰かに殺されたっておかしくない。敵味方でいうなら全員敵だと思っていた方がいい」
「でも少なくとも明日はわたしたちは戦わないんじゃ……」
「甘ちゃんだな淑音。ここの奴隷は誰よりも強いと評価されなきゃ、生きていけないんだ。同じ宿舎で寝泊りする仲間とはいえ、自分より強い相手と分かっているやつを今のうちにどうかしておこうと考える連中はひとりや二人じゃないはずだぜ? あんたは自分が強いって自分で明かしてしまったんだからな」
再び嫌な動悸がしてきた。
ミツキの言う通り、油断はできないのだろう。
それでも明日を乗り切らなければならない。
正体不明の敵に相対するのに、疑心暗鬼に駆られている場合ではないのだ。
「忠告ありがとう。ミツキ」
お湯から上がりかけているミツキに声をかける。
「ミツキは信用してもいいのよね」
ミツキはふっと鼻を鳴らして、特に何も答えなかった。
「た、大変だ! 淑音!」
突然、浴場の空気を切り裂くように声が響いた。
宿舎の奥から声は聞こえたようだ。
バタバタと慌てたように駆け寄ってくる影がある。
「ちょっ、ちょっと待って!」
その姿がレオだと気づいて淑音は叫んだ。
緊急事態なのかもしれないが、裸の女性に全力で駆け寄ってくる男。
こちらの方がよっぽど緊急事態であり、大問題だ。
主人はここに男を寄せ付けないはずではなかったのか。
慌てて手元にあった桶をレオに向かって投げつけた。
高速で放たれた桶は、ごんと大きな音を立ててレオの頭部に直撃。
頭が割れたのはないかと思うほどレオは、派手に吹き飛んで、さらに地面にめり込んで昏倒する。
突っ伏したまま、ぴくぴくと痙攣している。
「なんでなんで! おかしいでしょ!」
淑音は叫びながら、身を包むように両手で身体を抱いて、お湯の中に身を隠した。
お湯が湯船から激しくあふれる音がして、沈黙が浴場を包んだ。
半眼になって、ミツキは呆れたように淑音を見ている。
「別に見られたところで減るものでもないし、ここまでしなくても……。まさか生娘でもあるまいし、ん……。でもまさか……。淑音あんた……」
何かに気が付いたようににんまりとした笑顔を向けるミツキ。
その視線を浴びて耳から真っ赤になった淑音は、さらに身体を沈ませ、お湯の中でブクブクと泡を吹いた。
ミリィはそんな淑音を、優しく見守っている。
レオはというと──。
レオは図らずも、ここで死亡フラグを回収した。
……もちろん、死んではいない。
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