第104話 後悔と前進 後編

 ぐちゃりとなにかが潰れる鈍い音が聞こえる。

 たしかに私は頭に斧を振り下ろされた。だがいつまで経っても頭がかち割られる痛みは感じられない。

 一拍置いて、遠くで甲高い金属音が聞こえた。続けて低い破裂音と共にある程度の質量のある物体が地面に転がる音がした。

 頭を抱えてしゃがんでいた私がゆっくと立ち上がり、男性のほうを見る。

 そこに男性の姿はなかった。あるのは意味不明な肉塊と、それを不快そうに眺める白衣を着た赤髪の中肉中背な男性だけだった。

 鼻腔を刺激するむせ返るような鉄の臭いに思わず顔をしかめて、白衣の男性を訝しげに見る。

「まったく……子どもを殺そうだなんて、この人も甚だ罰当たりなことをしますね……」

 白衣の男性は視線を一切動かさずに頬をぽりぽりと掻きながらぽつりと言った。その声は静寂な夜空に吸い込まれて消える。

 肉塊に飽きたのか、白衣の男性はこちらに振り返ってしゃがみ、私と目を合わせると、

「……大丈夫かい?」

 と訊ねた。その顔はパーツの一つ一つが整っており、息を呑むほどの美しさだった。煌めく宝石のような赤色の双眸が私を見据える。左目にモノクルを付けており、目の下には[Gevurah]と印されている。

 私が呆然と白衣の男性を見つめていると、

「背負っている──弟くんかな? 随分と体調が悪そうだけれど……病院に行くところだったのかな?」

 と子どもの警戒を解くための柔和な笑みを浮かべて言った。

 その言葉で現実に引き戻された私が頭を下げて、

「そう、そうなんです! 誰かは知らないですが、助けてくれてありがとうございます! では──」

 と街を目指して走り出そうと白衣の男性に背を向けると、

「待って」

 と呼び止められた。

「……こう見えても僕は医者の端くれなんだよ。だからよければ……君さえよければ、弟くんの治療をしてあげようか?」

 そう言った瞬間、僅かに白衣の男性の赤色の輝いていた瞳が濁った。しかし私は違和感こそ感じても、疑うことはなかった。

「あ、ありがとうございます。……でも、私はあまりお金を持って──」

 私が雑にポケットに詰めた札を取り出そうとすると、

「ああ、お金はいらないよ。僕は慈善でやっているだけだからね」

 と遮るように言った。顔は柔和な笑みが張り付いたまま変わらない。私が困ったような表情を見せると、

「少しでも多くの病気を治すことが僕の夢だから。──だから安心して。さあほら、早くしないと弟くんの容態が悪化してしまうよ」

 と言って慣れた手つきで弟を背負うために使っている紐をほどき、弟を抱きかかえた。


 あれよあれよという間に私たちは近くの宿に入り、弟の治療が始まった。その宿は白衣の男性──ヴィタリーが長期間宿泊しているところで、部屋にはいたるところに怪しげな薬品や書物が置かれていた。

「じゃあまずは血液を採取するね。だから君は弟くんが動かないように押さえておいて」

「は、はい!」

 ヴィタリーの指示に従って採血を終えると、今度は得体の知れない液体を注射された。すると見る見るうちに熱が下がっていき、呼吸も安定した。寝息をたててすやすやと眠っている弟を見て私は心底安堵した。

「君も疲れただろう? ほら、おやすみ」

 ヴィタリーは弟の頭を撫でている私を強引に弟の隣に寝かせて、布団をかけた。

「おやすみなさい」

「うん……おやすみなさい……」

 私は生きた心地がしなかった濃厚な深夜に幕を下ろした。


 目が覚めた。それは自然に起きたのではなく、強引なものだった。猛烈な窒息感から本能が脳を叩き起こしたのだ。

 飛び起きるが、それをすぐに防がれた。上体が持ち上がるが、首に宛てがわれた手によってベッドへ押し倒される。それをする者を見て私は絶望した。

「なん……で……」

 首を絞めているのは私の弟だった。小さな手で私を殺そうとしており、私は明確な殺意を感じ取った。自分よりも幼い子どもとは思えないほどの力で絞められており、簡単には手を外せそうにはなかった。だが早く剥がさなければ死にかねない。

 ──嫌だ。せっかく逃れられたからまだ死にたくない。

 私は体内に残された少ない酸素を消費して集中すると、能力を使った。

 ──そこだ!

 頭がクラクラして意識が飛びかけている中、私は覆いかぶさるように首を絞めている弟の腹部に蹴りを入れた。いくら力が強いとはいえ体重は軽いままだから、鈍い音と共に弟の体は吹っ飛んで床に転がった。

 すぐさま私は上体を起こしてベッドから立ち上がると、周りを見回してから弟を見据えた。

 ──ヴィタリーさんは……? どこにいるの……? 弟の体はなにが起きているの……?

 私は考えるのをやめた。思考に注意を割けるほどの余裕はないからだ。

 弟が私に飛びかかる。私は捕まらないように部屋の中を逃げ回った。壁を蹴って机に乗り、僅かな反撃として椅子を投げる。申し訳ないと思いながら椅子を投擲すると、それが弟を捕らえた。頭に直撃したが、とてもではないが効いているようには見えなかった。

「どうなってるの!」

 逃げ続けているが終わりが見えない。弟はまるで疲れる気配がなく、病弱だったのが嘘のようだ。これでは私が先に倒れてしまうから、なにか手を打たないといけない。

 ──これしかないよ。

 弟を窓際に誘導すると、私は獲物に飛びかかろうとする肉食獣のように姿勢を低くして踏み込んだ。全身の力をすべて脚に込めると床の木が砕け、私の体が大きく前に押し出された。

 ──ごめんね。

 持ち上げるように下から体当たりをすると、弟の体は簡単に浮いて、窓ガラスを破って外に放り出された。当然ながら私も一緒に宙を舞う。

 照りつける太陽が背中を焼く。

 弟は背中から、私は足から着地する。私が即座に体勢を整えるが、弟は動かなかった。

 ──し、死んじゃった?

 駆け寄ると、弟の体は末端からポロポロと崩壊が始まっており、立ち上がれる状態ではなかった。なにがどうなっているのか分からない私は慌てふためいて弟を抱きかかえ、

「待って、どうして体が消えてるの? なんで? なんでなんでなんで──?」

 と叫んだ。だが叫んでもどうにもならない。弟の体の崩壊は止まらず、胴体まで到達し、四肢は消失していた。

「待って待って待って──! やだ! いやだ! 消えちゃやだ!」

 涙声で絶叫して弟を抱きしめる。腕にかかる質量が完全に喪失したことを感じた私はゆっくりと弟を抱えていた腕を見た。そこには身につけていたぼろぼろの衣類だけが残っていた。


 喉が裂けそうなほど泣き叫んだ。周りの人間はなにがあったのかと遠巻きに見ているが、みすぼらしい私に誰も声をかけたりはしない。


 それからレジスタンスが私を保護した。弟は擬似的に吸血鬼化していたということを、そして吸血鬼に日光を浴びせると死ぬということを聞いた。それは──弟は私が殺したということを意味した。

 この日から私は弟への贖罪のための人生を歩むことにした。この体が潰えるその日まで、あのヴィタリーという忌ま忌ましい男を殺すことを目指した。

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