第147話 非現実な恐怖

 私は今までに体感したことの無いような幸福感を味わっていた。幸福でできた白い沼にはまっていて自分の意思では抜け出せない。しかしとても幸せだったから、このままこれがずっと続けば良いと思い、なにもせずただ幸福を享受している。

 ──かと思えば、頭に釘を打つような激痛で目を覚ました。重いまぶたを開けて視覚から情報を得ようとすると、水に絵の具を垂らしたマーブル模様のように歪み、猛烈な吐き気を催した。

 私はすぐさま目を閉じて情報をシャットアウトして頭を押さえてひたすら痛みと吐き気に耐えていると、どこか遠くで扉が開くような音が聞こえた。

 私は恐る恐る目を開けて音がしたほうを見る。視界は相変わらず歪んでいたが、先ほどと比べれば吐き気は少なくなっていた。

 仰天した。

 扉から部屋へと大きな黒い肉の塊のようなものが入ろうとしていた。その肉の塊には手が何本か付いており、体よりも小さな扉を通り抜けようともがいていた。

「──ひぃっ!」

 私は後ずさった。

 肉の塊に割れ目ができたかと思えば、そこから人間の口のような形状をしたものを生み出した。それは口角を上げて不気味に笑った。隙間から見える黄色っぽくなった歯の間で唾液の糸を引いており、気味が悪かった。

 部屋に入ろうとしている肉の塊は唸りながら私を捕まえようと手を伸ばしては空を切っている。

「やだ……もうやめて……」

 私はうわ言のように言葉を漏らしては少しずつ後退した。すると、ベッドの端に辿り着き、

「──ひゃっ!」

 という間の抜けた声と共に私はベッドから転がり落ちた。手から着地したから体に問題はないが、床でしたたか打ったため、手のひらがじんじんと痛んだ。

 私はこの程度のことに構っていられず、痛みを気のせいだと思い込んだ。するとすかさずベッドを盾にするように、頭だけ出して扉のほうを見ると、そこには変わらず肉の塊が部屋に入ろうと唸りながらもがいていた。

「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ──」

 私は咄嗟にベッドの下に体を滑らせるように入れて、耳を押さえて目をぎゅっと瞑った。

 ──なにも聞こえない。なにも見えない。これはただの悪い夢。もう一回眠って……次に目を覚ませば元の世界に戻ってる……だから……大丈夫……ちゃんと眠って……。

 私は念仏を唱えるように繰り返し繰り返し呟き続けては必死に眠るように努力した。だがいつまで経っても眠ればしない。思考は冴えており、私が思う最悪のシナリオを想像しては震えていた。

 ──助けて……助けて……お願い……助けて……。

 ホラーゲームで殺人鬼から逃げて、ロッカーに入って息を潜めている主人公の気持ちがよく理解できた。

 心臓は脈打つ音をこれでもかというほど大きくさせて、全身に血液を送っている。その度に恐怖と緊張との波長が重なり、胃が圧迫されるような感覚を覚え、空っぽなはずなのに中身が込み上げてくるような気がした。

 四肢の末端は小刻みに震える。大きな地震に巻き込まれて砕ける石膏のように、末端が砕けてしまうのではないかと思うほどだった。

 ──早く……お願い……もう一回眠って……。

 奥歯を噛み締めているにもかかわらず、歯はカタカタと音を立てている。

 そこでふと思い出した。遠い昔、誰かから聞いた話だ。それは──『夢の中だと痛みを感じない』というものだ。

 なぜ今、このような話を思い出したのかまったくもって分からないが、走馬灯に似た現象なのだろう。

 私は思い切り額を床に叩きつけた。すると当然ながらかなり強い痛みが走った。それから一拍置いて、じんじんと脈打つように残る痛みとともに熱を孕んだ。

 ──きっと痛いのは気のせいだ。うん、気のせい、木の精……ウッドフェアリーだよ……。

 私は繰り返し額を打ち付けて現実逃避を試みたが、痛みは増すばかりで変わらなかった。それどころか、額から鼻、頬へと生温かいものが垂れていくのが感じられた。

 それを手で拭い取って確認すると、手にはべったりと赤黒いものが付着していた。鉄が混じった生臭さに私は顔をしかめながら床に手をこすりつけて付着したものを剥がした。

 私は顔を押さえてうずくまる。

 ──もう嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……!

 呼吸が荒くなっていき、心臓が死神に握られたようにギュッと縮み、本来の機能が大幅に低下したような気がした。

 ──助けて……。

 十分に脳に酸素が回らなくなり、思考が覚束なくなってきた。それから視界は靄がかかったかのように不鮮明になって、まもなく私は望み通り、意識を失った。


 次に目が覚めたとき、そこは投資家から与えられた自室だった。上体をゆっくりと起こして重いまぶたを持ち上げた。

「……あれは……なんだったんだろう……」

 荒れ狂う海を進む船のデッキに立っているかのように、体が揺れ動くように感じた。だがそれもすぐに治り、視界も体も元の状態へと戻った。

 額に触れると鈍い痛みが走った。

「まさかあんなのが現実にいるなんて……本の中にしかいないものだと思ってたよ……」

 私はベッドから降りて、窓のほうへと覚束ない足取りで向かった。

 窓からは朝日が差しており、どこか遠くから小鳥のさえずりが聞こえてきた。

 ──また日常が始まる……あれはただの悪い夢だったんだ……。

「…………」

 私は窓に映る自分の顔を見て言葉を失った。そこには落ち窪んだ目に、光を失った闇を体現したかのような真っ黒な瞳、顔色は青白くて血の通っていないように思わせるものだった。そして額はピンポン球ほどの大きさの面積が青紫色に変色していた。

「……ああ、これも悪い夢なんだ」

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