第166話 与えられたから、与えよう 後編

 黄昏時を過ぎ、空は黒色のキャンバスに白い絵の具を細かく散らしたようになっていた。

 私は息を吐く。それは瞬く間に白くなり、空に消えた。

 今日もまた冷たい冷たい夜が訪れる。

「……寒い……」

 体を丸めて縮こまり、身震いした。両手で指を絡め、温かい吐息をかける。それから辺りを見渡して、体の温まりそうなものを売っている露店がないか探した。しかしここは住宅街で、店と呼べるものはあまりない。それにそもそも時刻的にほとんどが閉店しているだろう。

「……ジンジャーエール……飲んでから来たら……よかった……それも……飛びっきり……加熱したやつ……炭酸……全部……なくして……」

 大きなため息をついて、私は真夜中の静かな住宅街を歩いた。

 私は寒いのが嫌いだ。とにかく嫌いだ。炭酸飲料よりも嫌いだ。なぜならどうしても過去を思い出してしまうから。

「……いつだって……大切なもの……失くすのは……こんな……寒い日……だった……」

 体の中心は熱を作り続けるが、手のひらからはどんどん温度が失われていくような気がした。まるで穴の空いたバケツに水を注ぎ込み続けているように、温かくなることは疎か、一方的に冷えていくばかりだった。

「…………」

 私は目を細めて耳をすませ、全身の神経を集中させる。しんと静かな深夜の住宅街には似合わない苦しそうな喘ぎ声が聞こえた。時折鈍い音がして、その度にカエルを潰したときにしそうな音が聞こえた。

 私は小さく息を吐き、脳内でこの住宅街の地図の構築を始めた。

「……距離……おおよそ……三百……メートル……二つ北に……行った……通り……細い……」

 もう一度息を吐いて肉食獣のように姿勢を低くすると、力強く地面を蹴って跳躍した。大通り同士をを繋ぐ細い抜け道を駆ける。設置された大きな箱型のゴミ箱を踏みつけ、壁を蹴り、配管を掴んで体を振り子のように動かして宙を舞い、前進した。

「……まだ……間に合う……きっと……」

 音の発生源の裏通りに到着した私は得物であるハンマーに手を宛てがい、それを探した。

「……見つけた……」

 私の視線の先には月光に照らされてテラテラと輝く粘液を纏った、この世のものとは思えない容姿をした存在が口に肉を運んでいた。そこから数メートル離れた位置にへたり込んで、この状況を呆然と眺めている男性がいた。恐怖に支配されているようで、声も出ない様子だ。

 周辺には生臭い血と糞便の臭いが充満している。

「……なんなの……この……吸血鬼……」

 異様な変化を遂げた個体──それはクモのように複数の細い足、ふっくら丸い胴体を持った黒い塊のようなものだった。その吸血鬼は見た目に似合わずちまちまと転がっている人間を食べている。足先の爪で人間の死体をほじくっては地面に擦り付け、それを何度か繰り返したあと、ようやく肉を口に運んだ。

 ──なにをしている……?

 私は目を細めて注視する。

 次の瞬間、私は地面を蹴ってその吸血鬼の頭を砕こうとハンマーを振り下ろしていた。

 ──悍ましい、悍ましい、悍ましい、悍ましい、悍ましい。

 私の存在に気づいた吸血鬼は体を捻ってその場を離れ、振り下ろしたハンマーは空を切った。

 図体に見合わない素早い動きに僅かに動揺した。しかしこれまでに対峙した吸血鬼の中にはこれよりも圧倒的に俊敏な個体がいたから、この現実に対してはすぐに対応できた。

 ──早く殺さないと……。

 空中で猫のように身軽に回転しつつちょうどいい位置で止めて壁を蹴ると、逃げた吸血鬼に再度攻撃を加えようとハンマーを構えた。

 ──こんな個体……初めてだ……。

 吸血鬼は息を吸って体を膨張させたかと思えば、それを一気に吐き出して耳をつんざくような金切り声を上げた。空気が振動し、衝撃波となって私を襲う。

 咄嗟に能力を発動して地面から手を生やすと、吹き飛ばされた自分をキャッチさせて事なきを得た。

 ──近づけそうにないのなら……。

 地面に降り立ち、生やした手を引っ込ませると、私は息を吐いた。

「……捕らえて……押し潰せ……」

 祈り、体の芯に力を集中させた。すると体の芯は熱し続けて燃えるように赤く輝いた。そして一拍置いて地面から無数に手が生え、一直線に吸血鬼に掴みかかった。

 吸血鬼はまたしても金切り声を上げるが、その行動は想定内だ。

「……進め……止まるな……」

 更に体に力を込めて能力を発動し続ける。地面から生やした手は強度を増し、吹き飛ばされることなく衝撃波に打ち勝ち、吸血鬼の細い足を捕らえた。

「……まだ……まだ……もっと……」

 私は惜しみなく能力を使い、吸血鬼を追撃した。

「……やれる……」

 手首の直径が二メートルほどの大きな手を生み出すと、それで動きを封じた吸血鬼の胴体から頭部にあたるであろう部位を掴み、握りしめた。

「……終わりだ……」

 熟れたトマトを握り潰したように吸血鬼の体は木っ端微塵に弾け飛んだ。放射状に赤黒いものが飛び散り、辺りを汚す。

「…………」

 私は吸血鬼に半分ほど食べられてぐちゃぐちゃになっている女性の死体に持っていた黒色のビニールシートをそっとかけて手を合わせた。その死体の腹は割かれており、腸がぶちぶちと十センチメートルほどにちぎられて外気に晒されていたため、さすがにこの状態で放置するのは気が引けたからだ。

「……ん……?」

 視線を感じた私がそちらへ目を向けると、腰を抜かした男性が恐怖を顔に滲ませながらも憎悪に満ちた目でこちらを睨みつけていた。

「……大丈夫……?」

 私は武器を腰に戻して男性のところに駆け寄った。

 そして立ち上がらせようと手を差し伸べる──。

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