第108話 満たされない空間 中編

 毎日同じことを繰り返す。材料を運び、機械にセットして、開始のボタンを押す。できあがったらそれを回収して別のところに運ぶ。それを何往復、何重往復も繰り返すという単純作業。その反復行動は学のない子どもであるわらわにも容易に行うことができた。ただそこそこの肉体労働であるから筋肉痛にはなるし、へろへろになって手足の感覚がなくなることも珍しくはなかった。それに加えて残業は当たり前で、当初の聞いていた労働時間が守られないこともしばしばあった。

 だがそのような劣悪な労働環境にも一つメリットがあった。それはこの工場には寮が完備されており、生活の心配がなかったからだ。食事も量は決して多くはないけれども三食きっちりと出てくるし、内容も孤児院よりずっと良かった。それに加えてわらわと似たような境遇の孤児には最低限の読み書きが教えられた。

 そのようにして生活水準が少し上昇して一ヶ月が経った頃、当然ながら給料がもらえた。茶封筒に入れられて一人一人工場長から渡されたそれにわらわは期待で胸を膨らませて開けた。金額は諸々の設備費用が引かれていたとはいえ、最低賃金以下だったが、それでもお金が手に入ったことが嬉しかった。

 わらわはそれを握りしめてその日は街に向かって駆け出した。昔、一度だけ孤児院の職員に連れていかれた‘外’の世界だ。うっすらと記憶にあるだけでほとんど覚えていないからどれもこれも新鮮に感じられた。

 街に足を踏み入れたわらわの目は華やかな店のショーウィンドウの数々に奪われた。上品な洋服を着た紳士淑女のマネキンが並んだ店、艶のある革靴や鞄が並んだ店、目が痛くなりそうなほど大きくて煌びやかな宝石が飾られた店など、わらわには縁のないものだ。だからこそそれらがわらわの目にはとても魅力的に映った。

 しばらく街を歩いていると、空腹の胃を優しく刺激する良い香りがどこからともなく漂ってきた。わらわはすかさずその匂いの元を探ろうとすると、見る見るうちに催眠術がかけられたかのように匂いのするほうへと引き寄せられていった。

 ようやく辿り着いた先には、一件のレストランがあった。それは大変高級そうな外観で、わらわの所持金ではとても賄えそうにはなかったが、それにもかかわらず入店してしまった。

 間接照明が淡く部屋を照らす。アンティークな洒落た家具の数々がシックな雰囲気を醸し出している。ウェイトレスはシワのない制服を身に纏い、忙しくも上品に料理の提供と食器の片付けをしている。客も綺麗な服装で料理を口に運び、騒がしくない程度に談笑している。

 そのような場にわらわはいるべきではないとわらわは理解していた。だけれどもここから立ち去ることもできずに呆然とその光景を眺めていると、わらわに気がついたウェイトレスがこちらに近づいてくる。

 わらわが身を縮こませて見上げると、ウェイトレスは生ゴミでも見るかのような目つきでしっしっと払うように手を動かし、

「ドレスコードは守ってください。それに……ここはあなたのような貧乏人が来るところではありませんよ」

 と吐き捨てるように言ってわらわを雑に店の外に放り出した。通りの石畳みでお尻をしたたか打って、痛かったからそれをさすりながらとぼとぼと帰り道を歩き始めた。上を向いて歩いていないと涙が零れ落ちてしまいそうだったからわらわは空を見て歩いていた。それでも涙がポロポロと溢れてくる。目尻から出た涙は頬を伝い顎から地面へと滴る。

「……わらわ……は……だめ……なのじゃ……? ……食べちゃ……いけない……のじゃ……?」

 途中、あまりにもお腹が空いたわらわは露店で売っていたパンを購入して食べながら帰った。食べたことのない美味しい味に感動したわらわは幸福感に浸っていたが、そのぬるま湯から出ると、決意した。

「……お腹を満たすのじゃ」


 それからは早かった。わらわは進んで残業を行ない、勉学に励み、死にかけながらも工員としての生活を送った。人の入れ替わりが激しいこの職場では三年も残っていれば立派な古株工員で、気がつけばわらわもその一人になっていた。すると色々と工場の内部情報も得られて、それを元にわらわにとって大きな利益になるように行動を起こすことにした。

 ──それによってこの工場は買収された。

「……これで良いのじゃ。これで……しばらくはお腹は空かないじゃろう」

 この工場を欲しがっていた同業者の人に経営の内情を知らせてはリターンとして贅沢しなければしばらく生きられるほどの金を受け取ったのだ。わらわは事実上のスパイだ。当然ながら罪悪感も少なからずあったが、それも空腹になることへの恐怖に比べたらまったく気にならなかった。


 利用価値が無くなって工場から追い出されたわらわは郊外でひっそりと一人暮らしを始めた。そこで初めて冷蔵庫という電化製品を購入した。それはとても素晴らしいもので、扉を開けば中は食料で満たされているのだ。しかもその食料の鮮度を保つことができる。

「……これでいつでもお腹いっぱい食べられるのじゃ」

 わらわは小躍りして冷蔵庫を開けて中から肉と野菜を取り出して、調理を始めた。フライパンで炒めて味付けをして、あらかじめ炊いておいた白米を皿に盛ってその上に乗せて完成。わらわはそれを胃に入れることでこの上ない幸福感を得られた。

「……ずっとこれが続けばいいのじゃ。……お金は……なくなったらまた稼ぐのじゃ。……それまでは……この幸福を享受することにするのじゃ」

 こうしてまた代わり映えのしない日常が始まった。

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