第4話 そして異世界へ──

 季節は夏。ミンミンとうるさく喚く蝉の声に次第に辟易とする頃。

 いつもは毎朝5時になると、蒼月家あおつきけの屋敷の門下生たちが屋敷からランニングに出かける様子が近所の住民からよく目撃されていた。

 ところが、今朝はどういうわけか屋敷は静まり返っていた。屋敷の庭の中央にある大きな池の水も、静謐せいひつさを湛えている。


 世間はお盆休みということもあって、普段は道場脇の宿舎に寝泊りしている門下生たちも一斉に里帰りしているのかもしれない。

 近くの住民たちもさして気にはしていなかった。ただ戯れに「蒼月家の道場は今日は静かね」と井戸端会議の話題にあげる程度だ。確かに午前、午後と鍛錬の時間を告げる鐘は、今日は沈黙していた。


 ところがその日、蒼月家の屋敷は大変な騒ぎとなった。

 何台ものパトカーや救急車が屋敷の前を埋め尽くし、赤色灯せきしょくとうが夜間も眩しいほど灯った。

 どうやら、淑音の義理の父、雄哉が斬り殺されたという。武器として用いられたのは蒼月家に伝わる宝刀。

 現場には淑音の実の母である文音が亡骸の前に呆然と座り込んでおり、「淑音がやった」とひたすらに繰り返していたようだ。


 この街に降ってわいた凄惨な事件は、近所の話題となって広がり、当然のことだが、その夜からTV等で大々的に報道されることになった。

 不思議なことに、淑音という少女がその後保護されたという報道はない。


 色々な憶測がわいては消えていった。

 「おとなしい子だったんですけどね」と加工された映像と声で、インタビューに応じるクラスメートや学校の職員もあったし、「特に親しかったひとはいなかったんじゃないですか?」と手前勝手に述べる自称知人もあらわれた。

 多かれ少なかれ、大した話題のないこの街で格好の話題を見つけたという風だった。悪意がないからこそたちが悪い。唯一の救いは、当の本人がそのことを知らないという事だった。


 では淑音はどこに行ったのか。その疑問に答えるため、事件が報道される数時間前まで遡る。


 ***


 住宅地から20分ほど歩いたあたりに、山がある。

 それほど険しくも、高くもないので地元の小学生が学校の行事で気軽に登山できるほどだ。

 それでも、山には一か所だけ鬱蒼とした森があった。段差や急な崖があるので近所の住民でもあまり近づくことはない。山の案内人も危険個所としてよく注意を呼びかけていた。


 そんな森の片隅に恐らく誰も知らないであろう洞窟があった。入口は縦に2メートル。横幅はかろうじて人がひとり入れるほど。仮に見つけたとしても不気味に思って近づこうとは思うまい。

 蒼月淑音あおつきしとねはそこに足を踏み入れようとしていた。


 白のYシャツに、カーディガン、チェックのスカート。学校の制服姿だ。

 黒くて長い髪は、頭の後ろで綺麗に縛って束ねており、うなじから見える肌は白く透き通っていてガラス細工の様に繊細だ。

 さながら日本人形のような印象で、そのうえあどけなさが残る表情は見るものを引き寄せる魅力がある。

 先ほどから急に降り出した夕立が、彼女の身体を容赦なく濡らしている。傘は持っていなかった。

 そのため、Yシャツは肌にべったりとくっついていており、肌色が透けている様子はやけに艶っぽい。


 彼女がどうしてこんな場所に訪れたのか。それには、彼女の幼少の頃からの事象に触れなければならない。


 淑音には幼少の頃から、自分にだけ聞こえる声があった。

 そのことをはっきり認識し始めたのは物心ついてからだったが、その声は淑音に何かを語りかけていた。


──何を言っているの? あなたは誰なの?


 少女の問いに声は答えなかった。会話しているというより、一方的に話しかけてきているようだった。

 常に呼びかけられているわけではない。しばらく何も聞こえないことがあり、忘れたころにまた呼びかけてくる。

 大きくなるにつれ、この声の事は人に話すべきではないということも理解してきた。そのことを聞かされた大人は大抵、驚いたような、気味悪そうな表情を浮かべるからだ。


 それでも祖父にだけは話した。祖父、蒼月正成あおつきまさなりは真剣な表情で淑音の話を聞いていた。何かを感じいったように正成は言葉を詰まらせたが、淑音にはどうしてかわからなかった。ただ、気味悪がっているわけではない、ということはわかった。正成にその理由を最期まで聞けなかったのは、今も心残りでもある。


 さて、その声突然、これまでになく頭の中で強く響くようになった。囁くようだった声が、頭の中で大声で叫びだした感じだ。

 それで突き動かされるように屋敷を飛び出し、気がつけばこの洞窟の前にたどり着いていた。


 声は洞窟の奥に行けと導いているようだった。

 なにか良からぬものが、わたしを呼んでいるのではないか。淑音は躊躇する。淑音自身、幽霊や化け物の存在を信じてはいなかったが、不安になるのも無理はない。

 とはいえ、これまでずっと淑音を呼んでいた声だ、不思議な信頼感のようなものがあった。


──例えこの先が地獄だったとしても、今よりはじゃないかな。


 そう思い直して、洞窟の中に足を踏み入れた。


 ぐちゃ。踏み出した一歩目を泥の塊が迎えた。最悪の出迎えである。

 中は思っていた以上にぬかるんでいて、思わず足をとられそうになるほどだ。

 それに湿った空気が充満していた。やけにかび臭いし、暗闇の奥に光るふたつの目が淑音をじっと見ていた。


──コウモリ……。


 不気味な暗闇の生物に思わず息を飲んだが、淑音はまた一歩、また一歩と暗闇に進んでいった。

 吐き気がしていた。


──この洞窟のせいじゃない。


 淑音は自分にこびり付いた匂いのせいだと思った。何度も顔の周りを拭ったが、鉄のような匂いは取れそうもない。


 暗闇は深い。身体を包み込んで、自分の手足さえ、そこにあるかどうか見えなくしてしまう。

 そのせいで何度か硬い岩に身を打ちつけたが、どうにか奥へと進んでいった。


 10分ほど暗闇と格闘していると、すっと空気が変化したのがわかった。外が近い。

 目を凝らすと視線の先、洞窟の奥の方から真っ白な光が差し込んでいる。光を目指して、淑音は駆けだした。


 瞬間、目が眩む。


 しばらくすると、ぼんやりながらも目が機能を取り戻してきた。薄茶色い何かが見える。

 淑音は今まで満足に吸えなかった分、新鮮な空気を肺に取り込んだ。思ったより熱い空気を吸い込んでせき込む。

 そこは全く予想外の場所だった。


「嘘。何これ……?」


 見渡す限りの砂漠。砂漠。砂漠──


 背後を振り向いても、たった今抜けてきたはずの洞窟が影も形もない。背後も正面の景色と同様で、淑音は広い砂漠にぽつりと佇んでいた。

 唖然とした。何が起こったのかと、きょろきょろと辺りを見渡す。戻ろうにも、洞窟はもはやない。


 声を信頼してここまで来たが、全くの想定外。

 話によく聞く「異世界」という言葉が脳裏をかすめたが、あまりの状況の変化に対応できない。


 それよりも。ガイドなしで砂漠をさまよったところで、どこにもたどり着けはしない。この過酷な環境は大勢の人間を熱射病と脱水症状で葬り去ってきたという。

 一番生存確率が高いのは、その場に立ち止まって救助を待つことだが、ここにそもそも救助は来るわけがなかった。

 このままでは淑音は干からびてしまうだろう。


「呼んでおいて、これはひどい……」


 不満の声に誰が答えるわけでもない。最悪なことに声は洞窟を抜けてから、ぱったりと止んでいた。

 それでも、生き残るには歩き始めるしかない。淑音は仕方なく歩みを進めたが、身体は暑さで汗だらけになっているし、強い日差しのせいで頭痛がしてきた。

 これはまずいのではないか、と思う。まさか、こんなにも唐突に自分が死の淵に追いやられるなんて想像もしたこともなかった。


──これは罰なのかな?


 暑さにやられた思考でぼんやりと考える。家族を見捨てた自分への罰。

 それが灼熱に焼かれてミイラになることであるなら、それは重すぎる罰なのではないか。

 そんなことを考えているうちに、意識が朦朧としてきた。


──あ……。まずい……。これは本当に……。


 淑音は気を失った。


 淑音の幸運は、奴隷商の一隊の旅のルート上に倒れたことであり、それが不運の始まりでもあった。

 奴隷商たちは見慣れぬ衣装に身を包んだ珍客を、見かけることになる。


「なんだ? こんなとこで倒れてるなんて」


「連れていこう。思わぬ拾い物になるかもしれねえ」


 淑音はそんな会話が意識の片隅で聞こえた気がした。

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