第107話 満たされない空間 前編
お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。お腹が空いた。
「……いやなのじゃ」
わらわはいつも空腹だった。物心ついた頃には人里離れた劣悪な環境の孤児院にいて、満足に食事は与えられなかった。だから手足は骨と皮だけで肋骨も浮き出ていたが、腹部だけは飢餓状態の子供特有の膨張が見られた。
「……もういやなのじゃ」
寝泊まりは六畳程度の部屋だった。そこにわらわと同じくらいの年齢の子供約十人と共にせんべい布団で雑魚寝していた。狭くて苦しくて、夜中に何度か起きることもしばしばあった。それでもなんとか眠りについて、また朝を迎える。
この孤児院の食事は質素──と言えば聞こえはいいが、それはもうとても貧相なものだった。一日の総摂取カロリーを年齢ごとの推奨値と比較したら、半分にも到達していないだろう。だからいつも腹が減って仕方がなかった。それだけならまだしも、栄養が足りなくて病気になることもあり、当然ながらここの孤児院は病院になど連れて行ってくれるはずもなく、何人もの孤児が死んでいった。
あまりにもお腹が空くものだから動きたくもなくなってきて、いつも横になってろくに寝返りも打たなかったから、軽度ではあるが褥瘡ができていた。それ以来、面倒くさくとも定期的に寝返りを打つように心がけた。
「……お腹が空いたのじゃ」
日課の掃除を済ませるとすることがなくなる。だからといって予定もないから、今日もなにかをするわけでもなく、天井を見つめて一日を過ごすことにした。明日の朝、目が覚めないかもしれないと思うことは何度もあったが、大した恐怖は覚えなかった。齢一桁にもかかわらずわらわは死ぬことに対して一切の恐怖を抱かなかった。
「……はぁ」
そして気がつけばまた夜になり、到底足りない夕食を済ませて眠りにつく。今日は特に貧相な食事で、食べた気がしなかった。そのような日に限って、このまま二度と目が覚めなければ良いと思ってしまう。
また変わらない朝が訪れる。重い体を起こして食堂に行き、朝食を済ませる。非常に少量で味のしないかなり美味しくないものではあるが、食べないよりはましだから、と自分に言い聞かせながら食べていると、突然、食堂に孤児院の職員がつかつかと入ってきた。
職員はまったく感情のこもっていない冷徹な声で、
「シルヴィア! ちょっと来なさい!」
と言った。
──なんだろう。わらわは別になにもしていないはずじゃ。
急いで残りの朝食を胃に詰めると、わらわを呼んだ職員に近づいた。すると職員は乱暴にわらわの手首を掴み、引きずるように強引に食堂から連れ出した。
「痛い……痛い……痛いのじゃ」
わらわが涙目で嫌がっても職員はなにも言わなければ、こちらに目もくれない。
引きずられていく途中、逃れようとするが、大人の力は強く、栄養失調の子供のわらわでは叶わなかった。
しばらく引きずられていると、職員が突然足を止めた。
「シルヴィア、今日からお前はここで働きなさい」
職員の機械のように温度のない声と共にわらわはその部屋に入れられた。部屋はとても広く、天井もこれまでに見たこともないようなほど高かった。そこには大きな製造機がいくつも並んでおり、重低音を響かせながら規則的な動きでなにかを作っていた。
「……なんなのじゃ……この部屋は……?」
言葉が口から漏れ出す。痛いほどに首を曲げて部屋の全体を眺めていると、
「今日から勤務開始と言っていたシルヴィアはお前のことか」
と低い男性の声がした。体を縮こませて恐る恐るそちらを向くと、薄汚れた作業着姿の小太りな中年男性がクリップボードを持って仁王立ちしていた。
「…………? 働く……? わらわが……? 一体どういうことなのじゃ?」
首を傾げると、
「……お前は孤児院に売られたんだよ」
と中年男性は吐き捨てるように言った。目には僅かに罪悪感が宿っている。わらわがきょとんとして中年男性を見上げていると、
「とにかくそういうわけだ。いいな? ──おい、そこのお前、この新人を教育してやれ」
と近くを歩いていた作業着を見に纏った女性を呼び止めると、自分はそそくさとその場を去っていった。
女性は深く帽子をかぶっていたが、目の下には濃いくまができ、頬はこけていて、この世のありとあらゆる憂鬱を集結させたような顔だということは分かった。
わらわと目が合った女性は軽く会釈をすると、作業着のいくつもあるポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出した。それを広げてわらわに見せた。
「…………?」
残念ながらわらわは字が読めないから、紙を見せられても困惑するばかりだった。顔でそれを表現すると、女性は一度ため息をついてから、紙に書かれているであろう内容を読み上げ始めた。
内容は主に二つに分けられた。勤務時間は朝の五時から夜の十一時までで、昼休憩は三十分設けられているということ。業務内容は布の製造で、我々工員は糸の補充及び機械の正常な動作の監視であるということだ。
わらわはそれを聞いてなぜこれほどまでに女性が疲弊しているかを理解した。そして恐怖する。なぜならこれからここでわらわも働かなければならないからだ。
だが絶望している暇はなかった。早速作業着に着替えるように命じられ、それに着替えたかと思えば、休む暇も与えられずにすぐさま業務を開始させられ、初日にもかかわらず意識が飛びそうなほど働かされた。
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