第91話 デウス・エクス・マキナ
突然、マルクトの皮膚が湯気を出して溶け出した。鼻腔を刺激する嫌な薬品の臭いが周辺に漂う。日に焼けていない傷一つない美しい白い肌は茶色く変色して見るも無残なものになっていた。
声と呼ぶにはあまりにもかけ離れた音を発してうずくまっている。
出ている湯気が止まり、薬品の臭いも消えた頃、ようやくマルクトだったものが立ち上がった。先ほど切断した近くに転がっている頭部を持ち上げて首にはめ込んで、首を曲げたり回したりしてポキポキと音を鳴らす。
マルクトはスチームパンクの申し子のような姿をした人形になっていた。体には無数の歯車が埋め込まれており、動くたびに金属が擦れる音がする。
「コレデヨウヤク……ホメテ……モラエル……」
マルクトは僕の頭部を砕こうとゆっくりと手を振り上げた。満身創痍の今の僕は立ち上がることは疎か、回避するために横に転がることもできない。
──やはり僕はダメだったんだな。
「サヨ……ナラ……」
金属の手が振り下ろされる。僕は目をつぶって想像を絶するであろう痛みに備えた。しかし痛みはいつになっても訪れない。
突然、
「さよならするのは君のほうだよ」
という低めの女性の声とともにピーという規制音が聞こえた。
「……ナンデ……イルノ……ソウテイガイ……」
金属が砕ける音と規制音が断続的に耳に入る。
「イヤダ……イヤダ……マダ……シニタクナイ……ケ……テル……サ……マ……」
それもしばらくすると規制音だけになった。
その人の足音が聞こえてきたが、僕の近くで消えた。衣服が擦れる音からしゃがんだのが分かる。するとその人はおもむろに僕の体の下に手を入れて、うつ伏せに倒れている僕の体をひっくり返して仰向けに寝かせた。
その人と目が合った。その人は僕より二、三歳上の女性でだった。橙色が混じった黒髪のポニーテールに、橙色の瞳、右目は前髪で隠している。手には刃の部分に黒地に赤色の文字で[SENSORED]と書かれたサーベルを握っている。羽織っているコートにも同様の模様があり、それは電光掲示板に流れる文字のように動いている。──ホロコースト部隊の一人だった。
「こんばんはデルタ部隊の君。よく頑張ったね」
女性は柔和に笑って僕の頭を撫でた。
「さあ、後始末はリストアに任せて、私たちは帰るとしようか。……立てる?」
僕の手を掴んで起こそうとするが、あいにくこちらは体に力が入らない。
「……ダメっぽいね。それに──」
僕の絶叫が響き渡る。なぜなら女性は僕の肋骨のある辺りをつんつんとつついたからだった。
「──折れてるね、これはまた派手に。何本いってるかな? 今のうちに治しておく? どうする?」
「…………」
女性は痛みから空を呆然と虚ろな目で眺めるだけで反応しない僕の頬をペチペチと叩き、
「治す? 治さない? どうするの?」
と大きな声を出した。僕は全力で首を横に振ってそれを嫌がった。その理由は非常に単純。入隊直後にアンジェラにされたことを思い出したからだった。わざわざ肉を切って直接怪我している部位に血液をかけなければならないのだ。意図的に切開するなどもう二度とやりたくない。
「はい、じゃあ治しまーす」
「……やだぁ……やだぁ……痛いのやだぁ……」
壊れたラジオのように言葉を発する僕を尻目に女性は慣れた手つきで服を脱がせて上半身を裸にした。
「……やだぁ……やだぁ……やだぁ……」
「はいはい、文句言わないの」
「……やだぁ……やだぁ……やだぁ……やだぁ……やだぁ……やだぁ……やだぁ……」
女性がおもむろに取り出したナイフを真っ赤に腫れ上がっている脇腹に突き刺した。傷口から血液が溢れ出す。
「痛い痛い痛いっ! 痛いですって!」
「痛くなーい、痛くなーい」
傷口を広げるようにナイフを動かした。その度に激痛が走る。
「痛いですから! いやもう、本当ちょー痛い!」
痛みから逃れようとのたうち回ろうとするが、圧倒的な力で押さえ込まれており、それは叶わない。
「じゃあ……痛いの痛いの飛んでいけ。ほら、痛くなくなった」
「変わらないですよ、それ! まだ痛い──痛くない……」
「ね? 大丈夫でしょ?」
女性は再び慣れた手つきで僕に服を着せた。
「治療はおしまい。さあ、帰ろっか」
「待って、まだナスチャが捕らわれて──」
「大丈夫。原因が死んだから胃能力も解除されていると思うよ。だからあとはリストアに任せればいいの。君は少し頑張りすぎた。だから本部に戻ってゆっくり休みなよ」
「……分かりました」
僕をお姫様抱っこすると、街を歩き出した。
「そういえば言ってなかったけれど、私はシャーロット・マーフィー。見ての通りホロコースト部隊所属。よろしくね、新人ちゃん」
「えっと……あ、はい、よろしくお願いします。僕はセシリアです。セシリア・フォスター」
「はいはい、セシリアね。覚えておくよ」
こうして僕は無事に帰還することができた。
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