単純な善悪だけで

『イティラにも分かってほしかったんだ。キトゥハが今の様子を見たらどう思うかってのを』


それは、ウルイにとっては本音だった。


恩人が理不尽に傷付けられたら憤るのは、なるほどそれも当たり前のことなのだろう。


しかし、その憤りが見当違いなものであったら?


ただの勘違いであったら?


それで誰かと諍いになったとして、その<恩人>は本当に喜ぶだろうか? 喜ぶどころか、


『自分の所為でこんなことになってしまった』


と悲しんだりしないだろうか?


ウルイは、イティラよりずっと彼のことを知っている。彼がただの<お人よし>や<臆病者>だから人間との諍いを恐れているなどというわけじゃないことが分かるのだ。


だとしたら、今、自分がするべきことは、イティラの感情を人間に向けさせることじゃない。


この世というのは、単純な善悪だけで動いているわけじゃない。ただの悪人が悪いことをして、善人が悪人を裁いているわけじゃない。結局、立場やその場の<流れ>が誰かにとっては理不尽であったりするだけという話の方がずっと多いのだろう。


『イティラが人間を憎んだりするのを、キトゥハが喜ぶはずがない』


それはただの<綺麗事>じゃない。思い違いや行き違いでことを先走れば結局は自分が損をするという、極めて合理的で打算的な話なのだ。


なるほど、物語的にはその場の感情を優先して<勧善懲悪>的に王子を打ち倒せばスカッとするのかもしれない。けれどそんな簡単な話で済まないからこそ、大変なのではないのか?


キトゥハは娘と孫に、ウルイはイティラに、その大切なことを伝えようとしているのだ。


自分の大切な者達が軽挙妄動によってむざむざ不幸にならないようにしたいから。


「ウルイは、それでいいの……?」


もう感情としては落ち着いてきたものの、それよりはウルイに抱き締められていることの方が動揺が大きいものの、まだまだ未熟なイティラは納得できないことをちゃんと言葉にして、人生の先輩である彼に投げかけた。


するとウルイは、


「ああ…キトゥハが自分でそう決めたのなら、俺は彼を信じたい……」


きっぱりと答えた。


頭に血が上ってたのが収まってきたところに彼にそこまで言われてしまっては、ウルイほどキトゥハのことを知らないイティラにはそれ以上、我を通すことができなかった。


頭ごなしに抑え付けられたわけじゃないというのもある。だからこれ以上は反発する理由もないのだ。


それよりも今は、彼に抱き締められていることを、彼を抱き締めていることを、ただ感じていたかった。


この一時ひとときに酔いしれていたかったのだった。


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