第13話 激闘1

 銅鑼どらの音が、ジャンジャンと不気味なリズムで轟いている。

 戦いを煽るような、これから恐ろしい敵の出現を予期させるような音だ。

 一音、一音が、低いうねりとなって身体全体を震わせている。

 身体の震えはそのせいなのか、それとも恐怖のせいなのか。

 ここに集う奴隷たちにも、もはやわからなかった。

 奴隷たちはコロシアムの剣闘士の入場口で、押し寄せる恐怖と戦っていた。

 コロシアムの入口は鉄格子で仕切られている。

 合図があればこの格子が開いて、奴隷たちを中に招き入れる。

 戦いが終わるまでこの鉄の扉が開くことはない。

 敵を殺すか、自分が殺されるかのどちらかしかこの扉を開くすべはなかった。

 果たして、死体として運び出されるのか。もしくは生きて戻れるのか。

 戦場に出向く戦士達の緊張感。

 荒い呼吸。ひりつくような空気。止まらない汗。

 レオとミリィも同じだろう。

 淑音は、二人の手を強く握りしめた。

 二人も黙って握り返す。

 もし手を離してしまえば、深い穴に真っ逆さまに落ち込んでいくような錯覚があった。

 その穴は、どこまでも深く落ち込んでしまえば、二度と地上には戻れない。

 だから、痛いほど握りしめる。


──絶対に死なせはしない。


 轟いているのは銅鑼だけではない。

 コロシアムでの殺戮を、今か今かと待ちわびている大勢の観衆の声も、耳を劈くように響いている。


「殺せ! 殺せ!」

「早く血を見せろ!」


 観衆は熱狂している。

 声が奴隷たちの耳にも届いていた。

 そのため奴隷たちの中にはすでに怖気づいている者も、みられた。

 淑音は格子から、コロシアムの中を覗き込む。

 その時──。

 一段と大きな歓声がコロシアム内に響き渡った。

 自分たちの入場口ののちょうど反対側の柵が開かれたのだ。

 重い鉄を引きずる音がそのことを示していた。


 観客の視線の先には大きな獣が咆哮をあげていた。

 茶色い毛で体中が覆われている。

 3メートルほどの体長の淑音は見たことがあった。


「熊・・・・・・!!」


 それは大きな熊だった。

 奴隷たちの中には恐怖のあまり股間から熱いものを滴らせるものもいた。

 誰も咎めることはない。

 なぜなら、だれもが言葉を失っていた。


 「熊」。

 日本でもなじみあるこの動物は、漢字が示す通り、「能力」のある「四つ足」の獣である。

 力は強く、頭もいい。

 さらに人の肉を食らった熊は執念深い。

 おそらくあの熊は人の肉を食らっている。

 黒い瞳がこちらを餌を見るように覗き込んでいて、鋭い牙の間から大量の涎を垂れ流していることから、腹を減らしていることも良く分かった。

 全身を覆う筋肉。

 熊に対して人間の筋肉など紙切れにも満たない。

 一振りの爪で肉は骨ごとそげ、文字通りただの肉片になるだろう。

 だから、これから始まるのは試合などではない。

 一方的な殺戮だ。熊による人間の捕食ショー。

 観客もそれがわかっているから、早く血が見たいと狂気乱舞しているのだ。

 そんな会場の空気にあてられて、奴隷たちは戦意を失っていた。

 ただひとりを除いて。

 淑音は自分を、そして仲間を奮い立たせるように、大声を張り上げた。


「武器を鳴らして!」


 淑音は、自分が持つ槍の石突で地面を叩き打ちならした。

 地面に突き刺すかのように振り下ろされた槍は、甲高い「カン」という金属音を鳴り響かせた。

 誰もがあっけにとられて動けない。

 その中で淑音は、もう一度槍で音を鳴らし叫ぶ。


「武器を打ち付けて!」


 淑音の大声に釣られて、何人かの奴隷も習って武器の音をたてた。

 ザッという武器の音が重なり合って響く。


「わたしのいうことが聞こえるなら、武器を鳴らして合図して!」


 ガンとさっきよりも重い音が鳴った。

 何人かの奴隷たちが、淑音に倣って音を立てたからだ。

 レオやミリィ、それにミツキやライジュウも倣った。

 淑音はさらに続ける。


「あれは恐ろしい獣! だが! わたしの故郷ではあれを狩っていた者たちがいた! つまり殺せない相手じゃない!」


 呼応して奴隷たちが、音を合わせるように武器を鳴らした。

 同じ動作、同じ音を響かせることが奴隷たちを鼓舞し、気持ちを高めていく。


「私たちは生き残る!」


 今まで一番大きな音が反響した。


「私たちの身体に刻まれているこの証印は何?」


 淑音は自分の肩口の忌まわしい刻印を指し示す。

 カーミラによって無理やり、焼き付けられた悪夢の象徴。


「奴隷の印だ!」


 ライジュウが叫ぶ。


「そう。これは私たちがどこにも逃げられないことを示す呪いの証印」


 でも、と淑音は続けて声を張り上げる。


「同時にこれは私たちが同じ境遇に置かれた仲間であることの証! この印は私たちを家族より強い絆で結びつける! 例え獣に引き裂かれても! 私たちは今日一丸となってあの獣を殺す!」


 淑音の演説に奴隷たちは身体の奥から声をあげた。

 演説は確かに奴隷たちの諦めかけた心を奮い起こす。

 恐怖を一旦忘れ、目の前の仲間のためだけのために命をかけようと動かした。

 例え、命の危機が迫る中でのまやかしだったとしても、奴隷たちは確かにこの瞬間ひとつになったのだ。

 ミリィもレオも、目の前の少女が今この場所にいることを、誇りに思った。

 彼女がいなければ奴隷たちは戦う意思を見せないままに、ただ食い殺されていたかもしれない。


 沈黙。

 やがて、重い鉄を引きずる音がして、鉄格子は取り払われた。

 観客の耳を劈くような熱狂が、身体全身を震わせる。


「誰も離れないで!」


 淑音は一声叫んで先陣を切った。

 淑音は昨日の時点で20人を4つのチームへと編成していた。

 1チーム5人。

 会場の歓声すら打ち消すように淑音が叫ぶ。

 20人が一斉に一歩を踏み出した。

 何よりも強く地面を蹴ったのはやはり淑音だった。

 まずは一撃。重い一撃をあの獣に与えなければならない。

 万全の状態の熊はやはり圧倒的なほど強い。

 少しでも手傷を負わせて足を止めなければ。

 さもなければ、紙切れのように次々と引き裂かれてしまうだろう。そ

 うしたら、せっかく高まった士気も霧散してしまう。


 淑音は土煙を巻き上げながら、獣の眼前へと迫った。

 右手には槍。

 広い場所では射撃を覗けばこれに勝る武器はない。

 熊は自身に迫る得物を確認したらしく、ぐるると低く咆哮した。

 自然界ではそれだけで敵は怯え身を潜めただろう。

 陸上の生物で熊に敵う生き物は少ない。

 向かうところ敵なしの、絶対の王者という自負すらあるようだった。


「跪け」


 もし言語を話せたら、そんな風に語っていただろう。

 その圧倒的な強者は、目の前の小さな人間など意に介してすらいなかった。


 だが、淑音は少しも速度を落とすことなく、一気に間合いを詰める。

 恐怖は振り払った。

 この瞬間は目の前の獣を狩ること以外、脳の容量を割くつもりはなかった。

 淑音を追って何人かが追いすがっていたが、だれも彼女に追いつくことはできない。

 淑音は武器をあらためて強く握りしめ、空中へ身を踊りこませた。

 一切の躊躇はなく、それでいて流れるような美しい動きだった。

 そして渾身の力で槍を穿つ。


 高速で突き出された刃はギュンと風を切り裂き、熊の額めがけて放たれた。

 淑音は空中に躍り出、槍に自分の全体重を乗せた。

 森の王者も流石にかわすことができないほどの速度。

 刃先は頭部へ迷いなく直撃した。

 人間なら一撃で額を割ることができただろう。

 だが、目の前の獣は当然ながら、人間とは比べものにならない硬度を誇る。

 直撃したはずの槍は、淑音の予想した感触から多いに外れた。

 固い皮膚に阻まれて、押し返される感触。


──角度が浅かった!!


 角度も垂直ではなかった。

 淑音の腕が強い力ではじき返され、びりびりと自身の筋肉に痛みが走るのを感じる。

 全体重をかけたのも良くなかった。

 淑音は、そのまま勢い余って前によろめく。


「まずい!」


 誰かが叫んだ。

 熊が自分の攻撃範囲に入ったものを見逃すわけがない。

 熊は自分に予想外の一撃を加えた不届き者に制裁を下すべく、巨体から想像できない速度で攻撃に反転した。

 熊の太い腕が淑音に振り下ろされていた。

 一撃でも喰らったら骨ごと肉を引きちぎれるだろう。

 瞬時に淑音は後ろに飛びのいてかわす。

 もはや、脳で考えて動いたというより、生存本能に突き動かされたというのが正しい。

 爪先が淑音の肉をあとほんの数ミリという距離で、引き裂き損ねて空を切った。

 淑音は額から嫌な汗が吹き出る。

 間一髪だった。


「距離をとって!」


 淑音の号令に奴隷たちは油断なく、距離を保つ。

 この獣がすぐに襲ってこないのは、目の前の人間たちの強さを測りかねているからだった。

 人間はただの餌のはずだった。

 ──が、目の前の人間は何やら抵抗を試みているようだ。

 本当の所、この獣がなりふり構わず、襲撃を開始したならこの場の誰も抵抗することはできなかったろう。

 あっけなく人肉のご馳走にありつけていた。

 だから、奴隷たちは熊の警戒心に救われていたのだ。

 一方の淑音は、追い詰められた状況の中で思考を高速に働かせていた。

 自身が今まで知りえた知識を総動員する。

 脳に損傷を与えれば、それが生物である限り死ぬ。

 だから頭を狙ったのだが、予想以上に固かった。

 確かに頭を狙うのはハンターでも勧められてはいない。

 硬さによる跳弾で怪我する可能性があるからだ。

 では、ハンターはどこを狙うのか。

 淑音がと答えを出す前に焦れた奴隷の一人が、勇敢にも熊に刀を振り下ろしていた。


──まずい!!


 淑音には止めることもできなかった。

 それは勇敢とも言えたが、蛮勇と言ったほうが近い。

 残念なことに、刀は熊の身体にたどり着く前に、弾き飛ばされ地面に転がる。

 発泡スチロールか何かが吹き飛ばされるように、武器は重さを感じない速度で地面をはね飛んでいく。

 地面に転がったのは武器だけではなかった。

 奴隷は距離を見誤っていて、獣の爪は奴隷の胴体ごと引き裂いている。

 周りの奴隷たちも、そして恐らく本人すらそのことに気づくまで数刻遅れた。

 ややあって、コロシアム全体に響くような絶叫。

 奴隷は自身の臓器をはみ出させながら、地面にぐしゃりと音をたてて潰れるように沈み込んだ。

 血吹雪が周りの奴隷たち、淑音にまで吹き広がった。


「ああああああああああああああああああああ──っ!!」


 絶叫は数十秒ほど響き、やがて終わった。

 命の灯が消えた。

 それなのに死体が痙攣を続けている。

 奴隷たちは誰もが言葉を失い、動くことすら、忘れてしまっているようだった。

 沈黙を破ったのは奴隷たちではない。

 コロシアムの観客の歓喜を含んだ歓声だった。

 観覧している誰もが、期待していたショーに心を弾ませているようだった。


「離れて! 絶対に背中は向けないで!」


 顔に飛び散った血吹雪を腕で払いおとしながら、淑音は檄を飛ばした。

 その声に奴隷たちは、はっとしたように動きを取り戻す。

 一方の熊は、今仕留めた得物の腸をそれはうまそうに、ほおばっていた。

 上下に生えそろった牙を血に浸しながら、肉をむさぼっている。

 それと同時にその目が次の得物を見定めようと、ぎょろぎょろと動いている。

 獣は人の柔らかく食べやすい部分だけを堪能して、次の得物に目をとめた。

 この熊はグルメらしい。人の肉を喰らうことになれている。

 息の詰まる緊張感のなかで、熊の目に射貫かれて、辛抱溜まらず一人が破れかぶれに前に飛び出した。


「駄目!!」


 淑音の静止もすでに届いていない。

 熊の一振りに奴隷は首の骨が折れ、ありえない方向に曲がった首のまま地面を転がっていった。

 もう戦いにもならない。

 深いところから噴き出した恐怖は限界に達していた。

 高まった士気は下がり、ここにいるのは自分が対象にならないことを祈りながら震える哀れな餌でしかない。

 ほとんど腰を抜かしながら、奴隷たちは後退を始めている。

 淑音と、淑音に付き従う幾人かだけがその場に踏みとどまった。

 獣に共通することだが、力のないものを本能的に見抜く力がある。

 だから、群れからはぐれたもの、怪我をしたもの、それに心が折れたものをかぎ分けることができるのだ。

 そんな自然の摂理が、この闘技場でも再現されようとしていた。

 逃れようと鉄の格子にしがみつきながら、上半身と下半身を胴体から引き切られた奴隷がいた。

 隅にうずくまりながら、淑音の知らない神に祈りを捧げながら絶命する奴隷もいた。

 最期の抵抗を試みようと有効打にならない武器を振り回しながら、生きたまま食いつくされた奴隷もいた。

 ありとあらゆる凄惨な死がここに溢れている。

 淑音は自分の太ももに暖かいものが流れているのに気が付いた。

 恐怖が理性を上回って、生理現象に抗えなかった。


「・・・・・・ッ!!」


 淑音はうずくまって絶叫したいのを唇を噛み締めて堪えた。

 噛む力が強すぎて、唇から血の味がしている。

 観客の大声が鳴りやまない。

 ひとつの死が引き起こされるたびに、観客は喜び狂った。


──なんで・・・・・・? 人が死んでいるんだよ・・・・・・。


 耳が大音量にやられてまともに働いていない。

 視界もおぼつかない。

 狂気の会場のうねりに、自分も脳をやられてしまったのかも知れない。

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