第167話 感情に折り合いを 前編

 ──パチンという良い音がした。

 私が男性へと差し伸べた手は叩かれ、払いのけられた。一拍置いて手のひらがじんわりと熱を孕み、遅れて痛みがやってくる。

「…………」

 想定外の仕打ちに私は呆然と男性を見下ろしていると、男性は堰を切ったように喋り始めた。

「お前が……! お前が……! お前が……! もっと早く……! 来ていたら……! 彼女は死ななかった……! お前が遅れたせいで彼女が死んだ……! どうしてくれる……!」

 号哭にも似た言い方に私はどのように対処すればいいのか分からず、ただ右から左へと聞き流していると、

「聞いているのか……! この人殺し……!」

 と言ってはいけないことを耳にした。

 次の瞬間、脊髄反射のように私の足が動き、男性の側頭部を蹴り飛ばしていた。

 カメラのシャッターを押して時間が切り取られたように、一瞬だけすべての動きが止まったかと思えば、暴風に薙ぎ倒された木のように男性が横に吹っ飛ばされて倒れ込んだ。

「……なあ……なあ……なんで……そんなこと……言うの……意味が……分からない……あなたは……生き残った……それで……十分……じゃないの……?」

 男性は起き上がろうと地面に手をついて力を入れているようだが、脳震盪を起こしているらしく、うまく力が入らず、起き上がることができない。だからきっとこの男性は私の言葉も理解していないのだろう。

「……あなたは……今……生きている……彼女は……運が悪かった……それだけ……それに…………」

 私は小さく息を吐き、男性のところへつかつかと歩み寄ると、転がっている男性の胸ぐらを掴み、自分のほうへと引き寄せては思い切り顔を近づけて、

「……そんなに……大切なら……お前が……守れば……よかった……お前が……彼女の代わりに……死ねば……よかった……違うか……?」

 と凄んで言った。

「…………」

 男性はなにも言わない。脳震盪の症状はまだあるだろうが、時間経過で治りつつあり、蹴り飛ばされた直後よりかはよくなっているだろうから、私の言葉も理解できるだろう。

「……なあ……違うか……?」

 私は反応を示さない男性に同調を求めるように再度言った。

「…………」

 やはり男性はなにも言わない。

「……なんとか言えよ……この野郎……お前が……甲斐性無し……だから……」

 私は一度言葉を区切ってから、

「……彼女は……死んだ……」

 と言って男性の顔に右の拳を叩き込んだ。頬から鼻にかけて抉るように拳は直撃し、パック詰めされたゼリーを押し出すかのように鮮血が鼻から垂れる。

「……お前が……殺したも……同然……」

 目を見開いては呆然とした表情で私を見つめる男性に、私は言ってやった。

「……現実……見えた……?」

 突風が建物の隙間を縫うように吹き込み、女性の死体にかけていた黒色のビニールシートがはたはたと宙を舞う。

「うわあああああぁぁぁ! ああぁ! あああああああぁぁぁぁぁ!」

 男性は突然絶叫したかと思えば、胸ぐらを掴んでいる私の手を解き、頭を抱えてうずくまった。喉が張り裂けそうなほど大きな声を出していたが、ひとしきり叫んだ後、今度は嗚咽混じりに涙をこぼし始めた。

「……違う……俺じゃない……俺は悪くないんだ……全部……全部……」

 男性のブツブツと呪文を呟くような不気味さに私は一瞬だけ顔をしかめたが、そのあとすぐに立ち上がり、能力を発動した。

「……大切な人……失って……悲しいのは……よく分かる……」

 地面から生えてきた手が男性の足首を掴んだ。

「……突然……理不尽に……奪われて……」

 今度は別の手が手首を掴む。

「……自分が……弱いから……守れなくて……」

 さらに手は生えてきて、掴む部位が徐々に胴体へと近づいていく。

「……それを……どれだけ……嘆いても……変わらなくて……」

 腕が男性の胴体に絡みつき、少しずつ絞めていく。

「……時間は……ただ……進み続ける……過去を……見ていても……縋っていても……なんの役にも……立たない……」

 手は首を掴んだ。

「……死は……不可逆的な……もの……だから……もう……諦めなよ……」

 首を掴んだ手に力が入る。

「……あなたを……また……彼女に……会わせて……あげる……から……」

 それからまもなく男性は白目を剥き、泡を吹いて生き絶えた。


 私は再度慣れた手つきで黒色のビニールシートを女性の惨たらしい死体にかけた。今度は風で飛ばされないように辺を死体の下に食い込ませると、ナイフを取り出して、今度は男性の死体に手を加えた。

 女性の死体を思い出しながら、男性の腹にナイフを突き立てる。あたかもこの男性も吸血鬼の被害に遭ったかのように偽装した。私たちのような人間でなければ、これを吸血鬼がやったのか人間がやったのか、野生動物がやったのか、区別はできないだろう。

 一通り辺りに血肉を撒き散らすと、女性の死体と同様にビニールシートをかけて、自分に返り血が付着していないことを確認してから、両手で包み込めるほどの大きさの円柱の物体をポーチから取り出した。これはレジスタンスが開発した発煙筒である。

 発煙筒の片方の面には小さな穴が空いており、真ん中の一部は小さく凹んでいる。そこに爪を立ててこじ開けると、中から鮮やかな蛍光色の液体で満たされた二つの透明な容器が出てきた。

 私はその容器の蓋を二つとも開けて、入っていた発煙筒に中身の液体を注いだ。それから元の状態に組み立て直してバーテンダーのように振ると、面に付けられた小さな穴から煙が噴き出した。

 天高く昇る煙には特殊な物質が含まれているようで、天の川のようにキラキラと輝いていた。これで少ししたらリストアが死体の片付けに来るだろう。

 発煙筒を地面に置いて、私は大きく息を吐いてから空を見上げた。

「…………まだ……私は……あなたの……ようには……なれそうに……ないです……」

 そう言葉を漏らした。

 黒から水色に変わりつつある空には残月が浮かんでいた。

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