第103話 後悔と前進 中編

 真夜中、私はある音で飛び起きた。それは隣で眠っているはずの弟が唸っていたからだった。苦しそうに喉を押さえて喘いでおり、顔を始め全身の皮膚が真っ赤に腫れ上がっていた。

「……大丈夫?」

 私が恐る恐る弟の額に触れると、尋常じゃないほどの高温を感じ取った。

 全身の皮膚が粟立った。脳は警鐘を鳴らしながら体に指示を送っている。

「……早く病院に連れて行かないと」

 私は家に置いてある残りわずかな紙幣を雑にポケットに押し込むように入れると、弟を抱っこ紐で私の背中にくくりつけて家を飛び出した。

 肺が酸素を取り込もうと目一杯に膨れ上がり、鮮やかな赤色のヘモグロビンが全身に駆け巡るが、足りなかった。脇腹に痛みが走り、乳酸が溜まって脚が重くなる。

 それでも私は速度を落とさなかった。筋肉が張り裂けそうなほど悲鳴をあげているが、今の事態と比較したら些細なことだ。

「大丈夫、お姉ちゃんが助けてあげるからね」

 私の言葉に弟は反応しない。それは壊死してしまいそうなほど冷たくなった手で心臓を握られる感覚のようで、私にとってはとてつもない恐怖だった。

 体が震え上がる。背中には発熱している弟がいて、自分は全力疾走しているというのにもかかわらず震えが止まらなかった。多くの発汗をしては蒸発していき、気化熱として私の体温を奪っていくのだ。

 ──違う、それではない。私は怖かったのだ。間違いない。弟が死んでしまうかもしれないということにどうしようもない恐怖を抱いているからだ。


 ──また大切なものを失う。


 ──私の最後の家族がいなくなる。


 ──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 脚がちぎれてしまいそうなほど疾走して森を駆ける。靴も履かずに飛び出してしまったせいで足はぼろ雑巾のようになっていた。汗で皮膚に土がへばりついて、落ち葉や木の枝で傷を作っているが、痛みも不快さも感じなかった。

「あと少しで──病院に──」

 ようやく森を抜けて郊外に辿り着いた。しかしまだ街まで距離がある。急がなければ弟が死んでしまうかもしれない、なんとしても助けなければと自分を鼓舞してさらに加速した。

 次の瞬間──体の力が抜けた。足がもつれて勢いよく倒れ込んで、咄嗟に出した手を地面にしたたか打った。手のひらがじんじんと痛むが、今はそれどころではない。なぜならそれ以上に痛むところがあったからだ。

 痛みに耐えるために歯を食いしばってゆっくりと起き上がった私は痛むところを触った。するとそこはねっとりとした生暖かい感触がして、恐る恐る触れた手を見てみると、赤色の液体がべったりと付着していた。月明かりに照らされて液体はてらてらと光っている。

 鼻腔を刺激する鉄の臭いに頭を殴られたような感覚を覚えた。

「お嬢ちゃんが殺したんだろう?」

 知らない人の声が聞こえた。男性と思われる低い声は酷くかすれており、まるで脳にヤスリがけをするようなものだった。

「……なんのことですか?」

 私はズキズキと痛む脇腹を押さえて立ち上がった。心臓が脈を打つたびに鮮血が溢れ出し、手で押さえて止血しようとしてもまるで意味がなかった。

 ゆっくりと男性のほうを見る。

「──っ!」

 衝撃的な光景に私は酷く動揺した。それは男性の顔が私が殺害した女性のものと非常に酷似していたからだ。性別による多少の骨格の大きさの違いこそあれど、一つ一つのパーツはまったく同じと言っても過言ではなかった。

 しかし例の女性とは一つ異なる点がある。それはこの男性は私と同様にとてもみすぼらしい格好をしているのだ。ところどころ穴が開いていて薄汚れており、ぼろ雑巾以下の服だった。

 ねっとりとした不愉快な笑みを顔に貼り付けて、

「俺はね……お嬢ちゃんが殺した人のお兄さんなんだよ……」

 とゆっくりと言った男性の手は震えていた。握りしめている斧がカタカタと音を立てている。銀色の刃に付着した鮮やかな赤色がよく映える。

「よくも俺の大切な大切な妹を殺してくれたね。一体、妹のなにが目的だったんだい? ……嫉妬かい? それとも……ただのお金目的とか?」

 私が言葉を発せずにただ呆然と男性を見ていると、男性は悪趣味な笑みを浮かべながら続ける。

「なんで知っている、って顔をしているね。……教えてあげようか? それはね……」

 本能が警告する。逃げろ、早く逃げろと。しかし私の足は動かなかった。たしかに子供と成人男性では一瞬で捕まるのが目に見えているのもあるが、これはそうではなく、一切の不純物が混じっていない恐怖から来るものだった。

 私は生唾を飲み込んだ。嚥下して喉が鳴る。

「……お嬢ちゃんが走り去っていくところを見ていたからなんだよ。……お嬢ちゃんはルンペンプロレタリアートって知っているかい?」

 この男性の言葉の意図を理解しようと、なにも言わずに首を横に振った。

「……ルンペンプロレタリアートってのはね……俺のような無産者のことを言うんだよ」

 男性の濁った双眸が私を見据える。

 ──逃げろ、逃げろ、逃げろ。

「……こうなったらもう這い上がれない。……だけれどもね……こんな俺でも社会の役に立つことができるんだ。……お嬢ちゃんにはそれが分かるかい?」

 ──逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。

 男性の顔からありとあらゆる感情が消えた。不快に思わせる笑みはすべて深層へと引きずり込まれたように消失し、そこにはなにもない。

 今すぐにでも逃げ出したいのにもかかわらず、体は脳の指示を受け付けない。ようやく足が少し動き、じりじりと後方に動くと、男性が踏み込んだ。

 月光に照らされた斧が一閃し、私の頭へと振り下ろされる。回避しなければ──脳は足へと命令するが、動かない。

 反射的に目を閉じてしゃがみ、頭を抱えた。

 空気を切る音が聞こえる。それがどこか別の世界で起きているようで、実感がわかない。しかし金属の冷たい感覚を頭が感じ取り、現実へと引き戻される。

 髪が切れて皮膚に到達する。


 ──私が先に死ぬのか。

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