3.とある副官の話
――――今度こそ、託された思いを背負ってお前の大切な人を守りきる。またいつかお前と再会できることを願って。
俺が仕えている
坊ちゃんの名前は貴史。当時たったの十二歳。
俺は正直不貞腐れた。十四歳という異例の若さで暁人様の副官として抜擢され、それに見合う努力の積み重ねと才能を持ち合せていると自負していたからだ。俺を暁人様の傍から引き離すためなのかと疑いもした。
そんなこんなで俺が貴史に対して良い感情を持っているわけもなく、不満いっぱいの顔のまま俺は貴史と初めて顔を合わせた。
「あなたが冬吾さんですね。初めまして。貴史と申します」
穏やかな声とは裏腹に、切羽詰まった顔。俺は我が目を疑った。これが若干十二歳の少年がする顔なのであろうかと。
「あ、ああ。よ、よろしく」
握手を交わしながら俺は思った。こいつはどれほどの闇を抱えているのだろうか。わずか十二歳の少年よりもずっとちっぽけな自分を恥じた。
初めて顔を合わせたその日、俺は生涯をかけてこの少年のために尽くしていくことを決めた。貴史は自分の人生を賭してもいいと思えるほどの主であった。
それからというもの、俺と貴史はしょっちゅう行動を共にした。
剣の訓練に兵法の勉強。俺もかなり出来る方だと思っていたが、貴史は別格だった。あっという間に俺を追い抜き、俺が教える時間はいつの間にか二人で学ぶ時間になっていた。
僅か一年。それが、貴史が俺に並ぶのに要した時間だった。
「ふぅ……。降参です、冬吾さん。やっぱり剣は冬吾さんに敵わないなぁ」
「当たり前だ。これだけの体格差があって、それでも互角に持ちこむお前のが怖いわ」
貴史との稽古は楽しかった。まるで兄弟が出来たみたいに俺たちは打ち解けた。
そんな貴史が必ず一日に数時間、俺から離れる時間があった。毎日欠かさずだ。
不思議に思った俺はある日貴史に尋ねてみた。
「お前、稽古以外の時間はどうしてるんだよ」
「……藤宮の屋敷に行っています」
「藤宮? 藤宮って、暁人様の婚約者候補の姫さんがいるっていうあの藤宮か?」
貴史は気まずげに俺から視線を逸らし、こくりと頷く。
「なんでまたそんな大貴族のところに……」
貴史はしばらく言い淀んでいたが、やがて何か決意したように俺を見た。
「僕は、藤宮の姫の世話をさせてもらっています。何故総大将の跡取りがそんなことを、と思われるかもしれませんが、もう七年になります」
「七年って、お前……」
「長い片思い、ってやつですよ。永遠に報われることのない、ね」
そう言って自嘲気味に嗤う貴史は、初めて会ったときと同じような闇を抱える表情をしていた。
貴史が抱える闇は深い。俺がその意味に気が付いたのはこの時であったと思う。
結局その後、俺がその話題に触れられるはずもなく、ひたすら貴史と共に訓練と勉学に励み、貴史はたまに訓練を抜け出してどこかへ行ってはすぐに戻ってくるという日々を過ごしていた。
「お前は本当に一途なのか、それともただの馬鹿なのか……」
俺が密かに漏らす溜息は、聡い貴史にはとっくにばれていたに違いない。妙なところで大人な彼の幸せを、俺はいつも願っていた。
こんなにも一途な我が主に報われる日が来ればいい。暁人様も大切だけれど、なぜだか俺はそう思ったんだ。
あれから五年。俺は二十二に、貴史は十八になっていた。短い回想から意識を戻すと、横から声をかけられた。
「なぁ、冬吾。貴史の様子はどうだ」
「貴史様、ですか」
その日は珍しく俺は貴史と離れ、本来の総大将副官としての職務を全うしていた。貴史の叔父である暁人様は戦況を見極めるように戦場を睨みつけ、その精悍な横顔を俺に晒していた。
「貴史様は日々訓練に励み、勉学も怠らずに過ごされています。あれほど完璧な人間は今まで見たことがありません」
「そうか」
暁人様が心なしか嬉しそうに口元を緩める。それは父親としての顔と酷く似ていた。そんな暁人様の様子を見て、俺の口元もつい緩んでしまった。
そのとき、ふと一瞬、違和感を覚えた。心なしか暁人様の顔が強張ったような感じがしたのだ。
どうしたのかと俺が声をかけようとしたとき、暁人様がそれを制するようにして口を開いた。
「来週の初めを貴史の初陣とする。あいつはまだ十八だが立派にやるだろう。お前は一足先に戻り、貴史の準備を手伝ってやれ」
「……了解しました」
なんか嫌だな。不安になるような、落ち着かない感じがする。本音を言えば、この場を離れたくない。離れてはいけないような予感に囚われる。
しかし、総大将である暁人様の命令は絶対。背中を伝う冷や汗を無視して短く了承の意を返した。
俺はその日、暁人様の命を受けて一人夜の闇に紛れて貴史のもとへと戻った。……戻って、しまったんだ。
暁人様の訃報が届いた。
目の前が真っ白になるような気がした。
俺が戦場を離れた数時間後、敵に夜襲を仕掛けられたらしい。
嫌な予感はしていたんだ。もし、俺がまだそこに残っていたら、なんて思いが頭をよぎるが、俺に何かできたとは思えない。むしろ足手まといになっていただろう。
俺は、暁人様に守られたんだ。
「ちくしょ……。畜生……!!」
自室で報告を受けた俺は、文机を殴りながら涙を流す。
尊敬していた。大好きだった。
年の離れた兄のように慕っていた。
武官を排出する名家の息子というコンプレックスを抱え、軍の中でも肩肘を張ってがむしゃらに生きていた俺を拾い上げて傍に置いてくれた暁人様。
それがお前の実力だ、と俺個人を認めてくれた暁人様。
何よりも、大事にしていた貴史を俺に任せてくれた。
今なら分かる、それほどまでの信頼を寄せてくれていたのに。俺は何も出来なかった。
戦況が思わしくないのは分かっていた。暁人様の異変も感じていた。それらを承知で俺は
「冬吾さん……」
かたんと音がして顔を上げると、部屋の入口に貴史が立っていた。
「悪い、貴史。暁人様の最期、見届けられなかった」
ここに来る前に報告を受けていたのだろう、貴史の顔は強張っていた。
「いえ、冬吾さんが無事で良かったです」
ほら、まただ。
なんでお前はそんなに一人で闇を抱えようとする。
「貴史、無理に笑わなくてもいいんだぞ」
泣きながら言えば、歪な笑いを浮かべたままの貴史の頬に涙がつたった。
翌週、予定通り貴史の初陣が決まった。しかし、総大将の後継者としてではなく総大将として、だが。
命を受けたその足で貴史はどこかへと向かう。
「おい、貴史。どこ行くんだよ」
「藤宮」
短く答える貴史は酷く痛ましくて、俺は見ていることが出来なかった。この小さな身体でいったいどれほどの覚悟を背負っているのだろうか。
痛々しい貴史の後姿を一度は見送り、だけどやっぱり放っておくことなど出来なくて、俺は藤宮の屋敷の門の前で貴史を待つことにする。しばらく待つと、俯いたままの貴史が屋敷から出てきた。
「貴史、もういいのか」
「ああ」
言葉少なに唇を噛み締める貴史を見て、俺は咄嗟にその頭を引き寄せた。
「お前、まだ十八だぞ。いいんだよ、今だけは」
そう言いながらも、俺の手は情けなく震えていた。
暁人様に続いて貴史までも死んでしまうかもしれない。それも近いうちに。
その事実が、俺をみっともなく震えさせた。二十二年間生きて、生まれて初めて失う恐怖を覚えた。
「……冬吾さん。僕、死にたくない。死にたくないよ」
腕の中で静かに泣く貴史を見て、こんなときでも子供になりきれない貴史が哀れで、悲しくて、俺は静かに涙を流した。
きっと、こうして涙を流すこともこれが最後になるのだろう。俺も貴史も、そういう覚悟で生きている。
『生きたい』
なぁ、そう思うことは罪なのか?
「皆、今日を乗り切ればきっと道は開ける。最後まで諦めないでほしい」
そう言って、ぐるりと俺たちの顔を見回す貴史。彼が幼少期から努力を続けていることを知っている俺たちは彼を頂点として違和感なく受け入れる。
俺は知っている。貴史が次々と命を落としていく兵たちを思って頭を悩ませ、悔み、自身を責めていることを。
俺だけじゃない。みんなが知っている。だからこそ、みんな奴についていく。
みんなが持ち場に散らばる中、俺はそっと貴史の隣に立った。
「冬吾さん、僕がもしもの時は……」
貴史が俺を見上げながら言う。
貴史が誰よりも、何よりも大切にしているもの。
一番信頼しているのであろう俺に頼むほどの人。
藤宮の姫。
貴史とは六年の付き合いだ。それくらいすぐに思い当たる。
「姫を頼んだ、だろ。分かってるよ。けど……」
俺よりも、貴史が最後まで彼女を守りあげてほしい。
俺の思いが分かっていて、それでも拒むように貴史は微笑んだ。
貴史の覚悟が見えてそれ以上は何も言えず、俺は地平線へと目をやる。
日が昇れば、この場は地獄へと化すだろう。
しかし、きっとそうなる前に貴史は俺を藤宮の姫の元へとやる。
暁人様が俺を貴史の元へとやったように。
悔しくて、情けなくて、やりきれなくて、俺は唇を噛み締める。隣に佇む少年は、じっと視線を地平線に固定したまま動かない。俺はまた大切な人を守れないのか。守らせてもらえないのか。
俺が一番の幸せを願っているのはお前なのに。
――――恨みますよ、総大将。
総大将が貴史を指すのか、それとも彼の叔父を指すのかは自分でもよく分からなかった。
日が、昇る。
眩しさに目を細める間もなく、目の前は地獄へと化す。
響き渡る怒号と、悲鳴。
次々と吹き出し、広がり、大地を染め上げる紅。
何度見ても、聞いても、慣れることなどない。
悔しくて悔しくて悔しくて、泣きそうになる自分を叱咤して歯を食いしばる。
一番辛いのは、貴史だ。
「総大将殿、ご覚悟を!!」
とうとう目の前まで迫った敵の前に、俺が抜くよりも早く刀を抜いた貴史が立つ。
「冬吾さん、姫を頼みました」
「貴史、俺は……」
「行け、冬吾!!」
滅多に怒鳴ることがない貴史の怒鳴り声を聞いて、俺は言葉を飲み込む。
その声の裏に潜む、悔しさが分かってしまう。
俺はすぐさま背後に繋がれている馬に飛び乗り、都へと駆ける。
――――やっぱりお前を恨むよ、貴史。
貴史が斬り伏せたのだろう敵の断末魔の声を背中で聞いて、俺はひたすら馬を走らせた。
「絶対、絶対に生きてろよな……!」
限りなく望みが薄いことを、しかし願うことを止められずに俺は馬を走らせる。一人、走らせる。
途中馬を休ませながら走ること一日、俺は恐ろしく人気のない屋敷の前に立っていた。
酷く立派な屋敷を染める、紅色。
「はは、マジかよ……」
大貴族様は国の滅亡を目前に、一家で心中ですか。
「くそッ! 貴史の思いはどうなるんだよ!!」
まだ一人くらいは生き残っているかもしれない。微かな希望を胸に俺は藤宮邸へと乗りこむ。
一つ一つ襖を開け放ってはその中の悲惨さにこみあげてくるものを飲み込む。あまりの無責任さに湧き上がっていた怒りも、鬱々とした絶望感にとって代わっていく。
希望が潰え、絶望に押し潰されそうになったとき、ふと俺は汚れ一つない廊下に気がついた。
どこもかしこも紅色に染まる屋敷の中で、唯一綺麗な木目を晒している廊下。
「離れか」
思いついた瞬間、俺は駆けだしていた。
案の定、そこには汚れ一つない見事な襖。
「……ここか!!」
手をかけ、躊躇なく開け放つ。
目の前には、白い肌に黒髪黒眼の儚げで美しい少女がいた。
俺は吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。
見知らぬ男が来たというのに、少女はただきょとんとこちらを見上げている。この少女が藤宮の姫で間違いないだろう。
「俺は、奴に頼まれたんだ」
気がつけば、俺は何かに言い訳でもするかのようにそう呟いていた。
姫はしばらく俺の目をじっと見ていたが、やがてこちらに手を伸ばしてきた。
俺はしっかりとその体を抱きしめると、そのまま持ち上げた。
不思議そうな顔をしていた姫だったが、すぐに俺にしっかりと掴まった。
「そう、そうやって掴まっていろ」
俺は姫をしっかりと抱えると部屋を後にした。来た道を戻り、外へと出る。
姫は俺の腕の中でじっと外を見つめ、そして目を輝かせた。
――――ああ、そうか。この目を貴史は守りたかったんだ。
なんのしがらみもなく、ただ純粋に世界を美しいと見る姫。
無知で無邪気でなんと憐れなことか。
しかし、この世界のしがらみにどっぷりとはまりこんだ俺たちには、姫はとても美しく見えるんだ。
自分が酷く、汚く思えた。
姫をしっかりと抱え直し、歩き出す。
行くあてなどどこにもない。しかし、このままここにいれば湧きあがる感情に飲みこまれてしまうと思った。
俺は預かるだけだ。貴史が来るまで、姫を無事に預かるだけだ。
必死にそう自分に言い聞かせながら、俺は紅色の屋敷を後にした。
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