とある国の物語

 ――――もしこの話が本当だとしたら、とても素敵なことだと思わない? いつの時代もどこの場所でも、愛しい人がいればそこに幸せはあるのだから。






「――――こうして、姫とその従者の少年は隣の国に逃げ延び、今度はただの村人として末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」


 そう締めくくって隣を見れば、穏やかな寝息をたてている愛しい存在。


 私は布団を愛娘の肩まで引き上げると、そっとベッドから抜け出した。窓から外を見やれば、空には丸い月が浮かんでいる。もう一度愛娘に目をやり、音は乗せずにおやすみと口を動かす。


 部屋を出て音をたてないよう慎重に扉を閉めると、白い月明かりに照らされた部屋を通り抜けもう一つの扉を開ける。かちゃりと思いのほか大きく響いた音に気が付いたのか、もう一人の愛しい存在がパソコンから視線を上げ、私に微笑みかけた。


「ちぃは寝たのか」


 その問いかけにうなずいて答えると、私はいそいそと旦那様を押しのけてベッドの中に潜り込む。旦那様はそんな私に苦笑すると、黙って布団をめくりあげ、私をそっと包み込んだ。


「あったかい」


 季節は冬。冷たい外気を愛しい人たちの温もりでしのぐことは、私にとってこのうえない喜びである。思わず表情を緩める私の頭をぽんぽんと軽くたたき、旦那様はパソコンの電源を落とすと私の横に体を横たえた。


 その時にサイドテーブルに置いた本に気が付いたのだろう、旦那様は小さく笑いをこぼして言った。


「本当にちぃもお前も、あの話が好きだよな」


 こくりと首を縦に振る。何も知らないからこそひたむきに世界を愛する少女と、何も知らない少女を必死に守ろうとする少年の話。彼らが困難を潜り抜け、互いを想いあい、必死に相手の幸せを願う姿は儚くも尊い姿勢に思えた。


 もうすぐ六歳になる娘の千冬ちふゆも、この物語の魅力に引き込まれた一人だった。


 寝る前のほんの少しの時間、私は千冬にこの物語を読み聞かせる。そうすることで私自身も、遠い物語の世界に身を沈めることが出来る。


「なぁ、姫香ひめか。この物語って、本当にあったことだと思うか?」


 私はびっくりして思わず上体を起こし、上から旦那様の顔を見下ろした。旦那様がこの物語について話すなんて初めてのことだった。しかも本当にあったと思うか、なんて。


 旦那様は私の反応に恥ずかしくなったのか、わずかに顔を赤らめて、ふいと顔を逸らした。こちらを見ないまま肩をぐいぐいと押してくるので、私は大人しくまた布団に身を横たえた。


「本当にあったか、ですか。どうでしょうね。本当にあったかもしれないし、ただの夢物語かもしれない。でも、どこかでこんな素敵な恋をした人たちがいたとしたら、それはそれで素敵なことだと思いませんか?」


 旦那様の背中にそう話しかければ、ゆっくりとこちらに向き直る旦那様。


「お前、よくそんなことが恥ずかしげもなく言えるな」


 感心しているのか、呆れているのかよく分からない口調で言う旦那様。ただまた頭を撫でてくれる手のひらが心地よくて、私はうっとりと目を細める。


「俺たちは幸せだよな。自分が住んでいるところが襲われることなんてないし、戦争に巻き込まれることもない。まして隣国に逃げるような事態になるなんて考えもつかない」


 私の頭を撫でていた手をおろし、旦那様は私をぎゅっと抱きしめた。


「困難といえば、お前を嫁にもらう時にお義父さんに殴られたくらいか」


 くすくすと笑う吐息が私の髪を揺らし、それが少しくすぐったい。


「お前を嫁にもらって、ちぃが生まれて、俺って本当に幸せ者だよな」


 そういう旦那様の声は本当に幸せそうで、嬉しくなった私は旦那様にぎゅっと抱きついた。そんな私の頭をまた優しく撫でて、旦那様はほうっと息をつく。


「なぁ、姫香。そろそろちぃにも弟か妹が欲しいと思わないか?」


 窓の外には白い月明かりに照らされたビルが立ち並んでいる。物語の世界とは似ても似つかない私たちの世界。だけど……


「そうですね、弘史ひろふみさん」


 愛しい人がいれば、そこに幸せがあることに変わりはない。


 物語の中で必死に生きた少年と少女も、愛しい人のそばできっと同じような幸せをつかんだのだろう。


 彼らと私たちは身分も、文化も、場所も、時代も、何一つ同じところなんてないけれど、ただひたすらに愛しい人を想う心は同じ。


 遠い国の物語に思いを馳せながら、私はぎゅっと愛しい人を抱きしめた。

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とある国の話 咲坂 美織 @miori_S

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