天使と、

maria :-)

第1話 天使の恋は、何か特別なものかね?

「透明人間になりたい」

 朝食後のオレンジにかじりつきながらキッチンテーブルでそう言った友人がこの家に帰ってこなくなってから、もう6日が経とうとしていた。6日も会わなかったら、彼の姿が変わっていても分からないかもしれない。あの一言はふらりと出て行くには奇妙な言伝だった。奇妙な言伝だな、と思ったが言わなかった。言う必要がなかったから。あの日私は確かに、玄関から出て行く君の背中を見送って、裏庭に羊の乳を取りに行ったのだった。あの乳は、今日あたりにはチーズになるかもしれない。いや、気が早いか。そんなことを考えるともなく考えた後、いつものように質素な朝食を取って、簡単な手紙を認めて封をした。

 さて、この封筒を出しに行くがてら散歩でもしようかな。郵便屋の近所のリンゴが熟していたら持って帰ってこよう。きっとあの木の持ち主である彼女は快い顔をして差し出してくれる。ポドリャスニクに袖を通して、家の火の元を確認する。今朝お湯を沸かす時に使った火種は「心配しないでくれ」と涼しい顔をして、私からプイと顔を背けた。重い扉に鍵を掛けると、少し遅い朝の風が頬を撫でる。行ってくるよ、私の羊、ニワトリ、一粒の麦が死んだことで結んだ多くの実たち。2,3歩行ったところに置いてあるだけの、頼りない小さな木の柵を潜り抜ける。空気はいつも同じように澄んでいる。毎日変わらないことなのに、毎日、それが特別のことのように感じてしまう。

 彼のいない6日間この町に流れていたのは、別になんでもない、ただの日常だった。特筆すべきことのない辺鄙な片田舎には、大抵の場合事件もなければ、面白おかしいこともない。曲がり角のパン屋の女はいつも不機嫌そうな顔をしているし、仕立て屋の男は退屈そうに新聞を読んでいる。道を少し行けばギルドがあり、人々はそこで愛着のない毎日を生き延びるために必死で働いた。働かなければ生きていけず、人に好かれなければ食べていけない。隣人はにこやかにお互いを監視し、美人は妬まれ愚図は虐げられる。人間関係は網のように目を張り、時に鎖のように彼の首を締め上げた。そんな中でも光は惜しみ無く地上に降り注ぎ、植物はその恩恵を受けてのびのびと育つ。私たちが一歩一歩踏みしめて歩くこの雑草も、紛れもなく確かに生命であった。人はそれらを食べて飢えを凌ぎ、また同時に退屈そうな顔をしてそれを踏みにじって歩いた。誰かが死ぬことでしか生きられない世界で、私たちは今日を生きていることを互いに喜んだ。幸運の連続で、私たちは神の恩恵を信じた。おめでとう、朝日。そして同じように眩しい君。飽きもせず毎日視界に入ってくる”実体”に愛を見出すことが、それ程までに大事なことだろうか?わざとらしくのんびりと歩いている道中で耳に飛び込んできた井戸端会議の悩み事が、頭の中にこだまする。嘆かわしいことだ。ねえ、君はどう思う。30年妻と寄り添うことが、彼にとってどうしてそんなに難しいことだったのだろうね?話題の中心の奥方は涙を浮かべて女たちの同情を誘っている。それを後目に道を進んでいく男を、町の人間は確かに”紳士”と呼んだのだ。

 日を浴びながら道を行く。道端の花々は水を分けてもらったのか瑞々しく輝いていた。彼らにとっては幸運のことなのだろう。羨ましいだろうという顔をして雑草が胸を張っているが、人の形をしているこちらからしたらさして羨ましくもない。まあ、中に何も入れていない状態で屋根裏で埃を被っている鳥籠よりは、君のほうが幾分風を知っているだろうが。


「こんにちは」

郵便物を出すとき、局員のふくよかな彼女ににこりとほほ笑まれた。

「こんにちは」

他愛もない話は盛り上がることもなければ、ぞんざいに扱われるわけでもない。静かな心地のいい高揚感の後、彼女はまた私の眼を見てほほ笑んだ。美しい青い瞳は、世界の愛を一つに詰め込んだ輝き方をしていた。薄く開いた唇が、上品な発音をこの部屋に表出する。

「良い一日を」

今日の天候で、いい一日にならないほうが難しいだろう。その言葉を受け取ったのに、彼女に渡すための花を持っていなかったことを私は少しだけ残念に思った。

「貴方も、また。」


外に出て、見知った道を歩く。前述したリンゴの実は、まだまだ青かった。たまたま彼女が外に出ていて、私を見つけて駆け寄ってきてくる。麦わら帽子を布で縛り付けた、健康的な小麦色の彼女。その屈託のない笑顔を受け取って、無下にできる人間はこの世界にいない。

「もしよかったら、これ、お持ちになって」

差し出してくれた瓶詰めのジャムを受け取り、手の甲にキスしようとしたら、土が付いているからと断られてしまった。お礼を言って彼女と別れたあと、途中で貧しい老婆がいたからそれをあげた。全ては神の御心のままに。

 少し足を延ばして、海に出る。いつ見ても大きな船なんて来ていない、栄えることを知らないこの町。足があるから遠くに行けるし、知恵があるから繁栄するのだと叫ぶ人間ほど必要のないことに拘るものだな。すれ違う時に陽気に「愛よ、永遠なれ!」と叫んだ漁師の愛の深さたるや。感嘆のため息は海風に攫われて世界を知るだろう。彼の愛に、私たちは決して敵わないのだ。しかしそれを恥じることはない。恥というのはつまらない。それは娯楽にもならない、退屈な強がり。

 いま踏みしめて歩いている、足元の道に思いを馳せる。この道もまた、なんでもない道であった。生き物に共通している通り、夢を見ることは無限で、私達が生涯にたどり着ける果ては有限である。



 帰り道で何の気なしにふらりと立ち寄った小さな教会で、私は彼を見つけた。修道服を来て、祭壇に跪く彼を。

「ここにいたのか。」

大工が早起きだったのか聖祭者の趣味なのか、この協会は早朝の光を計算して設計されていた。この時間では、もうあの美しい光線を拝めないだろう。残念なことだ。建物に取り付けられた数えるほどの窓から、朝日の余力のような光が差し込む。色とりどりのステンドグラスが弱々しい光で、なんとか真っ白の壁に色彩を与えていた。それが美しくて、世界を包み込むす全ての光がこの色ならいいのに、とぼんやりと思った。君を包む光がこれくらい弱々しかったら、人が強く生きられないことに悲観的にならずに済むだろうに。そう考えながら、彼の背中を見つめて長椅子の間をゆっくりと歩いていく。壁に反響するように、細い女の声が懐かしい響きで懺悔しなさいと言った。この世に忘れ去られた言語は、歌うよりも美しく、怒りよりも危うい響きを持っている。それは氷細工よりも繊細で、共感よりもつかみどころがない。

(懺悔しなさい)

声は、確かにこの建物の中に響いていた。はて、私はなにか罪を持ち合わせてきただろうか。ポケットを漁ってもなにも入っていなくて、少しがっかりした。彼は、真っ黒な修道服を床に広げてピクリとも動かずにいた。聞こえなかったんだろうか。指を鳴らして彼のほうに小鳥を飛ばすと、それは彼の肩に止まり、左耳を齧った。

「恋をしたんだ。聖母に」

大きな体をぐらりと揺らして、片足ずつ踏みしめ、彼が立ち上がる。真っ赤な絨毯が敷かれた彼までの一本道は、こんな辺鄙な片田舎の教会に似つかわしくない。彼は私に向き直り悪戯っぽく唇を尖らせてみて、鳥の鳴き真似を披露した。似てるねえ。喉に鳥でも飼っているみたいだ。気を良くした彼の喉元の小鳥は、だんだんと大群になっていく。魔法の様に全ての鳴き声と共鳴して、一匹の小鳥は今やジャングルにいた。おやおや、という顔をして彼を見ると、彼の肩には見たこともないカラフルな鳥がいる。私を見る彼の瞳は優しく、慈悲深い。(ほらご覧。こんな鳥、見たことあるかい?)(私の友人が作った鳥だ)(ああ、そうだったね)。彼の言葉はいつだって懐かしさを持ってきてくれる。私が軽く手を振ると、彼は歌うのをやめた。あるべきものはあるべきところに返してあげないといけないね。向き直った彼をまじまじと見る。見慣れたいつもの、風に煽られてすぐボサボサになる柔らかい髪はしっかりと固められていて、恋に落ちた女性に対して失礼のない格好だった。ゆっくり瞬きをしてみせた彼に、ふと懐かしい童話を思い出した。開いた彼の瞼の奥。ぱちりと正面で私を見据えたのは、ずいぶん久しぶりの瞳。やあ、会いたかったよ。彼の燃えるような赤い瞳が、きらりと鈍い光を帯びた。


 にっこりと笑って見せた彼の口が、次の瞬間みるみるうちに醜く広がっていく。大きな口から生えてくる、顔の半分ほどはあるだろう鋭い牙。皮を突き破ってくる音と共に頭から羊の角が渦を巻いて、まるで悪魔のようだ。おっと、すまない。そうか君は悪魔なのか。(わざとらしく驚いて見せるなよ)とこちらを見る彼に(天使だったのに、天使に恋をするからだ)という顔をして見せると、彼は肩を竦めた。そう。あの出来事は、全くもって君だけが悪かったわけではなかった。

 天使の私の手を引いて、地上に堕ちてきた君。私はいまだに天使なのに、君は天の裁きを受けて悪魔になった。

(そんなことを気にする君でもないが)

そんなつまらないことを議論の場に持ち上げてくる程、何かに執着できる訳じゃない。そうやって生きるには、私たちは長く生きすぎた。君たちほどの年月しか生きていなければ簡単だったかもしれないね。おや、おや、怒らないでくれよ。私たちはこれから先の、途方もない年月だって知らなければならない。この地上が迎える最後のその瞬間まで、だ。案外それは、すぐかもしれないが。

 大きくなった筋肉が、修道服の中に押し込められてる。豊満な羽根をこさえた翼が、それを広げるには狭すぎる教会の中で2,3度泳いだ。肩を少し窮屈そうに回す君。ほら、悪魔が修道服を着るなんて、そんな慣れないことするもんじゃあないよ。

(もともと、私たちはゆったりした布一枚しか体に巻き付けてこなかったのだ)


《なぁ、私はどうすれば良いと思う》

彼の、昔よりもオクターブ低い声が響いて、教会の壁に少しだけひびが入る。多分、君は教会にとって招かれざる客だから、外に出た方がいいんじゃないかな?目の前のピエタに一瞬だけ視線を動かせて、彼は私を見た。肩を竦めて、ゆっくりと首を振る。その恋は圧倒的に叶わないからね。のんびり言ってのけると、彼は寂しそうに頷いて、正面の十字を見上げた。目が焼けちゃうんじゃないかい。大丈夫かな。

「問題ない」

醜い顔をした彼が、かつての優しい瞳で私に言った。

「もう、とっくに燃えている」

困ったな。頬をポリポリ掻く私に、彼は気づかないふりをしてみせて、なんでもないように続けた。

「君の瞳を見た瞬間から、私の魂は太陽の隣にある」

あの草原にあの日に吹いた風が、また私の頬を撫でた。本当に君は、そういうことばかり言葉にする。

頷くこともなく流れるように目を逸らした私。愛を感じるのは、君の鼻息でも十分だ。この世界の大気には何の影響も与えない、1m先にだって届かないその微かな、微かな鼻息だけで、それだけで、十分。

「いや、多すぎる。」

彼は少し笑って、「それは困るな。」と言った。




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