第86話 第十のセフィラ戦 前編

 黒色、オリーブ色、あずき色、レモン色の四色が混じった長い髪を夜風になびかせ、水晶のように透き通った瞳は漆黒の夜を吸い込んでいる。左目の下に印された[Malkuth]の文字。おとぎ話から出てきたようなロリータファッションに身を包んでいる。風船のように膨らんだスカートから折れてしまいそうなほど細い脚が見え、小さな手は白い手袋に覆われている。

「あなたを殺せってレオン様から命令が出てるの。それを遂行しないと私は殺されちゃう。だから私のために死んで」

 その声は恐ろしいほど冷たく、感情がこもっていなかった。かろうじて感じ取れるのは畏怖の念だけで、その対象もここにはいない。

 半年前に会敵したときとは大違いだった。ねっとりとした殺気を体に纏わりつかせて僕の首を狙っている。

「そうか、吸血鬼も大変だな」

 僕はクレイモアを両手で持って構える。マルクトがどのような動きをしたとしても対応できるように、小さく息を吐いて集中した。

 マルクトはゆっくりと両手を前に出して、左右の指に糸をピンと張った。

「素直に殺されるなら一撃で殺してあげる。この糸で首を切るの。大丈夫、痛みはないから。ギロチンみたいに死ぬまでしばらく意識は保たれるかもしれないけれど、きっと他の方法に比べたら痛くない。だから大丈夫」

 マルクトは薄幸に笑い、続けてとてつもなく恐ろしいことを言った。

「そうでないなら私の人形になってもらう。この糸を体中の関節に巻きつけて強引に動かすの」

 マルクトは人差し指を折り曲げて、

「──こんな感じにね」

 と言って哀れむような視線を僕の背後に向けた。

 僅かに漂う空気が変化したのを察知して僕は前に体を倒した。殺意のない一撃が僕を襲う。

 それはモニカによるものだった。サーベルを握る手は震えている。目には大粒の涙を浮かべており、血の気の引いた顔には恐怖が貼りついていた。

「人形にするときに体の中に無理やり糸を刺して入れてるからきっとそれが痛いんだよ。なにもしてなくてもじんじんと痛むだろうし、動けば傷が広がって更に痛みが増すと思うよ」

 マルクトは更に指を曲げて糸を操った。その度にモニカは顔を歪めて苦痛に喘ぎ、僕の首を切り落とそうとサーベルを振るった。

「やめろ、マルクト!」

 僕はモニカの攻撃をいなしながら怒鳴った。互いの得物の金属が衝突する甲高い音が阿鼻叫喚の狂騒の街に吸い込まれては消えて、吸い込まれては消えてを繰り返した。

 モニカの顔は更に白くなって息も荒くなっている。

 ──自分と同程度の実力の相手と戦いながらマルクトを仕留めるなど僕一人では不可能だ。一体どうすれば……。

 屋根の段差につまずいた僕の体は後ろに倒れていく。

「しまった──!

 モニカは僕の首へとサーベルを振るう。視界に入る映像がスローモーションのようになっている。時間がゆっくりと進み、まるで次の僕の行動を待っているようだった。

「悪いな、モニカ」

 地面すれすれで体を捻って片方の足を着地すると、もう片方の宙にある足でモニカのサーベルを持つ手を蹴った。しかしサーベルは手から離れない。

「無駄だよ。手と武器は糸で繋いであるから取れない。それとも──仲間にもっと苦痛を与えたいの?」

 マルクトは愚弄するように笑っては楽しそうに指を動かした。吊っている糸を張ってモニカの体を強引に動かした。前腕が肘の可動域を超えて曲がり、骨が折れる音が聞こえた。

 刹那、痛みからモニカが絶叫した。あらぬ方向に曲がった肘を見て必死にそれを元に戻そうとするが、動かそうとする度に激痛が走る。それに加えて糸が妨害しており、元に戻すのは不可能だった。

 痛みからうずくまって唸るだけになったモニカを横目に、

「こんなこともできるのよ」

 と得意げに言って指を反らせた。

 次の瞬間、モニカが自分の首を落とそうと自身が握るサーベルを首に宛てがった。職人によって研がれた刃は鋭く、すぐにモニカの首の皮膚を裂いた。傷口からじわじわと血液が滲み出す。

 僕が咄嗟にサーベルを持つ手を切り落とそうとクレイモアを振り上げると、

「ストップストップ、それをやっても意味ないよ。腕を切り落とされたとしても首には糸が繋がれているから、簡単に首をへし折ることができるよ」

 とマルクトが制止した。

「だから今のうちに暇乞いをしておいたら? それが最も有意義な過ごし方だと思うよ」

「……もうダメ……体が言うことを聞かないよ……せっかく生き残れたのに……」

 モニカの目から涙がポロポロと零れた。

「待て、諦めるな! 僕がなんとかする!」

 しかし今の僕は画期的な打開策は持ち合わせていない。

「もうすぐ頸動脈に到達するよ。……それにしても人間ってなんでこんなにも脆いのかしら。血管の一つを傷つけただけで死んでしまうなんて、とってもかわいそうね」

 マルクトは天を仰いで月を抱擁した。

「お前はなにか勘違いしているようだな。確かに人間はお前ら吸血鬼とは違って脆弱なことこの上ない。だが──今の僕たちには当てはまらないんだよ」

 言い終わると同時に僕はマルクトの首を落とそうとクレイモアを薙ぎ払った。マルクトは表情を固まらせたが、冷静に判断して片手でクレイモアを押さえると、モニカの首を切断した。

「伏せて!」

 遠くから聞こえたヴェロニカの声に従い、僕はマルクトに止められていたクレイモアを力尽くで取ると、姿勢を低くした。僕の頭上を銀の弾丸が通り過ぎていく。

 だが弾丸はマルクトには当たらない。当たる直前に糸で切り裂かれて金属はバラバラに砕け散った。細かくなった金属が僕に降り注ぐ。

「よくあの距離で拳銃を撃とうと思ったね。それもかなり精度が高い。……先にあっちを吊るべきだったね……」

 マルクトの視線は僕たちが宿泊していた建物の屋上に向いている。月明かりに照らされた銃口が一閃した。

 視線が僕から外れたのを確認した僕は踏み込んでマルクトに体当たりをして屋上から落とした。僕も一緒に落下していく。

「ナスチャ、頼んだからな!」

 空中で僕がモニカの身を案じて叫ぶとナスチャは、

「命令されるのは嫌いなの!」

 と言いながらもモニカのほうへひょこひょこと跳ねていった。

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