2.とある従者の話

 ――――君と、君の世界を守りたい。そして最後のその時まで、君を想おう。覚悟はとうに決めたんだ。






「次の作戦は貴史たかふみ、お前が指揮を執れ」

「……了解しました」


 一週間前の戦で総大将の地位をもっていた叔父上が亡くなり、とうとう僕に出撃命令が下された。次の総大将として。


 確かに感じるのは戦前の不思議な高揚感。そして、それをはるかに上回る絶望。


 ――――これでもう最後になるかもしれない。


 彼女の部屋へと向かう僕の瞼の裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。胸に引き裂かれるような痛みを感じ、僕は思わず微かな呻き声をあげた。








 彼女と僕が出会ったのは、僕が六歳、彼女が五歳のときだった。


 彼女はこの国の貴族である藤宮の姫であり、総大将である僕の叔父上の婚約者候補として名前が挙がっていた。


 その日、僕は叔父上の後継者として叔父上と姫の顔合わせに参加した。叔父上の背後に静かに座り、じっと待っていた。


 二人で待つこと数分、向かい側の襖が開いて、恰幅の良い父親らしき壮年の男性の後ろから小さな少女が見えた。真っ白い肌に、真っ黒な髪。髪と同じく真っ黒な瞳はどこを見るでもなく、ぼうっとこちらを眺めていた。


 その時、僕は思った。ああ、この少女を守ってあげたい。


 気がついたら、姫が叔父上と正式な婚約を結ぶまでの十数年の間、姫の世話をさせてほしいと頭を下げていた。姫はそんな僕をぼうっと見ていた。








 短い回想から意識を戻し、僕は目の前の襖に手をかける。あれから十二年が経った。


 僕は姫の身の回りの世話を一手に引き受ける傍ら、必死で訓練を積み、勉学に励んだ。全ては姫の世界を守るため。無知な彼女の世界を壊さないため。


『お前は本当に一途なのか、それともただ馬鹿なのか……』


 鬼気迫る勢いで日々を過ごす僕に、叔父上の副官であると同時に四つ年上の教育係である冬吾とうごはいつも溜息をこぼしていた。彼は今では僕のよき理解者である。


 襖を開く。そこにはいつものように、静かに布団に横たわる姫がいた。僕がたてた音に気がついたのか、ゆっくりと瞼を持ち上げ、無表情の顔をこちらに向ける。


 姫を怖がらせないよう、驚かせないよう気をつけながらいつものように自らの表情を消し、ただ淡々と姫の身の回りの世話をした。


 こみあげてくる何かに必死で蓋をして、ただ、淡々と。機械的ですらあるその手の動きには、いつもより丁寧を心がける。


 そして姫のその艶やかで美しい黒髪を櫛で梳いているとき、我が耳を疑うことが起きた。


「外の世界では、何が起きているのでしょうか」


 初めて聞いた、姫の声。それは少し掠れていて、しかし少女らしい高い声だった。僕は驚きと嬉しさに目をみはる。けれど、もう二度と彼女の声を聞くことはないだろう。


 僕は悔しさと悲しみに目を伏せる。なんてこの世は残酷なんだろう。


「姫、知らないほうがいいと思われることも、外の世界にはございます」


 僕の声は、自分で思っていたよりも重く、悲しげに響いた。


「……ごめん、なさい」


 瞳を伏せた彼女の後姿はとても痛々しくて、僕はそっと目を逸らした。

違う。僕がさせたかったのはこんな顔じゃない。自分の無力さがただただ恨めしい。


 悔しさでゆがみそうになる顔を必死で抑え、世話を終えた姫をそっと横たわらせると肩まで布団を引き上げる。姫が瞳を閉じ、規則的な寝息をたてるまで見守る。姫が眠りについたことを確認し、退出した。


 襖を閉める間際、僕はもう一度だけ振り返って彼女の姿を目に焼き付ける。彼女は僕が唯一愛した人。たとえこれが最後だとしても、僕は絶対に忘れない。


「姫、あなただけはお元気で」


 今度こそ、僕は襖を閉めた。


 廊下を渡り、旦那様に短く暇を告げてから、僕は藤宮の立派な屋敷を出る。門のところまで歩くと、そこには僕の教育係がいた。


「貴史、もういいのか」


「ああ」


 言葉少なに唇を噛み締める僕を見て、冬吾は無言で僕の頭を引き寄せた。僕の心情なんて、彼にはお見通しなんだろう。


「お前、まだ十八だぞ。いいんだよ、今だけは」


 そう言いながら僕の頭を優しく撫でる冬吾の手は、微かに震えていた。


 今、この国は滅亡の一歩手前まで追い詰められている。次の作戦も、負け戦になるだろう。勝ち目など到底ない、ただ無駄に命を散らすだけの。

 それでも、僕は叔父上の跡を継いで、最後まで戦場に立たなければならない。最期のその時までこの国を、彼女を守らなければならない。


それが、僕に課された使命。そして、自身の誇りに懸けた誓い。だけど……


「……冬吾さん。僕、死にたくない。死にたくないよ」


 彼女を置いて、いきたくない。


この願いは、そんなにもありえないことなのだろうか。僕の願いはこのただ一つだというのに、どうして叶えてもらえないのだろうか。


ただ、彼女のそばにいたい。そう思わずにはいられない自分の気持ちに強く蓋をした。


 僕は静かに泣いた。


 冬吾も、静かに涙を流していた。








「皆、今日を乗り切ればきっと道は開ける。最後まで諦めないでほしい」


 ぐるりと自分よりも年上の男たちの顔を眺める。叔父上と共に闘ってきた彼らの顔はやつれ、疲労の色を浮かべている。しかし、それでも僕の顔をしっかりと見てうなずく。


 みんな薄々感じているのだろう。今日で、この戦も終わることを。


 持ち場に散る彼らを見送り、傍らに控える冬吾を見上げた。戦場に着いて三日。想像以上に酷かった。


 負け戦どころではない。このままでは全滅だ。一人でも多くの兵を生き長らえさせるにはどうすればいいのか必死に考えた。けれど、彼らは僕の手から凄まじい勢いで零れ落ちていく。


 そんな状況でも僕の言葉に力強く頷き返し、最後の抵抗を試みてくれる彼ら。僕は彼らに何をしてやれるんだろう。いや、何も出来ることなどない。虚しさが胸に広がる。


 悔し涙を必死にこらえて、僕は口を開く。


「冬吾さん、僕がもしもの時は……」


「姫を頼んだ、だろ。分かってるよ。けど……」


 僕はなんとかにっこり微笑みを作り、その先の言葉を拒絶する。冬吾は辛そうに顔を歪めていた。


 冬吾と二人、まだ暗い地平線を見やる。日が昇れば、この地は自国の兵の血によって紅色に染まる。そんな未来がくることは想像に難くない。


 僕は責任を取らなければならない。負けると分かっていながら、兵たちを戦いに送りだすことに。覚悟はとうに決めた。地平線を睨みつけ、静かにその時を待つ。


 日が、昇った。


 瞬間、湧きあがる怒声と、悲鳴。


 目の前には、目を背けたくなるような光景が広がる。


 斬りつけ、斬りつけられ、湧きあがる紅。


 死んでいく。人が、死んでいく。


 唇を噛み締めながら、じっとその光景を見つめる。―――これを強いたのは、僕だ。


「総大将殿、ご覚悟を!!」


 とうとう、ここまで敵が来たらしい。


 僕は腰に差した刀を抜きながら、冬吾に声をかける。


「冬吾さん、姫を頼みました」


「貴史、俺は……!」


「行け、冬吾!!」


 滅多に声を張り上げない僕の怒鳴り声に、ぐっと言葉を飲み込むような気配がした。


 そのまま遠ざかる馬の蹄の音を背後に聞きながら、敵の刀を受ける。


「簡単に、死んでたまるか、よッ!」


 自分の倍近くある敵の身体を押し返し、そのまま斬り伏せる。すぐに視線を前へと戻し、次々と押し寄せる敵を睨みつけた。


「ここは、通さねえよ」


 冬吾が立ち去った道の前に陣取り、敵を威圧する。


 冬吾ならきっと姫のことを助けてくれる。僕が一番信頼しているやつなんだから。


 だから今、僕はここを退くわけにはいかない。彼女を、国を、未来を、こんなやつらに渡すわけにはいかない。


 次々と襲い来る刃の嵐をかいくぐり、敵の急所へと自身の刀を滑らせる。その身を紅色に染め上げ、瞳から感情の色を消す。


 もっと、もっと、もっと僕は強くなりたい。みんなを守りたい。……彼女を、守りたい。


 敵の刃が横腹を抉る。


 跳ね返す力の反動を使ってなんとか敵との距離をとった。


 ――――嫌だ。死にたくない。


 一瞬そんな思いがよぎるも、すぐに打ち払う。


 なあ、貴史。とっくに覚悟は決めただろう?


「……ああ。やってやるさ」


 刀を握り直し、すっと敵を見据える。


 僕の命が尽きる、その時まで。


 僕はずっと、君のことを想おう―――

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