第92話 マルクトの記憶 前編

私はセレスティーヌ。父は大きな証券会社の社長で、私はいわゆる社長令嬢の立場だった。両親はひとり娘である私を大層可愛がってくれた。

 しかしそれはいつまでも続かない。不況によって証券会社は倒産してしまったからだ。それに絶望した父は一家心中をしようとした。

 父は母を刺し殺した。あの瞬間のことは鮮明に覚えている。包丁で左胸を刺していた。鮮やかな赤色をした血液が傷口から溢れて出ていたのはとても印象的だった。

 それから父は私を殺そうとした。しかし恐怖から私は逃げた。──否、逃げていない。本能から私は父に殺される前に殺した。家にあった拳銃を手に取り、それで父の額を撃ち抜いた。トリガーを引くのに一切の躊躇がなかったのが自分でも恐ろしかった。

 父はその場で崩れ落ちた。しばらくして恐る恐る父の体に触れてみると、それは人間の温度を保っていなかった。

 こうして一家心中に巻き込まれたけれど、私一人だけ幸運なのか悪運なのか生き残ることができた。それからだ。それから私は一人で生きていくことになった。

 私は昔から人形収集が趣味で、それを使って路傍で人形劇をしては日銭を稼いで暮らしていた。不景気だから大した額は稼げなかったが、それでも餓死しない程度には手に入った。しかし治安維持のための規制が厳しくなってそれもできなくなってしまい、私は大変困った。稼ぐ手段を失ったのだから。

 一度だけ路傍で人形劇をしていると、三人の警察が来て人形を壊し、私に暴力を振るっていった。だからもう二度としようとは思わなかったし、そもそも人形を壊されてしまったからできなくなった。

 暴力によってそれから二、三日は血尿が出た。肋骨は折れていないが、息を吸うたびに痛んだ。


 私は道を歩く。行く宛もなくただひたすら歩く。

「……どうしよう……どうしよう……どうしよう……なんで……なんで……なんで……こんなことに……なったの……」

 綺麗な洋服を着て華やかな世界で両親から溢れんばかりの愛情を貰って、年頃になったら良い人と結婚して、子供を産んで、それでよかったのに。

 それなのにどうして今はこんなにも惨めな思いをしなければならないのだろうか。

 廃業した洋服店のショーウィンドウのガラスを見る。そこにはぼろぼろの洋服を着たみすぼらしい子供が立っていた。それが自分だと気づくのに少し時間がかかった。なぜならそれを認めたくなかったからだ。

 自分の髪の毛に触れ、指に絡める。キューティクルが失われてパサパサの枝毛になっていた。髪を手櫛で梳かすが、埃や皮脂によって固まっており、上手く指が通らない。

 頬を涙が伝う。

「……あのとき……パパと……ママと……一緒に……死ねば……よかった……」


 私は歩く。どこか分からないが、歩き続ける。脚に乳酸が溜まり、まるで足首に重りをくくりつけているように重くなった。それだけではなく、道には雪が降り積もっており、大変歩きづらい。

 お腹も空いた。ここ一週間はろくなものを食べていない。胃に入れたのは雨水と雪ぐらいだ。それによって胃は過剰に胃液を分泌して常にキリキリと、そして燃え上がるような痛みがした。

 末端の感覚がなくなってきた。手は何度も握っては開いて、握っては開いてを繰り返したり、温かい息を吹きかけたりするがまるで意味がない。

 道端に腰を下ろして靴と靴下を脱ぐと、指は浮腫んでいたり、水疱ができていたりして凍傷になりかけていることが見て取れる。しかし今の私にはこれを対処する術がなく、見なかったことにして靴を履いて立ち上がった。

 そしてまた歩き出す。


 視界が暗くなってきた。降る雪もどんどん増加していき、体にも積もってきた。今なら雪像になれそうだ。

 ──もう疲れた。

 私は雪の中で木を背にして腰を下ろして自分の手を見た。皮膚が人間とは思えないような紫色に変色しており、凍傷の症状が進んでいるのが判明した。助かったとしてもおそらく指は切断しなければならないだろう。

 ──助かるわけないか。

 ここがどこかは分からないが、ここ数日間に人を見た記憶がないのは確かだ。

 空腹感はなくなり、指の痛みも感じなくなった。

 曇天を見上げていると、こんなにも雪が降って寒いのになぜだか急に暑くなってきた。私はおもむろに身につけているものを脱ぎ始める。まずはマフラーを放り、次に羽織っているコートを脱ぎ捨てた。それから編み上げの紐を解いてジャンパースカートをその場に落とすと、ブラウスのボタンを引きちぎって無理やり脱ぎ、上半身はキャミソール一枚だけになった。それも脱いでしまい、成長していない胸を晒した。そして下に履いているドロワーズも脱いでしまい、秘部を外気に晒した。最後にブーツを引っ張って脱いでその辺に放り投げ、靴下も同じようにした。

 降り積もる雪のベッドに倒れ込み、私は意識を黒い沼に沈ませた。

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