第94話 マルクトの記憶 後編

「ケテル様! ケテル様! 私、異能力が使えるようになりましたよ!」

 嬉々としてそう報告すると、私を吸血鬼にしたケテルは私の頭を撫でてくれた。心なしか彼も嬉しそうに笑っていた。

 ケテルに救ってもらったあの日から私の人生は百八十度変わった。原則不死身になった私はケテルの指示に従うようになり、共に生活を送っていた。ケテルが私に人間を食べろと言ったら私はそれを実行する。しかし最初は上手くいかなかった──と表現できるのならまだましだろう。あのときはまるで生きた心地がしなかった。


 あれは寝苦しい暑い夜のことだった。

 私は腹を満たすためと異能力を発現させるために人間を探していた。するとちょうど学校帰りの少年が私の前を通ったのだ。だから迷いなくその少年を襲い、食らった。

 普段はケテルの血肉で生きていた私が初めて人間を食べた。若い人間は嫌な臭いがしなくてとても美味で、また食べたいと願うようになるほどだった。

 しかしそれが許されるわけもなく、私は少年の家族に追いかけられることになった。最初は少年の両親と祖父、兄三人、姉二人、弟一人、叔父だった。それから徐々に増えていき、学校の教師や隣人の老人や青年、挙げ句の果てにはレジスタンスが来て、合計二十人程の人間に追いかけ回された。

 私は森に逃げ込んで息を潜めた。大木の下に隠れて人間たちが諦めるのを待った。自分の脈が途轍もなく大きく聞こえ、口に虫が入っても吐き出さずにそのまま飲み込んだ。それほどまでに気をつけて隠れていた。

 一週間ほど経過しただろうか。人間たちはようやく私を殺すのを諦めたようで、私は森を出ることができた。

 それから私は天涯孤独の死んだとしても誰も悲しまないような人間しか食べないようになった。人間の復讐心が恐ろしいことを身をもって知ったからだ。

 このことをケテルに話すと、呆れた顔をされた挙句、デコピンされた。とても痛かった。


 ケテルと共に生活して三年ほど経過したある日、ケテルが液体で満たされた一本の瓶を持ち帰ってきた。その中身は特別な蒸留酒とのこと。曰く、あの方からいただいたようで、一緒にそれを飲んだ。

 吸血鬼というものは治癒能力の延長線上でアルコールの分解能力が非常に優れている。だからそう簡単に酩酊状態になどならない──だが、この蒸留酒は違った。

 私は少し口に含んだだけでアルコールが回って顔が真っ赤になり、一瞬で蒸留酒が注がれたグラスをテーブルに置いて、ソファに吸い込まれるように横になることになった。

 ケテルはグラス一杯をなんとか飲み干した。しかしまだ泥酔するほどではなく、ソファで横になってうつらうつらしている私に絡んできた。

「セレスティーヌ……セレスティーヌ……」

 私の頬にケテルの血管の浮き出た手が触れる。その手は頬から首へと少しずつ下り、服の上から鎖骨に指を沿わせた。

 それからケテルは私が身につけているブラウスのボタンを器用に片手で外し、小ぶりな胸を晒した。私はそれを振り払おうとしたが、上手く体に力が入らない。

 いつのまにか手は下着の中に到達しており、膨らみに触れた。手に容易に収まる大きさの胸を包み込むように優しく揉んでいる。

 指が桃色の突起に当たり、体が不随意運動を起こして痙攣するように動く。口から艶かしい声が漏れた。

 それを聞いたケテルが満足そうに胸に唇を近づける。

「愛していますよ……セレスティーヌ……」

 ケテルはたっぷりの唾液を絡ませて舌を動かした。その度に私の口からは声が漏れ、頬を赤く染めることになる。

 私の反応を一通り楽しんだケテルの手はいよいよ下のほうへと伸ばされた。下着の上から指を当てて突起をさすったり押し潰したりされ、興奮した私の腰が跳ねる。


 結局私はケテルによって執拗に一日中体を弄られた。途中、意識がなくなったときもあったが、最後までケテルが閨事に及ぶことはなかった。それに加えてこのような行為は後にも先にもこの一度限りのことであった。


 天涯孤独の人間だけを選んで食べて約三十年が経過したある日、私のところにある男がやってきた。その人はレオン・ポートマンと名乗り、私を興味深そうに観察していた。

 レオンは一人で納得したように頷くと、手を黒く変色させて液体生物のようにすると、私の体表に絡ませた。それは細かな針となって私の体を侵食していく。

 痛覚の神経をかき混ぜるような痛みが全身を襲う。

 私が地面で絶叫しながらのたうち回ってその痛みに耐えていると、そこにケテルが現れた。

 ケテルはレオンを見るや否や片膝をついて頭を垂れた。床に這いつくばっている私を一瞥してから、

「レオン様、どうされましたか?」

 と訊ねた。

「第十のセフィラが死んでしまったから、それの補充がしたくてね。まさか君が作るとは思わなかったよ。成長したね」

 余裕のある表情でレオンが答えた。

「有り難きお言葉」

「では彼女をマルクトにするが、いいかい?」

「もちろんですとも。貴方様の命令であれば私はなんであろうと受け入れます」

「それは良い心がけだね、ケテル」

 くつくつと喉を鳴らして笑ったレオンは、私の体に入れる黒い液体の量を増加させた。

 激痛に悶え、私は意識を失った。


 意識が戻ったとき、私はいつものソファで横になっていた。側には椅子に腰掛けて心配そうに私を見つめているケテルがいる。

「ケテル様……?」

 私が口を開くと、ケテルの顔がぱあっと明るくなって駆け寄ってきた。きょとんとしている私を抱きしめて、

「マルクト……良かった……意識が戻って……」

 と涙声で言った。

「……? どうしたんですか? 既に私は吸血鬼になっているのだから、‘希望’を多量に摂取しても大丈夫なんじゃないんですか?」

 私が首を傾げて訊ねると、

「これは初めてのことでしたからね。吸血鬼化というのは本来はあの方が直々に行わなければならないし、あの方にしかできないことだったのですよ。しかしそれが私にもできた。──と言っても今までに貴方しか成功したことがないから、不安で仕方がなかったです。貴方が特殊な個体である以上、通常の個体ならば順応できるものもできないかもしれないですからね」

 とケテルは安堵の表情で答えた。それから手鏡を出して、

「ほら、見てください。これで貴方も立派なセフィラですよ」

 と鏡面を見せた。そこに映る私は見違えた姿だった。黒色、オリーブ色、あずき色、レモン色の四色が混じった髪に、水晶のように透き通る瞳を持ち、左目の下には[Malkuth]という文字が印されている。

「さあ、セレス──マルクト、これからはセフィラとしてあの方にお仕えしてください」


 それから私はケテルからセフィラとしてのルールを一通り説明してもらった。それを要約すると、レオンの発言への返事はすべて肯定しなければならない、命令に背いてはならない、レジスタンスと会敵したら殺さなければならない、現実改変能力を探せ、といった感じだ。


 しかし私は逃げた。


「イヤダ……イヤダ……マダ……シニタクナイ……ケ……テル……サ……マ……」

 こうして私はホロコーストに殺されてしまった。体を特異体の武器で切りつけられ、その部分から崩壊を起こし始めた。どこからともなく聞こえてくる規制音と共に体が崩れていく。

 ──ごめんなさい。……私はあなたのことをずっとお慕いしています。


 思考するための脳もなくなり、後に残ったのは私が身につけていた服だけだった。

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