第2話 初めまして、訪問者。

 次の瞬間、背中で重たい扉がギィイと古臭い音を立てて開く音がした。振り向くと、若い男女がその手をしっかりと繋いで、息を切らして入ってくるところだった。女の飲んだ息が、この狭い教会を包み込むように響いた。こんなにも分かりやすく、絶望の中に見つけた希望に縋り付こうとする息の飲み方をする人間を、間近で見ることができるとは。幾度となく見た光景だ。一つも思い出せないが、確かにあの場にあったものだ。

「ああ神父様!証人になってください!」

甲高い声が、壁を震わせて空気を震わせて、私たちの耳に入ってくる。言葉を介してしか届けられないその願いは、直接この耳に届くのではなく、残念ながら空気を舐めることでしかこちらに飛んでくることができない。彼女のきめ細かい周波数が、この目に見えるようだった。鼓膜がそれを受け取り、電気信号に変える。それらすべての動作が暗黙のうちに行われているのだった。

 震える空気の匂いを嗅ぎながら、瞬間、思い出した記憶のなかに君がいる。(君はいつも私の記憶にいる)。息が上がった二人の天使が、林を抜けるところだ。草のせいで足は血だらけで、四方八方から怒号が飛んでいて、空は焼けるように赤かった。天使の中で一番美しかった8枚の美しい翼を血に染め上げた君と、君に手を引かれてこの世界まで走ってきた私。自分の翼だけは真っ白に保ったまま、走ってきた私のことを。踏みつけた道中の子羊。神の怒りに震えた空気は、波打って私の頬を傷つけた。瞼を閉じると、ありありと浮かんでくるあの日。彼らの最悪の一日のことを、私はよく覚えている。忘れることは、ない。

「いいだろう」

私が言うと、入り口を塞いだままの彼は首を傾げた。彼らから見て証人らしいのは全く目の前の牧師だろう。私は彼らにとって、残念ながら得体の知れない男でしかない。

《私たちに似ているな》

彼は返事をしなかった。目の前にいる彼らを、ただじっと見つめていた。その冷たい瞳の炎は完全に消えていて、ただじっと、神の赦しを待っているように見えた。

目の前の訪問者に視線を戻す。彼らには、彼は牧師に見えるんだろう。それらしい格好をした牧師に。教会を覆い隠すほど大きく広げた翼を、彼らはそのせいが終わるまで感じ取ることもない。得体のしれないそのグロテスクに変形した頭蓋骨を、目にすることがない。それはある種の幸運である。自分たちの考えも及ばないものを見なくていい、知らなくていい状況にいることは、誰が何と言おうと幸運である。それについて考えなくていい。君はそれを知らない間、自分のことだけ考えていればいいのだ。


怯えた目をした彼らは、こちらが可哀そうに思うくらい戸惑っている。なるほど賢い愚か者たちは、異形をその目で観測していないのに、私たちから感じる奇妙な空気感を敏感に感じ取っているのだ。その直感は正しいし、しかし同時にどこまでも間違っている。君たちに手を伸ばしているこの不審な男に運命を投げ出すことを躊躇う彼らを、残念に思った。かわいそうな迷い人。私はこれでもこれでも天使なのだが。しかしまあ、そうだね。用心に越したことはないのだろうし、彼らの人生は、一度きりなのだ。

突然、ゆらりと揺れる大きな影が、彼らの体を覆い隠した。日がもうだいぶ傾いていたのだろうか。それの影は教会の中心まで続き、私の足元でゆらゆらと踊った。

「ふむ」

「きゃあ!」

女の甲高い声が響く。分厚い壁は、確かに外の声を漏らさない。だからこそ、必要以上に悲痛な声が教会の中を埋め尽くした。

神の前に勢いよく失礼した黒服の男達によって、頼りない小柄な体が2体、ずるずると運び出されていく。ガタイがいい6人の男は、申し訳程度の抵抗をした彼をぶん殴って、腕を捻り上げた。何を言っているのかわからない低い声が、教会の外で、世界の中心みたいに響き渡る。彼らは泣きながら出ていった。確かに泣いていた。しかし彼らは、私たちに助けを求めなかった。それだけが唯一、彼らの救いである。彼らは、彼らの愛を自らのものにした。それがどれだけ手の中になかったとしても彼らの愛は、あの瞬間――もちろんこれは残酷なことだが――彼らの中にあった。重たい扉が、埃を舞い上がらせながら閉じる。誰が出て行った後でも、閉じる扉は全く同じ音がするものだ。バタン。この建物の中は再び静寂に包まれた。視界に入る光が揺れる。神に祈る猶予もないまま、彼らは運命に絡み取られていった。

「おいで」

彼が私を手招く。その手を取って彼の翼の中に包み込まれると、はっきりとした”崩壊”の合図が鳴り響いた。次の瞬間に教会は崩れ去り、私達の足元は更地になった。瓦礫の一つもない。私がここまで歩いてきた道も、今日出発した、ここから少し遠くのあの村も存在しない。海の匂いも、ここではしなかった。しかし深い霧の、森のそばだった。

翼から私を開放するときに、彼は一度だけ首を振り、「失礼だったな」と静かに言った。一連の流れに対する感想にしては、上質なものであるだろう。

彼の足が、確信をもって草の中を進んでいく。それの隣を歩きながら、深い霧の中、彼らに思いを馳せる。それがどれだけ退屈な行為であるのか知っていても、私にはそうする他なかった。ちらりと横目で見る彼の表情はつまらなそうで、頭の中で何を思っているのかは分からなかった。もしくは、何も考えていなかったかもしれない。それは私の知ることではない。

 あそこに訪れたのは、愛を抱えて走ってきた、幼い青年たちだった。あの場にあったのは、礼を失しても、叶えたい願いだった。ぽっかり空いた胸が締め付けられる。その感覚に、かつて失った心臓が戻ってきたのかと触ってみたが、いやしかし何度確認してみても、この胸の中心はぽっかりと穴が開いている。彼が私の手を取って走り出したあの瞬間に、この世で最も愛していた天使が、泣きながら奪った私の心臓。彼は、今もあれを壊さないでいる。壊されていたら、この愚かな天使めはとっくに死んでいるのだ。かわいそうな弟。私は確かにこの世で最も君を愛していた。君の涙を振り払って、ぽっかり空いた胸を押さえて、私たちはあの草原を転がるように走って、この世界に堕ちてきたのだ。君の悲痛な叫び声も、かつての同僚の苦しそうな顔も、私はあの場所にすべて置き去りにしてきてしまったね。心臓を奪われたおかげで、この世界で私の感情が揺さぶられることなどない。だからだろうか。今自分が感じている胸が締め付けられるこの感覚を、とても懐かしいと感じた。訪問者の涙を思い出す。必死に走ってきたんだろう。迷い混んだ先が私達だったなんて。しかし彼らの顔は、次の瞬間、掻き消えてしまった。さようなら、子羊。君たちのことを思い出すことは、きっともう二度とないと確信している。聞きなれた彼の声が、大気を揺らす。

《帰ろう》

どこに?いや、どこかにではない。そんな質問に意味はない。そしてまた、目的もない。

《彷徨うために。》

君とここを、彷徨うために。

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