第16話 孤児院のお客様
「ねえ、フィン。あなたはクラリスのことを覚えているかしら?」
ひそかに落胆していたフィンは唐突な質問に顔を上げる。
コリンナが告げた名前は、六年ほど前までいたシスター見習いだった若い女性のものだ。若いと言っても二十代半ばくらいなのだが、フィンが物心ついた時には既に孤児院にいて子供たちのお世話を手伝っていたので、お姉さん的な存在だと思っていた。
コリンナの意図が量れず首を傾げると、彼女は視線をシワくちゃの自分の手に移した。
「彼女からね、手紙が届いたの。ここを去ってから初めてよ。書き出しはね、急に出て行ったことを何度も何度も謝っていたわ」
「…」
「酷く落ち込んで、暫く知人のお宅に籠っていたようだけど、良いご縁があって、今では結婚して子供もいるんですって」
幸せそうでよかったと呟くコリンナに、フィンも同じように頷いた。
クラリスはなぜか他の子供たちよりもフィンを目にかけてくれて、いつもそばにいてくれた。
絵本を読んだり、散歩をしたり…みんなが一緒だったけど、いつでも一番近い場所にいるのはフィンだった。
母のように慕っていた彼女、けれどある日とつぜん暇を告げると、まるで逃げ出すように孤児院を出て行ってしまったのだ。
『フィン、わたしはどうしても、やらなければならないことができてしまいました。これから先、もしかしたらあなたに苦難が降りかかるかもしれませんが、どうか、どうか、心を強く持ってお待ちくださいませ』
『まつ? なにを?』
皆が寝静まる深夜、揺り起こされて眠気眼のフィンは、しょぼしょぼする目をこすりながら訊き返したが、クラリスは結局答えてはくれなかった。
睡魔に負けて再び眠りの園に舞い戻ったが、次に目が覚めた朝にはもう、クラリスの姿はなかったのだ。
それから少ししてアマンダが赴任してきて、少しずつフィンを取り巻く環境が変わっていったので、今名前が出されるまでクラリスのことをすっかり忘れてしまっていた。
「院長先生、なぜクラリスさんの話を?」
もう六年近く前に去った人物の話をし出した理由を問うと、コリンナは静かに首を横に振った。
「理由はないの。ただフィンに知ってほしかったのよ。クラリスも悩んだり苦しんだりしながら、それでも幸せを掴んだことを」
なんとなく言いたいことがわかった。コリンナはフィンが孤児院の中で孤立し、冷遇されているのを知っているのだろう。知っていて、今は辛くともいずれ幸せが訪れる日が来るから乗り越えろと言いたいのかもしれない。
「でもわたしの幸せはまだ先なんです。成人してここを出て、ジューンさんに弟子にしてもらえるまでまだ三年もある…」
いつもは必死に我慢しているけれど、やっぱり独りは寂しいし、折檻は怖くて痛くて辛い。
アマンダが来たばかりの頃、フィンがしたほんのちょっとのミスで彼女は激昂し、仕置きとして熱せられた暖炉の火掻き棒で左肩の後ろを焼かれたことがあった。顔のすぐ近くのせいでジュウッと皮膚が焦げる音と肉が焼ける嫌な臭いが間近にし、脳天を突くほどの激痛に見舞われた。
あまりの苦痛に喘ぎながら転げまわるフィンを、アマンダは顔色一つ変えずただじっと眺めていたのを覚えている。
あれから彼女はフィンにとって恐怖の対象となり、彼女に感化された子供たちが揃ってフィンを仲間はずれにするようになっていったのだ。
俯いたままのフィンの手をコリンナは優しく握り、涙が止まるまで、ベンチで二人夏の風の心地を感じていた。
*
「「「ようこそおいでくださいました、領主様!」」」
入念な打ち合わせと練習の成果を大いに発揮した、いつもよりも着飾った子供たちによる歓迎の言葉を受け、金髪に青い瞳の壮年の男性マック・フォルトオーナ伯爵とその友人だという男性は、満足そうに目を細めて頷いた。
「熱烈な歓迎をありがとう。今日は友人を連れてきたんだ。紹介しよう、あー…えっと、ジョージだ」
ジョージとだけ紹介された男性は一歩前に出ると、子供たちの顔をぐるりと一瞥し、にっこりと胡散臭い笑顔で挨拶した。
「やあ、こんにちは。私が今日こうして彼に同行してきた理由は、我が家に迎える子を探しに来たからなんだ」
優秀な子供を望んでいるという彼は、見るからに金持ちそうな上等の衣服を身に着け、靴もピカピカに磨かれた革製の物だ。
頭髪と同じ赤茶色の太い眉も口髭も、形よく整えられている。
裕福な家に引き取られるかもしれないと、期待に目を輝かせている子供たちの中、フィンは少し離れた位置で、何の感慨もなく状況を眺めている。
テーブルの上には平素と違ってクロスが掛けられ、大きな子供たちが朝から頑張って焼いたクッキーの盛られた籠が置かれているが、彼らの目には止まらないようだ。
「さあさ、みんな。お客様をいつまでも立たせておいてはいけません。お席に案内して、お茶をお淹れしてちょうだいね」
パンパンとコリンナが手を叩いた合図を皮切りに、生き生きとしたサリアが愛想の良い顔で客人に椅子を勧め、いつも以上におしゃれしたメアリーが孤児院では貴重なお茶を淹れた。
お茶に口を付けたジョージは僅かに顔を顰めると早々にカップを置き、軽く咳払いをしたのち子供たちにいろいろと質問する。普段はどんな風に生活をしているのかとか、なにが得意なのかなど。
楽しそうにワイワイと盛り上がる中、壁際にいたフィンはそっと溜息を吐くと、静かに部屋を出たのだった。
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