とある国の話
咲坂 美織
本編
1.とある姫君の話
――――彼女の世界は何も変わらない。彼と彼女の二人だけの世界。もしそんな世界に変化が訪れたとき、そこにいるのは彼女と……
気がつけば、彼女の世界には彼女と彼の二人しかいなかった。
彼女と彼の関係は、主とその従者。彼は彼女を『ヒメ』と呼んだ。
従者である彼は当然、ヒメの身の回りの世話をする。食事も、着替えも、身を清めることすら。
しかしそれは、彼らにとって幼少のころから行われた当然のことであった。
彼女は何も知らない。
季節が移り変わることも、ときを知らせる鳥のさえずりも、満開に咲き誇る花すらも。
彼はそんな彼女を憐れみ、そして愛していた。しかし彼は従者。何も出来ることはない。ただひたすらに彼女の世話をした。
何も知らない彼女は感情の抜け落ちた人形のように、その身体の全てを彼に預ける。彼もまた感情の抜け落ちた機械のように、彼女の身体を丁寧に清めた。
何も変わらない時はいつの間にか幾重にも積み重なって、二人の身体は大きくなった。それでも二人の関係は何も変わらなかった。
変わることを知らない彼女と、変わることを望まない彼。知識の差はあれど、この世界を二人だけで完結させているところは全く同じであった。
それは突然だった。
かたりと外へと繋がる唯一の戸が開いた。
その戸が開くのは彼が訪れるときのみ。彼女は彼が来たのかと俯かせていたその顔を上げた。
しかし、そこにいたのは見知らぬヒト。
そのとき初めて彼女は怖れという感情を覚えた。
「姫さま、お父君がお呼びでございます」
そのヒトは何も答えない彼女にはお構いなしで彼女の腕を掴むと、力任せに引っ張り上げた。
一度もそのような扱いをされたことがない彼女は為す術もなく、茫然としてただただそのヒトに引きずられていくほかなかった。
引きずられていった先には一つの扉。恐怖に怯える彼女を嘲笑うかのように、その扉は軽々と開かれた。
「旦那さま、お連れいたしました」
開けた視界の先。
そこにはまた、彼女の知らない人。
顔も
彼女は自分のチチオヤも、チチオヤという存在の意味も知らなかった。
未知の世界は彼女を否応なしにすくませる。
「お前を嫁がせる。来週には出ていけ」
ため息交じりの言葉に、彼女はびくりと身体を竦ませた。
チチオヤの言葉も、『トツガセル』という意味も、彼女には何も分からなかった。ただ、ひとつだけ分かったのは、彼女のもとへはもう二度と彼は訪れないということ。無知の彼女に為す術はない。
それから彼女には見知らぬヒトが世話につく。
それは起きるごとに入れ替わり、同じ顔を見ることはない。あのチチオヤと名乗ったヒトすらも見ることはなかった。
彼女は生まれて初めて願った。もう一度、彼に会いたい。彼女もまた、彼に恋をしていた。
辺りはにわかに騒がしくなる。しかし、その喧噪も彼女にとっては遠い世界。
彼のいない世界ならいっそ滅んでしまえ。無知な彼女は無邪気に願う。
「ヒメ」
それはまた唐突だった。
何度も聞きたいと願ったあの声。
訪れるヒト以外は何も変化のない彼女の世界で起きた、小さな奇跡。
彼女は生まれて初めて涙を流した。
自分の瞳からこぼれ落ちるその液体を不思議に思い、そっと指で触れてみる。生温かい温度に首を傾げた。指先についた液体を舐めてみれば、それは少ししょっぱかった。
「ヒメのご婚約者である私の叔父が、先日戦死したとの知らせがありました。心よりお悔やみ申し上げます」
黙って頭を下げる彼の姿に、また一粒こぼれた涙。それは失った悲しみか、それとも手にした喜びなのか。彼女は何も分からなかった。
それからはまた彼が彼女のもとへ訪れた。
しばらく見なかった彼は以前と変わらず、また感情を失った機械のように彼女の世話をする。彼女もまた、以前と同じように感情を失った人形のごとく彼へ身体を預ける。
それは何度も何度も繰り返された行為で、何も変わらない彼女の世界にはふさわしいと、彼女自身がそう思った。
たんたんと繰り返される行為。変化など何も訪れない。
いつしか彼女の彼への思いは膨れ上がり、何かを変えたいと思った。しかしそれと同時に一切の変化を恐れた。彼を二度と失いたくはない。
変化への恐怖は彼女に感情を与え、やがて無知であることへの恐怖を抱かせるようになった。
――――そして、彼女は自ら変化を起こす。
「外の世界では、何が起きているのでしょうか」
初めて出した自分の声は、彼のものとは全く違い、どこか掠れていて何故か高い。
彼女が発した初めての声に、彼は驚いて目を瞠ると、彼は悲しげに瞳を伏せた。
「ヒメ、知らないほうがいいと思われることも、外の世界にはございます」
悲しげに伏せられた瞳と、悲しげに響く彼の声。それが何を意味するのかは、やはり彼女に分かるはずがなかった。
「……ごめん、なさい」
彼女もまた、悲しげに瞳を伏せた。
次に彼女が目を覚ました時、彼はそこにいなかった。いくら待っても、その固く閉じられた戸は開かない。
彼女は責めた。あの時変化をもたらした自分を。変化さえ起きなければ、彼と離れることはなかったかもしれないのに。
彼女は待った。ずっと、ずっと待っていた。
何も分からないまま、何も知ることがないまま。
誰も訪れない彼女の世界に、一人ぽつんと座っている。
彼女は弱っていった。しかし、彼女の中に外へ出るという選択肢はなかった。外の世界がもたらしたのは純粋なる恐怖。そして、彼女が最も望まない変化だった。だから、彼女は外の世界を遮断する。
不意に聞こえたのは荒々しく地を踏む音。
閉じていた目をはっと開く。
期待に高鳴った胸の鼓動は、次の瞬間、絶望へとすり替わる。
「……ここか!!」
聞き覚えのない声。しかし、あれほど固く閉じられていた戸は、その人によっていとも簡単に開け放たれた。
久しぶりに見る、刺すようにまぶしい光を背に負って、その人はそこに立っていた。
だんだんと強い光になれた彼女の瞳が捉えたのは、彼と同じ年頃の、しかし彼よりもずっと大きい体つきの青年。
彼女が不思議そうに見上げる中、青年は一歩、彼女に近づいた。
「俺は、奴に頼まれたんだ」
青年の言う『奴』が誰を指すのかはよく分からなかったけど、彼と似たような瞳をもつ青年に、彼女は彼を重ねていた。
自然と彼女は、青年へと手を伸ばした。
「今度は俺が、奴の代わりに君を守るから」
青年は彼女をしっかりと抱きしめると、軽々と持ち上げた。彼女は不思議そうに青年を見て、それからしっかりと掴まった。
「そう、そうやって掴まっていろ」
無知な彼女には、その優しげな言葉と、その優しげな顔がどことなく安堵を覚えるものに思われた。
青年は、軽々と彼女の世界を飛び越える。
彼女が初めて見る世界。一度訪れたチチオヤのいる扉を通り過ぎ、紅に染まった扉を開け放つ。
初めて見る、世界。
全てが紅色に染まった、未知の世界。
知るものは何もなく、動くものも何もない。
ただ、彼女にはその紅色の世界がとても綺麗に思われた。
何も言葉を発しず、ただその世界に瞳を輝かせる彼女を見て、青年は恋に落ちた。青年は、彼女ほど綺麗なものは見たことがなかった。自分の薄汚れたその手が、酷く汚らしいものに思えた。
彼は大切に、大切に彼女を抱えなおす。これは奴からの預かりもの。必死にそう自分に言い聞かせ、青年は一歩を踏み出す。彼女もまた、青年に身を預けた。青年にはその重みがひどく心地いいものに感じられた。
――――紅色が、遠ざかる。
なぜかそれが彼女には少し寂しく思えた。
赤く染まりかけた光の中、二つの影が消えていく。
彼らがどこへ向かっているのか、彼ら自身も分からなかった。
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