第93話 マルクトの記憶 中編

 寒さ暑さから解放されていてとても気分が良い。どうしようもないほどの飢餓は感じなければ、痛みも感じない。これが死後の世界というものか。それだとしたらなんて素晴らしいものなのだろうか。

 足や手の指に力を入れる。するとしっかりと曲がるではないか。両手で触れ合うとしっかりと感覚があり、程よい温かさが感じられる。

 それから目をゆっくりと開いた。


 視界に入ったのは記憶にない天井。私がこうなる前の記憶を全力で思い出そうとすると、大雪の中を歩いていたのが微かに蘇った。それからの記憶はない。当然ながらここに来るまでの記憶もない。

 目だけを動かして見回すが、家具の類いも見たことがない。どれもこれも豪奢を極めた職人による一点物の高級品だということが分かる。

 暖炉に焼べられた薪がパチパチと音を立てて燃えている。

 死後の世界というものも随分と現世と似ていると思うのであった。

 私が起き上がろうとすると人と目が合った。その人は青年の風貌で、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。髪は上等な絹のように美しい白さを保ち、肌は新雪のようだった。瞳はダイヤモンドを埋め込んだかのように煌々と輝いている。そして左目の下には[Keter]という文字が印されていた。

「……天使の方ですか?」

 我ながら大変阿呆な質問をしてしまった。

「いや、私は天使ではありません。吸血鬼です」

 その人は表情を一切変えずに淡々と答えた。そして自分のことを吸血鬼だと言う。

 ──どうやらおかしな人に絡まれてしまったようだ。

「そうですか、あなたは吸血鬼なんですね。……ところでここはどこですか?」

 体を起こすと、かけられていた布団が床に滑り落ちる。すると体がやけに通気性が良いと感じた。

 私は自分の体を見る。自称吸血鬼も私の体を見る。なにも着ていなかったのだ。成長していないとはいえ私だって女である。だから見知らぬ青年男性の風貌をした自称吸血鬼に見られるのは恥ずかしい。

「…………」

「…………」

 自称吸血鬼は無言で床に落ちた布団を手に取り、私の体にかけた。

「ここは私の家です。貴方が雪の中で死にかけていたから助けました。どうやら成功しているみたいで安心しましたよ」

 自称吸血鬼が私の頭を撫でる。

「……? 一体なんのことですか? 確かに私は雪の中で眠ったかもしれませんが……」

 私は自分の手足を見ると、それらは綺麗なものだった。日に焼けていない白い肌で、とても重度の凍傷になって紫に変色していたとは思えない状態に戻っていた。

「それで成功ってなにがですか?」

 私が首を傾げると、

「貴方の吸血鬼化にですよ。まだ症状は出ていないようですが、もうしばらくしたらとてつもない空腹感に苦しむことになると思います」

 と感情のこもっていない声で答えた。

「吸血鬼? あの……吸血鬼ってなんですか?」

 当然ながら私も吸血鬼というものは聞いたことがある。しかしそれは空想上の生き物としてだ。

「そうですね……吸血鬼は……簡単に言えば、‘希望’を摂取した人間のことです。しかし人間とは比較にならないほど強化された体を持ち、驚異的な修復力がありますよ」

 自称吸血鬼は外套の内ポケットから手鏡を取り出して、

「貴方は綺麗な瞳をしていますよ」

 と言って鏡を見せた。鏡に映る私の瞳は鮮やかな赤色をしており、人間のそれとは明確に異なっているということが分かる。

「吸血鬼になったからこそ、凍傷による壊死が発生しなかったんですよ」

 手鏡をしまい、自称吸血鬼が私の手を取った。手の甲に指を沿わせて、

「これから多くの人間を食べなさい。そうすれば異能力が使えるようになり、あの方に仕えることもできます」

 と澆薄な笑みを浮かべた。

「あの方──?」

 次の瞬間──私は猛烈な空腹感に襲われた。胃が燃え上がるように痛み、ソファから転がり落ちた。呻き声を上げて涎を垂らし、本能が血肉を欲した。

 私は床でうずくまって歯を食いしばってなんとか耐えようとする。

 ──落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 背中に嫌な汗が滲む。

「発症しましたね」

 自称吸血鬼が片膝をついてうずくまっている私を起こして立てている足にもたれかけさせると、彼は自分の親指を人差し指の爪で切った。そこから真っ赤な血液が垂れてくる。

 私はそれが欲しくて仕方がなかった。理性で欲求を抑えているが、それももう限界だった。

 糸が切れる。

 私は上半身の筋肉だけで釣り上げられた魚のように跳ねて動き、目の前にある自称吸血鬼の出血している親指に噛み付いた。口に広がる鉄の味。それは今までに食べたありとあらゆる高級食材に勝るもので、至上の喜びを感じた。

 ──美味しい。

 私は体の芯が熱くなるこの最高の幸福感を享受した。

 しかしこれだけでは気が済まなかった。まだまだ空腹感は完全に拭いきれていないのだ。私はそのまま歯を立てて親指を食いちぎろうと顎に力を入れた。

 だが指を食いちぎることは叶わなかった。歯を立てるが、皮膚一枚たりとも切れはしなかった。

「痛いですよ」

 自称吸血鬼は私の顔面を軽く払った。手が額に当たった瞬間、私は後方に大きく仰け反り、床に後頭部を打ち付けた。その威力は人間の出せるものとはかけ離れており、本能が警鐘を鳴らした。

 脳が揺れて視界がぐらぐらと不安定に動く。

「あぁ……あぁ……痛い……痛い……痛い……」

 私は倒れたまま後頭部を押さえて言葉を漏らしていると、自称吸血鬼が私を起こしてソファにもたれかけさせた。

「噛まれたら痛いですからね。もうしないでくださいよ」

 柔和な笑みを浮かべた自称吸血鬼は自分の右腕をもぎ取った。肘から下が床にぼとりと音を立てて落ちる。それを拾い上げると私に見せ、

「さあ、食べたければこれを食べてくださいね」

 と言って動物に餌付けするように前腕を揺らした。

 私は一切の躊躇なくそれに噛み付いた。今度はちゃんと歯が食い込んで食べることができた。一心不乱にそれを咀嚼しては嚥下するを繰り返す。

 筋肉が多くて硬かったが、それでも自称吸血鬼の前腕は非常に美味しかった。

「それほどまでに喜んでくれるとは思いませんでしたよ」

 私の頭を‘右手’で撫でた。

 食べている腕をその場に落とし、呆然と目の前の生物を見る。それから手から滑り落ちた自称吸血鬼の前腕を見た。その二つを交互に見ていると、

「ん? どうかしましたか?」

 と自称吸血鬼は首を傾げた。

「あの……手……今し方腕をもぎましたよね」

「私ともなればこの程度の怪我は一瞬で治せますよ」

「それって怪我の範疇なんですか? ちぎれてもまた生えてくるトカゲの尻尾みたいなこと言わないでください」

「私にとっては致命傷以外はすべてかすり傷ですから。どれほどの外傷があろうとも特定の手段で首を切断されたり脳幹を損傷しない限りは大丈夫です」

 一拍置いて、

「ちなみにこれ……貴方も同じですよ。再生速度は遅いかもしれませんが、それでもやはり腕の一本や二本落ちたところで問題はありません」

 と続けた。

「……はぁ、そうなんですか。吸血鬼って便利なんですね」

「──でも貴方は日光を浴びてはいけませんよ。十分も経たないうちに死ぬでしょうから。それが嫌ならばできるだけ多くの人間を食べてください」

「は、はい……分かりました」

 こうして吸血鬼となって腹を満たした私は、自称吸血鬼から吸血鬼の能力や体質について教えてもらった。それから自称吸血鬼は──ケテルと名乗っていた。

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