第3話 感覚と感情だけが、気まぐれを愛せるのだ。
そのまま彼の隣について霧の中を、どこを目指すわけでもなく歩いていると、目の前に洞窟がでてきた。あまりに大きなその洞窟に、見かけたからという簡単な理由で入ってみる。洞窟なんていうものは、大抵の場合入ってみない方が良かった。誰かの隠したかった何かが、出てくることの方が多い。空気のこもったこの狭い洞穴の中には、不自然なくらいクリアに水の滴り落ちる音が響いている。足が踏みしめる小石たち。彼の底の厚いブーツは,この足場の悪い窪を歩くのに全く向いていた。
「む」
耳を澄ませると、何かが聞こえる。水滴が水溜まりを跳ねる音ではない。自然界では(特にこんな辺鄙な洞窟の中では)聞かないだろう低い音が、私たちの表皮をビリビリと撫でた。「何かいるだろうな」と言った彼に、「何かいるだろう」と返す。真っ暗な洞窟だった。彼が「光あれ」と言うと、光があった。見えるようになった壁は、なんてことない、むき出しのつまらない岩壁を一度見て、また正面に目を戻す。どうやらここには人間はあまり入り込まなかったらしい。壁画のない洞窟は、往々にして退屈だった。うねうねと入り組んだ洞窟の中をゆっくり進んでいくと、奥の方で何かが動く気配があった。何か、大きなものが動く気配が。
少し狭くなった道を、導かれるように沿って進む。カーブしたそこを進むと、開けた場所に出た。途端に、熱風がすり抜ける。粘り気のある、異臭を放った熱風だった。
「おやおや」
彼の背中からひょいと顔をずらして、ここに広がる事象を確認する。
「これはこれは」
熱い風の奥にいたのは、盲目のドラゴン。彼が近づいていく。ドラゴンは何回か威嚇するように呻いたあと、静かになった。彼はそんな事お構いなしに
「目はどうした」
と言った。
《…あげたんだ。いらなかったから》
巨体に似合わない弱々しい声が呟いた。ふうん。しかし私たちは知っていた。物には、常に対価が伴うことを。何をもらった代わりに、奪われたんだい?フイと見上げると、彼の角に小さなミモザが巻き付いていた。遠い昔に水を奪われた今やカラカラになったかつての小さな花は、彼の巻き起こす風に煽られてそよそよと揺れている。
「いい趣味だな」
彼がにやりと笑う。鋭い牙が露になった。
《代わりに奪った》
「ほう」
少女の、「秘密の恋」を?
「そりゃいいな」
彼がゆっくりと頷いた。小さな恋を奪うなんて…。私は目の前の禍々しいドラゴンをじっくりと眺める。なるほど、災いの象徴がしそうなことだ。
《雨の日に、雨から逃げてきた女がいた》
彼が語り始めると、少女が現れた。彼女はびしょぬれで、小さなミモザの花束を持っている。しかしどこか様子がおかしい。彼女は、壁に身を任せて歩いた。
《光を知らない女だ。神父との逢瀬だった》
思わず横を見ると、彼は(私じゃないよ、失礼な)という顔をした。いやいや、一応確認したまでじゃあないか。あまりに君がやりそうなことだから。
『誰かいるの?』
彼女はまだあの壁にしがみついている。そのブロンドの美しい髪が揺れ、ビクッと肩が跳ねた後、彼女はゆっくりとそこに座り込んだ。恐怖からではないだろう。あの日、彼がそう指示した。
懐かしさだろうか。彼の頭上でミモザが揺れる。死んでいるのに、あの小さな頼りない花はまだそこにある。
(秘密の恋、か)
あのミモザは、未だ主人が死んだことを信じていないんだろうか。まだ、そのメッセージを神父に伝えようと待っているのだろうか。
いや、違うな。あのか弱いミモザはすぐにあそこから落ちてしまっても構わないはずだ。主人を失った花ほどか弱いものはなかった。でもまだあそこについている。あの花は、新しい雇い主を持っているということか。秘密の恋を胸に抱いた──例えばかなうはずが愛のに人間に恋をした火竜の様に──新しい雇い主を。私は彼を見た。そのごつごつした皮が、呼吸に合わせてうねうねと動く──ははあ、君。さては惚れたな。
彼女が笑う。不安に覆われていた彼女の顔が、みるみるうちに打ち解けたものになっていった。彼女の手元のミモザも、懐かしい思い出のこの瞬間はまだ生きていた。この時はまだ、あのミモザは彼女の恋のものだった。しかしあそこで枯れてなおしがみ付いているあのミモザは、彼への呪いだった。彼女を食らってなお、抱いている彼の恋のためにあそこにいる。
愚かな火竜の鋭利な爪の先には、白いワンピースの切れ端があった。彼女を手放すのが惜しかったのか。君の恋にとりついたミモザは、君を赦さない。
『優しい人。貴方、ずっとここに住んでいるの?』
少女の声が響く。彼は、彼女に自分を触らせなかった。自分が何者であるか、教えなかった。
『私、目が見えたらよかった』
透き通るような肌の無垢な少女は、神父を待っていた。
《光あれ》
次の瞬間、優しい少女の笑顔が醜く歪んだ。彼女が光を得たのだ。洞窟に悲鳴が響く。この世で、恐れるべき死の恐怖に出会った人間の悲鳴だ。甲高いその声は、洞窟を揺らす。もう少し高かったら崩れただろう。
光を手に入れた彼女は、恐怖から逃げ出そうとする。彼女のミモザを置き去りにして。今やもう、穏やかな少女はいなかった。残酷な現実から逃げ出そうとする人だった。彼女が、この現実を「残酷だ」と評価した。見える前も見えてなお、彼はずっと彼であるのに。舞台に、神父が走り込んできた。慌てた様子の彼が、彼女を案ずる言葉を吐きながら現実に出会った。こんにちは、絶望。
ドラゴンが顔を少しずらしたとき、口から指輪が転がり落ちた。おや、それは神父の指に嵌っていたものだ。彼女のものになる予定だったものだろう。転がったその指輪は、彼の底の厚いブーツにぶつかって止まった。体を折って彼が拾い、指に嵌める。
「少しでかいな」
そう呟いて、彼が指を弾いた。指輪は火花を上げて、役者を連れて消えていった。
目を見えるようにしてからでかい口を開けてバクリ!だなんて、優しくないな。秘密の恋を奪って、その上絶望をあげるなんて。私が言うと、竜はニヤリと笑った。
《永遠になれるだろ》
“永遠”という言葉を、少くともここにいる私達はジョークにできた。ふむ、そうだな。その方法なら永遠になれる。彼女の永遠の存在に。
「ではこれは、私からの贈り物だ」
彼が指を鳴らすと、竜の瞳が再び光を手に入れた。この世で最も美しい宝石の輝き。これを求めて、かつての人類は争いあった歴史がある。ドラゴンは再び、その美しさをその身に宿した。燃えるような美しさは、人を狂わせる。その争いの中で唯一救われるのは、それを知らない人だろう。この物語で言ったら、先述の彼女の様に。醜い竜は、光を手に入れた。彼の光を奪って。巨体は立ち上がり、翼を広げる。洞窟は内側から壊れて、瓦礫を積み上げた。さっきまではキリに包まれていたのに、今やここは雲一つない青空の下だった。久しぶりの外気を胸いっぱいに吸い込んだ後、彼は立派な翼を2,3回はためかせて大空に飛んで行ってしまった。瓦礫はそのまま崩れて砂塵になり風に乗って、土地を巡りだす。彼は服に付いた砂を払い、歩き始めた。
「花の匂いがする」
花をスンスンと鳴らして、彼が言った。
春だからね。私の言葉に、彼が頷く。不便だろう。
「いいや」
そう言って彼は額の眼を開けて、私にウィンクして見せた。
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