第37話 凍死とか笑えない!?

 一階のエントランスホールからエスカレーターで二階に上がると、暗澹とした静かな世界にライトアップが織り交ぜられて、幻想的な雰囲気を思わせた。まだ時刻が午前の針を指しているからか、休日でもそこまで人が混み合っている様子はない。

 しかしなるほど。僕はパンフレットを見て、祈聖が水族館を勧めてきたのに納得がいった。幼稚園時代にも一度だけこの水族館に遊びに来たことがあり、うろ覚えな記憶を辿りながら周囲を見渡す。


 現在地は南館二階。

 この資料によると、ここのフロアでは全国で二箇所しか展示されていないシャチが見られるらしい。

 天音は早々にシャチを発見すると、「わぁ」と瞳を輝かせて駆け足で展示されている水槽に向かっていく。混み合っていないとはいえ、さすがは看板魚だけありシャチの水槽前は人垣が出来ていた。


 天音を見失わように、僕は彼女の手に自分の手を合わせる。

 人混みに紛れる前に掴めてよかった。

 ――というのは、本音ではなく建前である。

 僕はしどろもどろに言い訳を並べた。


「その、ほら……せっかくのデートだし、逸れると困るから……」


 そ、そう……これは祈聖からのアドバイスだ。

 他意はない。僕が天音と手を繋ぎたかったとか、そういうのはない。

 だから――僕の顔が熱くなってるのだって、きっとなにかの間違いだ。


「な、なんで黙ってるんだよ……」


 かくいう天音も手を握られると同時に、咄嗟に顔を俯けて黙り込んでいた。

 彼女の掻き分けた髪から覗く耳が、真っ赤になっているのに気づく。僕は手繋ぎをしていない方の手で後頭部を掻いて気恥ずかしさを誤魔化した。


「ほら、手を繋ぐくらい、今更だろ……」

「だって、先輩と手を繋ぎながら歩くの、初めてですし……」

「た、確かにそうかも……?」

「逆になんで気づかないんですか、ばか」


 天音は繋いだ手を引いてきた。

 必然的に僕は彼女のそばまで寄せられた。天音は僕の胸板のうずくまると、「ばか」と連呼しながら背中に腕を回してくる。腹部に柔らかい感触が二つ当たりながら、しばらく拘束は続いた。


 行き交う観客に温かい視線を向けられる。

 腕が解かれると、天音は恥じらいを顔に浮かべながら繋いでいた手を一瞬離した。そして指が一本ずつ絡められて、手繋ぎが再構築される。

 これは――いわゆる恋人繋ぎというやつだ。


「えへへ、これで迷子にならないですね」

「そ、そうだな……」


 積極的に主導権を握りに行った僕だったが、結局のところ天音にリードされるという形で帰結した。どう足掻いても天音の後塵を拝するだけなら、いっそのこと諦めてしまったほうが早い。

 どの道、天音のサドスティックな性分は変わらないのだから。

 そして、それはきっと僕も同じで――


「ほらほら、先輩早くシャチを見に行きましょうよ」

「っ……だから胸当たってるんだけど」

「先輩も物分かりが悪いですね。当ててるんですよ〜?」

「それをやめてくれと言ってるんだが!?」

「やだなぁ、先輩も本当は嬉しいくせに」


 ……ソンナコトナイヨ。

 僕はされるがままに、天音の胸の感触を楽しみながらシャチを観覧する。

 正直、この時の僕はあたふたし過ぎて、とりあえずシャチが白黒していたことしか覚えていなかった。





 南館二階で他の水槽も一通り見て回ると、僕たちは三階に上がった。


 依然として手は繋いだままだ。それが顰蹙を買ったのかは定かではないが、時折男性グループの面々から刺々しい視線を投げられたりもした。もちろん、天音がそれを眼中に置くわけもないけれど。元より天音とは毒舌で生意気な生き物なのだ。ただの一般男性如しにどうこうできる相手ではない。


 とはいえ、内面はともかく、まぁ見てくれだけは一級品の天音とデートをしているのだ。内面はともかく、外見上は可愛い奴と手を繋いでいる絵面を目の当たりにして羨む気持ちもわからんではない。内面はともかく、な。


 そう思いながら三階エリアを散策していると、僕は館内でも比較的大きな水槽に目が止まった。


「ほわぁ、大きですねこの魚」

「ええっと……ベルーガって言うのか。別名はシロイルカ、ってことはイルカの仲間なのか? てか、イルカの仲間ならもはやシロイルカが名前でいいだろ」

「正確にはクジラ目の哺乳類らしいですね、ほらここ」


 天音が説明台の一部分に指を向けてそう言う。


「ならシロクジラでよくないか?」

「別にベルーガでもいいじゃないですか。こっちのほうが名前に愛嬌があっていいですよ」

「さいですか。天音にもそれくらいの愛嬌があればいいんだけどな」

「……先輩、よく聞こえなかったんですけど、なんか言いました?」


 天音はニッコリと満面の笑顔を見せつけてくる。

「いや、空耳じゃないか……?」と僕は慌てて答えた。

 こえーよ。このサドスティックモンスターが。


 臆病な僕は内心で愚痴を吐き出していると、天音は前屈みになって「ふむふむ」と説明を読んでいた。人差し指を唇に当てて、納得したように頷いている天音のことを、僕はちょっとだけ可愛いなと思ってしまう。ちょっとだけ。


「ベルーガは北極圏に住んでるらしいですよ」

「お、おう、そうなのか。北極に住んでると体が白くなるのか?」

「どうでしょう? 先輩も試しに北極で生活してみたらどうですか?」

「さっきの、一言一句聞き逃してなかったわけね。死因が凍死とか笑えないぞ……」

「ふん、先輩がデート中に余計なこと言うのが悪いんです」


 悪かったよ……。

 素直に「ごめん」と謝ると、天音は繋いだ手をぎゅっと強く締めてくる。


「特別に許してあげます」

「珍しく優しいな」

「今日だけですから。それに何度も言いますけど、先輩のことまだ許したわけではありませんからね?」

「わかってるよ」


 僕は天音の発言を気に留めることなく微笑んだ。

 本当は心が不安と緊張に板挟みされているけど、それを表には出せない。

 一度出してしまったら、そのまま心の堤防が決壊して、僕は天音に見合わなくなってしまうから。


 自分に言い聞かせるように再確認をする。

 僕たちは三階エリアを十分満喫したところで、連絡通路を渡って北館に移動した――。

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