第6話 いつか創世記になるもの
「下手したら右手が2本になるとこだ」
乱暴な運転の末に急停車した白いランボルギーニから、初老の牧師が出てきて嘆いた。彼は髪に少し白髪が混じり始めた男性だったが、頬の血色は良く健康そのものだった。若いときから少しも衰えないその鋭い眼光が、彼の目的地を睨みつけた。車高の低い車から這い出てきた高身長の彼に、レモンが飛んでくる。宙を放物運動したそれをパシッと音を立てて華麗に受け止め、彼はサイドミラーの上に繊細なバランスで飾った。ふむ。これでいいだろう。
「さ、出ておいで」
彼がパンッ!と手を叩く。乾いた大きな音が、一瞬にして世界の隅々にまで届いた。彼の命で世界は楽園になり、彼の一言で子羊が飛び出した。
「ああそうだ。昨日から君を作ってたんだったな」
彼は子羊を抱き上げ、確かめた。ずっしりとしたそれは、昨日の設計図のままの質量と骨格を保っている。この楽園には、未だ命がなかった。命あるものは、生まれていなかった。青々と茂る植物も、未だ私のGOが出ていないから永遠にその青さを抱えたまま。こんなにいい天気なのに何かが跳ねていくこともなければ、宙を彩る何かもない。あそこに飾ったレモンだって、放っておいたって鎖はしない。完成していないからだ。
一番最初に作るのは、命が良かった。自ら考え動く、命が。強く握ったら壊れてしまう、私の膝の位置に頭をもたげた命が。
胸の中で、羊がきょろきょろと首を回す。この場所で、一日生きられたなら上出来だろう。所々改良の余地はあるかもしれないが──私には見つけられない──まあそうだな。こんなものだろう。
愛されるような造形、というのはいつだって難しい要求だ。しかしまあ、うん。私は好きかな。君を愛してくれる人も、きっと現れるだろうよ。
首を傾げながら、彼が羊を草原へ放つ。自由と命を同時に得た子羊は跳ねるように芝生を駆けた。子羊が一歩、一歩あるく毎に体が大きくなり、成長していく。やがてそれは大人になり、老体になり、倒れて死んで骨になった。骨は土に還り、彼の魂は天の国に行ってしまった。
「…」
彼が細かく頷いた。まあ、そんなものか。実験としては、「成功」の判を押されるような類のものだろう。この世で初めての命は、創造主の前であっけなく死んだ。この手で生を宿してやった子の死まで見届けられて、私はもちろん幸せ者だ。生まれたから、死んだ。命を宿したから、終わりが訪れた。なるほど、なるほど。
今観測した事象は、果たしてそれだけのことだっただろうか?
後ろ手を組んで、歩き出す。未完成の木は、様々な果物をこさえていた。味は様々で、匂いもそれぞれ違いがあった。私が許可すれば、それは地上に存在することになる。そしてこの楽園の中のそれも、地上に降り立ったそれも、同様にいずれ腐っていくことになる。つやつやの美しい実も、鮮やかに醜い実もあった。その醜さだって、私たちはこの場でもちろん愛していた。これが愛であることを知っていた。だって作り出したのだから。試作品でも、この手に乗せてみれば愛の対象だった。あの身を私は食べないが、ここに訪れる他の天使が食べるだろう。或いは食べない。
歩いていると、木陰からひょいと子供が顔を覗かせた。見覚えのない彼だ。世界を作るための業務を割り振られた新しい天使だろうか。いや、そうは思わない。その背中に、羽根が見えないのだ。天使は全て、その背中に翼を持っていた。しかしいま目の前に佇んだ彼は、どの天使とも違った。大きな黒い瞳の子供。はて、私はこんなもの作ったかな?果てに、彼に命を吹き込んだだろうか?
言ってごらん。君は、どこから来たのかな?
「羊をありがとう」
彼は、小さな声で、しかし私たちの頭の中にこびりついて離れない声で、たった一言そう言った。それだけ言って、小さな四肢を振りかざし走り去って行ってしまった。
ああそうか。紛れもなく、私が彼を作ったのだ。生き物への命の吹き込みのうち最も残酷な方法で、私は彼を生み出してしまった。しかも彼の直接の生みの親は私ではない。あのちっぽけな、この楽園の中でだれも気にも留めないような、愚かな一匹の子羊めだ。
完成させたから。私がそれを完成させたから、彼が生を受けた。その命と、宿命を。
生き物を作るということが、私に与えられた仕事だった。そして生き物は知っての通り、呆気なく死んでしまう。生まれたら、死ぬ。終わりは必ず訪れる。肉体は、限界があるのだ。
全ての事象に神が必要だから、ああ彼はその神になった。彼は世界の終りまで、あるいはその果てまでも、死と添い遂げるだろう。彼は死と、永遠を遂げる。
この世で永遠に死者を抱き続ける、彼の宿命。地上に生きる愛を持った全ての者が、やがて必ず彼を忌み嫌うようになる。運命を受け入れるには、肉体は世界に対して小さすぎる。
足の裏に、小石を感じる。踏みしめて、蹴り上げた。次いで出た呻き声が、私の楽園に少しだけ響いた。この場所に似つかわしくない、愚かな男の醜い嫉妬だ。
(うらやましい!)
うらやましいうらやましいうらやましい!出来ることなら私がそれになりたかった!
跪いて、空を仰ぐ。布越しに、膝に小石が食い込むのを感じた。ああ全能の父!その役職は、私では力不足でしたか。
いやしかし、今となってはもう何もかも遅い。私たちは役目を与えられて生まれてきたのだ。世界を作る役目を持った私は、この役目と添い遂げるしかない。そして最後の日、私も彼の前に跪いて首を垂れるのだろうか。ゆっくり立ち上がって、彼は膝の砂を払う。
酷なことだ。あんな子供に《死》その全てを背負わすとは。
「さて、」
振り向いて、歩き出す。私の天使たちはどうしているだろうか。
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