第36話 迎え(★)
力強く大地を駆る馬蹄の音が、鬱蒼と生い茂る薄暗い森に木霊する。
後方へ奔り抜ける枝葉が頬や腕をかすめピリリと痛みを覚えるが、全力で疾走する今、手綱を離すわけにはいかない。
「殿下、間もなく森を抜けます! さすれば王都までは残すところ二刻ほどかと!」
「そうか! ではこのまま抜けるぞ!」
ヒューからの報告にそう返答したギルバートは、更に速度をあげ、追従する従者二人もそれに倣った。
*
フィンが孤児院から養子に出されたとメアリーに教えられた日の翌日、ギルバートたちは入手した情報を逸早く持ち帰るため、ヒューが用意した馬で王都へ戻ることになった。
『バアサン、世話になったな』
『まったくだよ。こんだけ世話してやったんだから、恩返しに絶対にフィンを助けておくれよ』
『ああ。必ず』
ギルバートの正体を知った後も、ジューンの態度は変わらなかった。さすが魔女と呼ばれるだけあって人の世の
とにかく一刻も早く城に戻り、ギルバートの父であり国王でもあるヴォルターに報告しなければと気持ちが急く。等閑に別れの挨拶を交わして馬に跨ると、三人の青年は即座に走り出した。
事の仔細を知れば決断が早く行動が早いヴォルターならば、きっとすぐに捜査に乗り出し、フィンを救出できるはずだ。
王弟であるアデルオルト公爵の息女の可能性が高いフィンは、ヴォルターにとっても大切な姪かもしれないのだから。
ヒューが連れてきた馬はスタミナに特化した軍馬で、最小限の休息だけで四日はかかる道程をほぼ半分の二日半で駆け抜けた。
「すまないな。到着したらいくらでも休ませてやるから、今は頑張ってくれっ」
轡の端から泡を吹きながらも決して速度を落とさず、懸命に全力で走り続ける馬に労いを込めて言葉を掛けると、ギルバートの心情が伝わったのか、馬はブルルッと微かに鼻を鳴らし、その直後ぐんっとスピードを増した。
正直なところ、馬だけでなく彼らの疲労も限界に達している。仮眠程度の睡眠時間と固く味気ない携帯食は、僅かに体力を回復するだけで精神力を大いに削る。しかし幼い頃に、叔父とその妻が子供を攫われ嘆き悲しむ姿を記憶しているギルバートとしては、今無理をしても絶対にフィンを取り戻したいのだ。
そしてそれはフィンのためでもある。物心つく以前に親元から離され、つらく厳しい日々を耐えてきた彼女だからこそ、本来の居場所に連れ帰り、これまでの分も優しく暖かな家族と共に幸せになるべきだと思う。
幾重にも重なり行く手を遮る草木を掻き分け、一心不乱に走り続ける三人の視界から突如として木々が消え、緑豊かな農地が広がる雄大な景色が現れた。
馬の足下は雑草だらけの獣道から、次第に農作業用の荷車の轍が残る凸凹の農道へと変わり、やがて整備された広い公道に変わった。
手綱を握る手をはじめ、鐙を踏みしめる両脚やずっと前傾の姿勢でいた背中も腹筋も…いやそれらすべてを含んだ全身が、極度の疲労からくる痛みを通り越し、今や痺れて感覚を失いつつある。気を付けないと汗ばんだ手のひらから綱が抜けてしまいそうで、ギルバートは歯を食いしばり更に固く手綱を握った。
気力だけで走り続けた彼らが、王都を囲む防壁が見える距離に近づいた頃、前方に横たわる河の向こう側、石橋を前にして居並ぶ騎馬隊に気が付き、漸く馬の脚を止めた。
「どう! どうどう! …っ、ダヴィデ!」
興奮冷めやらぬ様子の馬を宥めながら騎馬隊を率いる隊長の名を叫ぶと、先頭で馬に跨っていた大柄な男がするりと下馬し、恭しく膝を折り頭を垂れた。
「ギルバート殿下! ご無事のご様子にこのダヴィデ、心より安堵いたしました!」
「うむ、出迎えご苦労! して、報せは届いているのか?」
「は!
馬を降りたギルバートは騎士に手綱を預け、ダヴィデの報告を聞きながら進む。騎馬隊の後方に用意されていた、王家の紋章が刻まれた馬車に乗り込もうとすると、既にそこには意外な人物が乗車していた。
「ギル、長旅ご苦労だったね」
「叔父上!」
ヴォルターの弟であり、フィンの父親かもしれないアデルオルト公爵当主のゼオン・アデルオルトが、穏やかに微笑みを浮かべてギルバートを待っていたのだ。
半ば諦めていた娘の消息を聞かされ、居ても立っても居られなかったのだろう。
「お帰りギルバート。聞いたよ、良い報せをありがとう」
ヴォルターによく似た、しかしヴォルターよりもやや線が細く繊細な印象の彼は、旅に出る前に挨拶した時よりも顔色が悪く、目の下にクマが色濃くある。が、フィンと同じ紫紺の暁色に金の光彩を放つ双眸は、希望と期待に満ちて光輝いている。
普段は一分の隙もなくパリッと身嗜みに気を遣う紳士然としているゼオンだが、今向かい合う彼はところどころ服装や髪に乱れが見て取れ、柔らかな微笑に反し心中に余裕がないことが察せられた。
ギルバートが馬車に乗り込み、ゼオンの向かい側の席に腰を下ろすと、ダヴィデによってドアが閉められ、馬車は緩やかに走り出した。
「叔父上、先に謝罪をさせてください。フィリアと思しき少女を易々と連れ去られてしまい、申し訳ございません」
「君が謝る必要はないよ。それどころか生きていることがわかったんだ。よくやってくれたと褒めたいくらいだよ」
十一年も前に連れ去られて以来、どんなに賊の正体を探っても、賊の侵入を手引きしたとみられる侍女の行方を調べても、結局何もわからずじまいだった。
実際に赤子を抱えて逃げたらしい侍女の足取りを追跡しても、郊外の森に逃げ込んだところまでしかわからず、積もった雪の上に残る獣の足跡に踏み荒らされた大量の血だまりと、切り裂かれた産着の端切れや柔らかな銀髪が最悪の状況を想像させ、誰もが生存は絶望だと思っていたのだ。
「しかし…」
生存していたことは確かに喜ばしい。だがフィンの生きてきた環境はとても過酷だった。そして更に非道な状況に貶められようとしている。
ガリガリに痩せこけ、傷痕だらけのフィンを知るギルバートは、ギリと唇を噛みしめ、マメで固くなった両手を強く握り締めた。
「そう自分を責めないでほしい。一通り報告を受けているから、君が何に心を痛めているかはわかっているよ。だが、そんな境遇に耐えてきたあの子だからこそ、きっと今も無事でいてくれると信じられるんだ」
ゼオンはそう言うと、腕を伸ばしてギルバートの髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
「なに、既に敵の正体も居場所も見当はついている。背後で牛耳るクソジジィは厄介だが、黙らせるためのネタはいくらでもあるんだ。———すぐに取り戻してみせるさ」
まるで自分に言い聞かせているようなゼオンの言葉に、ギルバートは引き締めた表情で頷いて同意を示した。
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